__ もじゃもじゃ頭(アフロ)の久能整(くのう・ととのう)くんが、探偵みたいな役どころを演ずる、田村由美原作コミック『ミステリと言う勿れ』のドラマ版、
第一話の、密度の濃すぎる展開の見事さには、感嘆いたしました。
名言が次々と飛び出してきましたが、その中でも白眉といえるのは……
>真実は一つじゃない
2つや3つでもない
真実は人の数だけあるんですよ
でも事実は一つです
…… この言葉ですね。
真実とは、その人にとっての真実(本当のこと)なのであって、客観的事実とはピッタリと一致しないものなのですな。
この事実(ファクト)とは、この場合、
昨今もてはやされる、「学術的な根拠」をあらわす【エビデンス(evidence)】と同じものと見てもよいでしょう。
__ 田村由美の原作コミックの、該当部分の台詞を引用してみよう。
>たとえばAとBがいたとしましょう
ある時
階段でぶつかって
Bが落ちてケガをした
Bは日頃から
Aからいじめを受けていて
今回もわざと落とされたと主張する
ところがAは
いじめてる認識など全くなく
遊んでるつもりでいる
今回もただぶつかったと言っている
どっちもウソはついてません
この場合
真実ってなんですか
刑事 青砥「それゃAはいじめてないんだから
Bの思い込みだけで
ただぶつかって落ちた事故だろう」
そうですか?本当に?
いじめてないというのは
Aが思ってるだけです
その点Bの思い込みと同じです
人は主観でしかものを見られない
それが正しいとしか言えない
ここに一部始終を目撃した人がいたとして
更に違う印象を持つかもしれない
神のような第三者がいないと見きわめられないんですよ
刑事 青砥「それは屁理屈というものだろう」
だから戦争や紛争で
敵同士でしたことされたことが食い違う
どちらもウソをついてなくても
話を盛ってなくても
必ず食い違う
AにはAの真実がすべてで
BにはBの真実がすべてだ
> 真実は一つじゃない
2つや3つでもない
真実は人の数だけあるんですよ
でも事実は一つです
起こったことは
この場合は
AとBがぶつかって
Bがケガしたということです
警察👮♀️が調べるのはそこです
真実とかいうあやふやなものにとらわれるから
冤罪事件とか起こすのでは
[※ 田村由美『ミステリと言う勿れ』第一巻より、、、エピソード1には圧倒されたので、電子書籍で購入して愛蔵しているほどです♪]
…… 圧巻の畳みかけですね、痺れます。この「真実は、人の数だけある」という真理の言葉は、
宗教的に「真実はひとつ」という無知蒙昧さを粉々に砕いてくれます。
真実とは、神のみぞ知るものかも知れないが……
「神の真実に過ぎないのではないか」とも思う。
わたしたちにも神性はそなわっていて、わたしたちの真実が神の真実であることもあるだろう。
「真実はひとつじゃないが、事実はひとつである」と云う。しかし、その事実とやらは、(最近の科学実験では)個々の神々の量子的な思いで変化するものなのではなかったでしょうか。
それじゃあ、その事実(客観的事実)とは、わたしたち人間がおのおのの神性で見る「真実」とどこが違うのか?
そんな疑問から投稿した拙稿をアップします。(加筆しています)
🔴 真実と事実
> 真実は、ひとの数だけある。事実は、ひとつです。
真実はひとつではありません。
[※ 『ミステリと言う勿れ』久能整(菅田将暉・演)より]
…… AさんとBさんが、階段でぶつかって、Bさんが転げ落ちて怪我をした。【エビデンス(事実)】
・Bさんが言うには、いつもAさんから虐められていて、今回もAさんから突き落とされた。
【Bさんにとっての真実】
・しかし、Aさんが言うには、私はBさんを虐めてなんかいないし突き落としたりもしていない。ただ階段の上でぶつかって、Bさんが転げ落ちただけだ。
【Aさんにとっての真実】
…… 同じ現象(事件)の当事者同士でも、おのおのAさんとBさんの観方は異なる。
が、それぞれが当人にとっての真実である。
これを傍観していた者がいれば、傍観者の方が当事者よりも事実認識はしやすい。傍観者の観察の方が「事実(エビデンス)」に近いと言えるだろう。
これが、人の数だけ「真実」があるということである。
最近の学者やコメンテーターが多用する言葉、「エビデンス(学術的な根拠)」を嫌う者がいるが……
こうした消息を踏まえれば、なにも格好つけて「エビデンス」などと横文字を使っているわけではなく、特別感のある言葉として「エビデンス」を使わざるを得ない事情があるのである。
ざっくり言えば、
一般に「科学」とは認められていない学問、
例えば心理学や経済学は、それぞれの観方(真実)によって「傾向を示唆する」ことはできるが、
心理学・経済学の識見は「エビデンス」としては使えない。
再現性がないからである。
数学・物理学・化学や脳科学・遺伝子学・統計学📈とかの識見やデータは、間違いなく「エビデンス」として使えるのである。
いつでも、どこでも検証可能だからである。
いまは、多様性の時代などといって、すべてのあらゆる人の真実(観方、中には「思い込み」も入る)に触れようとしているが、それではキリがない。決してまとまらない。
事実(客観的事実≒エビデンス)を基にして構築するのが、一番自然で手間暇かからないであろう。だから、エビデンスという用語は極めて大切なものである。
ここで、「地獄はある」という真実がある。
しかしここに、「地獄は自分がつくる、自分から地獄に進む」という霊的な事実(伊勢白山道リーマンさんによる)がある。
しかし、その霊的な事実が確かにそうだという検証を行なうすべがない。(地獄を証言できる者がコノ世にいないから)
それは、エビデンスではなく、リーマンさん個人の真実である可能性もある。
ここで、おのおのの霊的な真実は、エビデンスを知ることにより変容するだろう。(量子力学)しかし、そのエビデンスが事実であるという確証はどこにもない。
自分の真実が、エビデンスに合致したとき、それは覚りというのだろう。
確証(エビデンス)なしに信じることを、「信仰」というということなのかな。「不合理ゆえに我信ず」とも云う。
三次元の真実は、四次元では必ずしも真実ではない。同じことが四次元と五次元との関係においても言える。(相似律)
さまざまな局面(次元)での真実は色々あるが、エビデンスはひとつである。
つまり、ラマナやニサルガダッタは、自分の真実と事実(エビデンス)を一致させたのだろう。
そうなると、そこに個我を超えたものを観たのであろう。個我とは事実なのかと探究して、真我という事実に辿り着いた。
しかし、ほんとうにそれはエビデンスなのであろうか。
それが事実であってもなくても、わたしたちは目の前の生を生きるしかない。生きるとは、そんなぐあいに曖昧模糊としている。
> 「この世で一番大切なのはリラックスしていることですよ」(世之介)
> なんでもない一日のような人だった。だからこそ失って初めて、その愛おしさを知った。
[※ 共に、吉田修一『永遠と横道世之介』より]
🔴 神の存在証明
> 「神がいる」と言うことは、神がいるということであり、
「神がいない」と言うこともまた、神がいるということである。
…… 明治政府の招いたお雇い外国人で、その哲人的な風貌から「教養の人(man of culture)」として深く尊敬された、ケーベル博士🎓による神学的な言葉である。
日本の哲学と「教養」という観念は、このケーベル博士を起源とする。
生かされていることに感謝する聖句を理解する者ならば、すんなりと頷ける言の葉であろう。
ニーチェに限らず、神を否定できるのは他でもない、神がいるからである。
西洋では、神はいみじくも “ First Cause ” と呼ばれている。被造物はファーストになれない。すべての淵源には神がいる。
[※ ケーベル博士🎓 (wikiより)>ラファエル・フォン・ケーベル(ドイツ🇩🇪: Raphael von Koeber、ロシア🇷🇺: Рафаэ́ль Густа́вович фон Кёбер, 1848〜1923年)は、ドイツ系ロシア人の哲学者・音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。
> 1898年5月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に出講し、ピアノと音楽史を教えていた(1909年9月まで)。
>東京帝国大学文学部での1893年(明治26年)から1914年(大正3年)までの出講では、夏目漱石も講義を受けており、晩年に随筆『ケーベル先生』を著している。他に教え子は久保勉、深田康算、西田幾多郎、井上円了、安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、小山鞆絵、九鬼周造、和辻哲郎、深田康算、大西克礼、波多野精一、田中秀央、武者小路実篤、小野秀雄、正親町公和、木下利玄、下村湖人(内田虎六郎)、志賀直哉、島村盛助など多数おり、大半が『思想 -ケーベル先生追悼号-』(岩波書店、1923年8月)に寄稿している。和辻は後年『ケーベル先生』(岩波版「全集」第6巻に収録)を出版した。
> 音楽家としての教え子には、東京音楽学校の石倉小三郎、幸田延と瀧廉太郎、ピアノの教え子に橘糸重、神戸絢、本居長世などがいる。]
…… この「真実は、人の数だけある」という言葉は、ゆめゆめ忘れてはならない叡智の言葉である。
> 私の生きる世界と あなたの生きる世界は違う。一緒だと思うからモメる。(専念寺ネコ坊主かく)
おのおのの自我の見る真実は、当人からしたら真実(=本当のこと)であることは間違いのないことなのである。
しかし、それは実相を観ていない。となると、自我から離れなくてはならないわけである。
この、「真実」を巡る言葉が、霊的修行をしなければならないという根拠を如実に示している。
わたしたちは、真相を観ていないから。
真相、つまり世の実相を知るために修行している。
我見(=私的な真実)に囚われているかぎり、真相はわからない。
なぜ真相にこだわるのか、
真相とは普遍であるから。
真理とは、不変にして普遍。
刻々と変わりゆくものを相手にしている限り、そこに「安心」はない。
つまるところ、メンタルを安定させるために普遍を求めるのではないのか?
次に述べるドラマの台詞が、気に掛かった。
🔴 価値観のちがい
ドラマ『何曜日に生まれたの』は、いままで見たことのない視点から描かれていて、観る気もないのに惹きこまれた。
書斎で、作家の公文が吐露した言葉が心に引っ掛かった。(第二話 38分辺り)
> 「公文ちゃんてさ、こうゆう古典とかしか読まないのに、なんで純文学とか書かないでラノベ(ライトノベル)なの?」
「若い人が読まないものを書いて何が楽しい?
おれは価値観が固定した人間が苦手なんだ。
価値観が固定すればメンタルは安定する。
だけどそれって、他をうけいれづらくするってことにならないか?
そうなると、よくてカンショウ(鑑賞?)にしかならないのさ
何を読んでも、見てもね。
カンショウは記憶に残りづらい。
だからおれは、まだ価値観の固定しない世界に向かい合いたいんだ。
物語を衝撃とともに長く記憶してほしい、よくもわるくもね……
たぶんおれは、そういう承認欲求の物書きなんだと思う」
……仏教の「 安心立命」とは、上記の公文先生によれば、メンタルの安定=価値観の固定ではないのか?
聖ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、普遍の「真我」に一途だから、メンタルは盤石の安定感を誇る。
日本人のように、四季の移ろいに「情緒」を感じている国民性は、未練たらしく名残惜しむ執着を弄んでいるようだ。
刻々と変わりゆくものに焦点を合わせて、感情移入していては、とてもとても不変(不易)には辿り着けない。
それじゃあ、融通無碍でカラッと拘りのない自由な眼差しは到底かなうまい。
果して、それでいいのか?
そこらへんの消息が肝なんだよね、きっと。
だから、松尾芭蕉の「不易流行」が出て来る。
岡本太郎の「対極主義」もそうかな。
一切は皆変化するが、そのこと自体(一切皆変化)は変わらない。
長い目でみたら、たかだか80〜100年しか見られない私たちの目👀は節穴ということになるのかな。
いまのこの瞬間に、どれほど永遠に近いものを見られるか、それが私たちの真実の限界であろう。
_________玉の海草
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