『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《オマージュ》  篠田正浩監督の 「河原者(かわらもの=役者)」 論

2023-09-10 14:40:55 | 読書

__ わたしの大好きな岩下志麻女史を射止めた、映画監督・篠田正浩が書き下ろした名著『河原者ノススメ』。

これは、エッセイや折々の断片を並べたタレント本とは訳が違う。

まるで文化人類学の学術書のごとき風格を帯びている。

映画監督🎞️って、こんなにまで深い見識と教養を必要とされるものなのかと、やおら感嘆せざるを得ない濃密度の芸能風俗史となっている。

わたしは、藝(能・歌舞伎・武芸・音曲芸すべて)と非日常、つまり無生産者の差別についても、ひとかたならぬ興味があった。

河原者とは、河原、つまり誰の領地でもない特殊な空間に住まう者であり、京の街場には住めない身分であることを示している。

そうした焦点の置き方をして収集した、日本の裏歴史の断片は数々もっているが、それらを網羅して余りある監督の労作だと感じる。

よくぞこれほど調べたものよ…… …… そして何よりも眼差しが優しい。

映画は総合芸術だというが、なるほど映画監督とは一流のアーティストであり研究者であり現場創造者であることに景仰の思いを禁じえない。

 

【目次】

1.  芸能賤民の運命/ 2.  河原という言葉/ 3.  排除された雑技芸/ 4.  劇的なるもの/ 5.「猿」について/ 6.  漂流する芸能/ 7.  神仏習合の契機/ 8.「翁」について/ 9.  清水坂から五条通りへ/ 10.  白拍子とは何か/ 11.  興行者の誕生/ 12.  歌舞伎と浄瑠璃/ 13.  近松門左衛門/ 14.  すまじきものは宮仕え/ 15.  助六誕生/ 16.  東洲斎写楽/ 17.  東海道四谷怪談/ 18.  團十郎追放/ 19.  河原者の終焉

○小見出しをランダムに列挙〜 

異形の「代受苦」/ 桂離宮でのらできごと/ 劇場の祖形・壬生狂言/ 「婆沙羅」という混沌/ 物真似芸能の系譜/ 「クグツ」と人形/ 「あそび」の系譜/ 瞽女の霊性/ アルキを止めた放浪者/ 隼人と行基教団/ 北面した現人神/ 卑賤のアジール/ 象徴記号「阿弥」/ 影向の松/ 忌み嫌われた「業病」/ 宿神の激烈と微笑/ 被差別民が宗教と出会う場所/ 坂非人と犬神人/ 牛若丸の霊力を加速させたもの/ 「柿色」の意味/ 両性具有の妖しさ/ 町衆とキリスト教/ 「浮世」と「憂世」/ 竹本義太夫との出会い/ 「景清」と「荒事」/ 坂田藤十郎の写実/ 「ヤツシ」と乾き/ 町奴と旗本奴/ 役者絵に秘められたルサンチマン/ 女形という「型」/ 鶴屋南北の野心/ 河竹新七の絶筆と天覧歌舞伎/ 漂泊の道筋 等々

 

> 芸能とは、劇的なるものの探求である。(篠田正浩)

 

お手軽にまとめることが憚られる、隠れた名著なので…… 

いままでした関連投稿の中で、篠田正浩『河原者ノススメ』から引用させてもらったものを列挙してオマージュとしたい。

 

 

 

 

 🔴 差別化する功罪

こんなことを言うと受け入れられないかも知れないけど……

誰もが差別して生きているんだよ、先祖代々差別して生き延びてきたんだよ。

 

・自分の体内細胞レベルでいえば、免疫とは「自分」と「異物」との差別化のことである。

ガン細胞は、もともと自分の細胞だから、異物反応はなく、免疫不全に陥る。

・集団レベルでいえば、橘玲のいうように、人間の歴史は150人規模を最大とするコミュニティの歴史である。

つねに、「うちらの集団」と「よそ者集団」との抗争の歴史である。これは今でも遺伝子レベルにまで浸透していて、「こっち(自分の味方)」と「あっち(自分の敵)」に区別して攻撃する習性になって顕現している。

そうした集団内では、目立たなくては存在意義が認められない。現在の企業における、「差別化」による成長戦略と根は一緒なのである。

理屈からいえば、それは「区別」と言われるが「差別」と何ら変わりはない。人種差別にしても「よそ者差別」にしても、始まりはそこに求められる。

 

都の京都人が、よそ者を差別するところから、坂上田村麻呂が連行した蝦夷のアテルイは、命を取らないという約束を破って、裁判にもかけられずに勝手に処刑された。当時の京都人にとって相容れない異物(異形の者)だったからである。

同様のことが、「山水河原者」へも穢多非人への差別にもあらわれている。

都から遠く離れた東日本には、「血の穢れ」に対する差別はほとんどない。(西日本では、結婚相手の身元を興信所で調べるのが通例であるとか)

 

ある大女優(ご存命)の叔母さんが歌舞伎の名門(河原崎家)に嫁がれたのだが、桂離宮が特別公開されたときに、受付で氏名を記入していたら、「河原者を入れることはできない」と入場を拒まれたそうである。

また、出雲阿国の映画をつくっていた監督が、四条河原で踊るシーンを撮影するために、700年の歴史を持つ「壬生狂言」(重要無形民族文化財)の保存会に依頼したところ……

うちらの壬生狂言は格式のある伝統芸能であり、河原者の芸能とはわけ違いますとけんもほろろに断られたそうである。

[※  篠田正浩『河原者ノススメ』より]

現代京都人にも、差別は連綿と受け継がれている。(地元の人に言わせると、洛中のみが京都で、洛外は京都ではないそうだ)

 

「褒める」のと「貶す」のが、「評価する」という

観点からは同じであるように……

「区別」や「特別待遇」でさえも、「よそ者扱いする」という観点からは、同様に「差別」である。

たとえば、伊勢白山道ブログのコメント欄で、リーマンさんを神使として特別扱いするのも、それは「聖別」という名の「差別」に他ならないのである。

差別という問題は、人間が生きる上で根源的な問題を孕んでいる。

 

 

 🔴隣の芝生は青い

受け入れるメス性として生まれているのに……

オスを頑なに受け入れないのは、まず第一にメス性(女性)としての自分を受け入れていないからであろう。

 

昔の女は、個人のしあわせよりも「家」全体のしあわせを願って尽していたように感じるな。

結婚は家同士の結びつきだったからね。

政略結婚で道具としてつかわれたりもしたから、自分の置かれた立場を受け入れていたのだと思う。

また来世のしあわせもちゃんと考えていた。

 

ここに、イエズス会の宣教師 ルイス・フロイス がローマに送った手記『日欧文化比較』(1585年)を要約したものがある。

日本の女は処女の純潔を少しも重んじないし、結婚の妨げにもならない。

ヨーロッパでは財産は夫婦共有だが日本では別々で、時には妻が夫に高利で貸しつける。意のままに離婚ができ、しばしば妻から夫と離婚する。

娘たちは両親に断りなく1日あるいは数日でも一人で出かけ、女は夫に知らせず外出する自由をもっている。堕胎は普通に行なわれ、20回も堕した女がいる。赤子を育てられないと、喉の上に足をのせて56してしまう。

[※ 篠・田正浩の名著『河原者ノススメ 〜死穢と修羅の記憶』より。私注;引用文中の「56」は該当漢字を忌みきらい書き換えた]

 

女性たちが、こうした奔放な生態を選んだ時代もあったのである。(現代はどうやら戦国時代に似ているようだ)

単なる「男女のロールモデル」では語れない振れ幅があるのである。

選択肢を自由に選べるだけに、現代女性は、みずから進んでその迷いの泥沼に足をつっこんでいるようだ。

オスは何万年も変わらないんですよ、子孫を残したいだけですから、単純なものです。

しかしオスを選んでいるうちに、行き遅れるなんて、なんと贅沢な一生でしょう♪

 

 

 🔴魁の空也上人

平家の末裔である私は、京の東山、六波羅あたりには親近感が湧く。

清水坂の坂下にひろがる鳥辺野(平安朝の火葬地)六道の辻(小野篁)、つまりアノ世とコノ世の境、葬送やキヨメを扱った「坂」の土地柄なのである。

戦さ場での死が日常だった平家武士は、ここを本貫の地と定めた。

 

空也上人は、法然・親鸞に先立つこと200年あまり、皇室のご出自だと云われている。

踊り念仏の始祖であり、一遍が私淑した聖者であるが、六波羅蜜寺の空也上人立像はいかにも異形である。

六体の阿弥陀仏を口から吐き、鹿の角の杖をつき、肩には鹿皮の衣を身につけている。「皮聖」とも呼ばれる。

つまり、殺生を生業とする皮屋(被差別民)と共に在ることを表しているそうだ。

 

 

藤原摂関政治は朝廷の死穢の禁忌に縛られて死刑執行を停止していた。

弘仁元年810の薬子の乱で藤原仲成が処刑されたのを最後に、保元元年1156の保元の乱で藤原頼長、源為義、平忠正らの死罪が決行されるまでの

340年あまり、日本では死刑が執行されなかった 

のである。死穢のタブーがいかに浸透していたかを知ることができよう。

[※ 篠・田正浩の名著『河原者ノススメ 〜死穢と修羅の記憶』より引用。泉鏡花文学賞受賞作]

 

…… 朝廷のこうした「穢れ」への恐怖の念は、

来世への強迫じみた不安(実際に釈尊が予言した「末法の世」が到来していた)から生じており、それにつれて殺生する者や「血の穢れ」への禁忌は、はかり知れない程膨れ上がって…… 

神道的には「穢れ(氣枯れ)」、仏教的には不殺生戒を犯す「破戒」と同一視されて、

異常なまでの「怖れ」が発生して(朝廷貴族は、山で修行もできずに救われない我が身をいかにしたらよいか、切迫つまった恐怖に慄いていた。法然上人はそんな彼らに救済の道を示したので、他宗派の「国師」とは別格の扱いとなっている〜50年毎に諡号する慣例)…… 

徹底的な差別(人非人扱い)をするようになったことは想像に難くない。

 

この、死刑が全面禁止🈲された期間(340年間)が長かったことが、近畿圏や西日本での、「部落差別」を決定的なものにした歴史的な経緯ではないかと愚考する。

 

空也上人はしかし、分け隔てなく、迫害を受けた業病(ハンセン病)を患う者や屠殺業者の中に入って活動なさった。

こうした、念仏行者の積み重ねた功徳があったからこそ、時宗の一遍上人の道行き(踊り念仏の集団行進)では、強盗や性犯罪などが一切なかったという伝承がある。(裏社会や底辺の者たちからも支持されたことを示している)

市井の人々から大いに慕われた空也上人は、はじめて「南無阿弥陀仏」と口に唱える念仏を実践なさったド偉いお方である。

 

__ 現在の日本では、芸能人は一種のセレブ扱いされ、憧れられている存在である。

能・歌舞伎は、日本を代表する格式ある芸能であるし、役者たちは文化勲章をもらうほどの名士である。

日本婦女子の白メイクは、本来芸者が一目で一般人から判別されるように、芸者みずからが施した「差別化粧」であった。

いまや、ほとんどの女子が、その芸者に課された差別の印である「化粧」を施して生活している。

芸能者は、その化粧を施して、各家庭に「推参」することが許されていた。いわば「芸の押し売り」である。

(「見参」は正式にお目見えすること、「推参」は許しもなく勝手に参上することである)

中世の芸能者は、お国境いを越えて移動することが許されていた。(ヨーロッパ中世🏰のフリーメイソンとよく似ている、特権を持っていた)

そのため能役者でありながら鉱山師であったり山の民・海の民とも近しい間柄であった。(徳川幕府の金山奉行・大久保長安は、一流の鉱山技師でありながら、能の大蔵流の太夫でもあった)

芸を売る者は、特殊な境涯におかれた「人外の民」(納税の義務を負わない、国を跨いでの移動が許可されている)であった。渡来系の人びとが多かったようにも聞く。

忍者や土木事業者(石積みの穴太衆とか、行基に付き従って橋をかけたり治水したりしていた技術者集団)、吉原などの遊廓や任侠の世界もそうであろう…… 

芸の道は、庶民人気が高かっただけに、日本文化の奥深くまで浸透している。

すべてが「道」になるのが、日本的霊性(日本人の真心)である。

完成がないもの、どこまでも上達するものが「道」である。

藝者とは、極限に挑む者である。

目の肥えた日本では、そんな人が尊敬をうけるのである。

とはいうものの、三國連太郎や成田三樹夫のように、みずから「河原者(かわらもの)」をもって任ずる自覚があってしかるべきであろう。

藝において、差別と聖別の境いが分明ならざるものとなっていく。

そうした自然な謙虚さが名人の証しともなるのだと思う。

      _________玉の海草

 

 

 

 

 


 HiーKu (俳句) 🎋 〜 日本人の 「立てる」 御業

2021-12-01 06:00:10 | 読書

__ 近代俳句の父(=連句を滅ぼした)正岡子規を生んだ、愛媛は道後温泉の松山在住の俳人・夏井いつき女史は、「俳句の力」についてこー云っておられる

> 「自分の身に降りかかってくる全てのことは、全部俳句の種だと思うと、俳句の材料だと思うと、悲しみの底なし沼の中に自分を置かないための装置なんです、

” なんです」

 

‥‥ “Hi -Ku” =「高い苦、あるいは高い上空からの視点」でもいいかも知れないな、

昇華に向かう俳句(俳諧≒ユーモア)、だからなのか「説明」しちゃいけないのです、講釈は野暮天のすることですもんね

それと、俳句の可能性は和歌《短歌》を遥かに上回ります。俳句に課せられた戒律(=季語)が、かえってその飛翔を可能にするようです

短歌は「ものに寄せて想いを述べる」といわれるように、叙情の世界です。

それに対して俳句は、物・事の断面を鋭く截って、その断ち切り方を季節に寄せて楽しむ主知の世界と考えています。

紫式部と清少納言の世界によく比喩されます。

[※  荘内南洲会会報『敬天』より、東山昭子女史の言葉]

 

…… あえて、私なりの感慨を加えると、

 

短歌は、人間の眼から情緒を詠む

俳句は、大自然の眼から真実(リアル)を詠む

 

にわかには信じられないことだが…… 

芭蕉の俳句は、宮中の和歌が詠まない、和歌では詠めない消息に触れうる可能性を孕んでいる

円熟の熟年、晩年に相応しい手遊び(てすさび)なのかも知れない

「俳句」に、かくも深い奥行きがあるものだとは、以下の本📖を読むまでは、知らなんだ

いままで知らなかったことを芯から悔いた、同時にいまにこの本に出逢えたことを有難く思った

HI–KU  __  龍樹のKU (空)でもあるよーな気がしている

侮るべからず、俳諧の道

『奥の細道』とは、ひとの心の奥底に潜る道でもあったとは!

 

 

ー人類学者・中沢新一と俳人・小澤實による対談集『俳句の海に潜る』より、

 

 

 

> 中沢「俳句は必ず季語を立てないといけない。季語を立てる時は気象も関係する。四季の動植物の問題もある。

動植物と気象を立てて、それを季語にして詠むという芸術の、一種のルールですね。すごく重大な問題だと思う。

つまりそれは【人間の目で見るな】ということです。

人間の目で世界を見るのではなくて、人間と動植物の関係性で見ていく。

あるいは、先ほどおっしゃったように「鷹」を詠む時は鷹の目になる。

動植物の目になって世界を認識するということをルールにしているわけです」

小澤「世界は人間のためだけにあるのではないということを歳時記は示している」

 

> 中沢「江戸の人たちは基本的に水路上で生きていた感覚があります。

海が前に開けていて、【浮世】の感覚を持っている人たちだから、心の奥底に海があるんです。動いている。

しかも、単に見るだけの海ではなくて、そこに舟で乗り出していって、自分が海と一体となっていく生き方」

 

> 中沢「移動する時、僕らはタクシーに乗ったりしますが、江戸時代の人は自分の家の前から猪牙(ちょき)舟に乗って移動するのが基本だったでしょう。

わりあい身近いところに水路が動いているという生活感覚がありました。

しかし、現代人はその水路を暗渠(あんきょ)にしてしまいました。

これがいろいろな意味で日本人の想像力に損傷を与えたのではないでしょうか」

 

>【橋を渡すな、舟を出せ】

中沢「今、とか言うじゃないですか。あれ、気に入らないですよね。

絆って、結局、橋をつくって、島と島を結んでしまえと言うようなものでしょう。

人間一人ひとり孤立しているから絆で結びましょうって、そうじゃないだろう。

この間にある海を発見しようじゃないかということのほうが大事で、そこに橋をつくったらおしまいだ。

時々、行ったり来たりする舟があればいいわけで、

【橋をつくったら海に触れられない】じゃないか。この差はものすごく大きいんです」

 

> 中沢「連句ってすごいなと思うのは、珍島や松島みたいな多島海で、そこには島がいっぱいあって、そこへ句という舟を出すんです。それでずっとつないでいって、多島海が見えるというところを楽しんでいるわけでしょう。

それを単独で自立させたままにしたり、あるいは海に入っていかないで橋でつないでしまう。このやり方が俳句を窮地に追い詰めたものじゃないでしょうかねえ」

 

> 中沢「俳句は定型に拘る限り、不自由で、それはいわば橋を渡さない人たちみたいなもので、

海を舟で渡っていくことが大事ですよと言い続けている人たちだと思う。

それは現代世界の中で海を人生の中に取り戻すための重要な作法の一つじゃないのかな。私が俳句を敬愛するのはそのためです」

 

> 佐佐木幸綱「俳句は、本質はアニミズムなんではないですか」

金子兜太「そうなんだよ。アニミズムを無視して俳句を作るなと言いたいぐらいです」

 

> 中沢「インディアンや縄文人の思考はこうです。

宇宙をあまねく動いているもの これをかりに ”  と呼び、英語では スピリット”  と呼ぶことにしましょう。

このスピリットは宇宙な全域に充満して、動き続けている力の流れです。

その 動いているもの”  が立ち止まるとき、そこに私たちが 存在”  と呼んでいるものがあらわれます。

 

立ち止まり方が堂々として、何千年の単位で立ち止まっているものは【石】と呼ばれ、

二百年ぐらいの単位で立ち止まったスピリットは、【木】というものになります。

りっぱな木や石に出会ったとき、インディアンは石や木そのものでなく、その背後に流れている大いなる動いているものに向かって祈りを捧げるのです。

同じようにして、四本の足を持って地上を動くことのできる形で数十年立ち止まることになれば、それが【動物】になる。

空を飛ぶ鳥になるスピリットもある。

もちろんそのには人間もいます。

大いなる動くものが人間という存在として立ち止まったから、そこには人間がいるわけです。

 

ヨーロッパ人の考えたアニミズムは、二元論の考え方です。

物体とアニマは別のもので、物体の中にアニマが入り込むことによって、生命をもって活動しはじめるのですから。

 

ところが古代人らは、一元論で思考します。

大いなる動くもの=スピリットがあって、それが立ち止まるところに存在があらわれ、

あまりにどっしりと立ち止まってしまうと、そこには生命のない物体が存在するようになるが、

それら存在者は生物も非生物も、もともとは一体です。

このような 一元論的アニミズム こそが、ほんとうのアニミズムだと、私は考えます。このアニミズムの考え方は見方を変えると、科学のそれとよく似ています」

 

> 小澤「連歌の発句は、短冊🎋に一行に書き示されることが多かった。

江戸時代になって俳諧が盛んになると、その発句も短冊に書かれた。

子規以来の近代俳句も短冊に書き残されてきた。そして現代の俳句においても短冊は用いられつづけている。

なにより句会は、自句を小短冊に書くことから始まるのだ。

短冊とは天と地とを結ぶかたちである。そこに書き記される俳句は、天地の平穏、平和を祈る詩型と言えるのではないか」

 

‥‥ 中世の『職人歌合』においては、「天皇」は「歌詠み」の職人として出てこられるそーです

天皇のいちばん重要な働きを「和歌を詠むこと」とされる中沢さんは、和歌の言霊のもつ、自然を優美な言語に組み替えて制圧する権力にも触れています

その点、ときにイーグルの眼(大自然の眼)をもつ俳句は違うのだと……

芭蕉が「文明によって完全に言葉に作り替えられていない世界」として東北を目指したのには、西行をトレースする以外にも深い意味があったのだと

 

江戸にしても大坂にしても、水路の入り組んだ、まさに「水の都」であった

いまでも、大都会は海沿いに点在する

それは、日本人の奥底に「海人」の意識がいまだ息づいているからでもあろー

[ 天照太御神は、そもそもは伊勢の海人の信仰で、原初は「海照大御神」と書いたと聞く]

[ 海人族の安曇氏の痕跡が残る地名:厚見、渥見、熱海、泉 ・厚海・渥美・阿積・飽海・飽海川・飽海郡等]

いはく、流れるもの、移ろうものに心寄り添わせる気質、もののあはれを愛でる日本的霊性である

 

和歌あるいは短歌は人間の目で詠むもの、

俳句は人間の目から離れる

 

短歌は口語にも馴染み、「サラダ記念日」にも成るが……

俳句は、古き定型を守り、「大いなる存在」の視点つまり大自然と同位に立って、たんたんと詠まれる

伊勢白山道の、自分で作る廉価な「短冊位牌🎋」は偉大な発明だが……

 

「一句立てる」(発句)とゆー意味でも、垂直性を象徴する短冊がいまでも使われている

 

作庭は空間を作る芸術の大本で、昔の庭師は「石立僧」(山水河原者から成る技能者集団が始源、後年に夢窓疎石が知られる)と呼ばれたらしい

 

石を立てる(=作庭)処から始まるのです

 

 

 

お茶も「立()てる」お花も「立てる」と云う

遥か遠き昔、イザナギとイザナミはオノコロ島で天の御柱を「見立て」たまふ

高く垂直線 (Hi) に立ててゆくことは、神話の延長上から来ているのだとか……

奇しくも、志も立てる(立志)ものである

 

アニミズムに関していえば、グレート・スピリットが暫時立ち止まったモノが人間である、古神道では「霊止(ひと)」と云ふ

十七音の芸術、こりゃあ一筋縄ではゆかないポテンシャルを秘めていそーだ

 

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり (松尾芭蕉『笈の小文』より)

 

…… 芭蕉の口吻は烈しいものだが、静かに自信に満ちたものでもある

うちの庄内地方は、芭蕉の『奥の細道』のルート上にあるが、こんなに畏れるべきアーティストであったとは、今になって漸く気がついた

芭蕉の俳句は、三十一文字の和歌と比べて、より少ない十七音と「季語」といふ制約はあるが、芭蕉翁に云わせれば、西行の和歌(宮中の和歌)や宗祇の連歌には出来ない高みへと昇ったのです

 

和歌に詠めないコト(アニミズムの「モノ(鬼・精霊・神)」に対する)であっても、

型を伴う俳句には「詠むことが出来る」と云って、それを実行したのです

 

和歌における如く、人間の情緒ではなくして、大自然と同位に立った「イーグルの眼」から俯瞰して詠んだものだったのです

まったく、底知れぬ深淵とゆーか、突き抜けた高みに道引く道具を発明したのだなと一入感慨深いです

 

松尾芭蕉おそるべし 、

 

なるほど歿後に朝廷から「神号」が贈られているのも、むべなるかな

言霊を極めた御仁と云ってもよいのかな、芭蕉以前はここまで達せられなかった、芭蕉が「一句を立てる発句」を「俳句(俳諧)」に止揚(アウフヘーベン)した、つまり産み出したのである

自らを斜め上空から見下ろす眼、離見の見、「客観」とは即ち神の御業であろう

        _________玉の海草


《ちょい言》 親ガチャの失敗作〜 『カラマーゾフの兄弟』

2021-11-10 06:56:29 | 読書

__NHK『100分de名著』でいま、フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』が取り上げられている

むかし、読者メモに夥しく出てくる人名(70〜80人はいるんじゃないか?)を書き込みながら、それでも尚物語に強烈にひきこまれながら読んだ

ロシア語は難しい言語であるらしい、それに人名にしても「アレクセイ」が愛称で「アリョーシャ」になったり、片仮名の長い人名を覚えるだけでも疲れる

こんなに長々と書き綴る「ロシア人気質」とゆーものにも、なんとも粘着質な感触を抱いたものだ

トルストイにしても、よくあんな長編をものするものだと呆れてしまうが、『カラマーゾフ』も未完の長編で、現在ある物語は第一部にあたるものだそーだ

私が『カラマーゾフ』に手を出したのは、おそらくヴィットゲンシュタインが生涯の愛読書(30回は読んでいるらしい)と云ってはばからず、第一次大戦の従軍にも持ち歩いたほどの小説とどこかで読んだからじゃなかったかと思う

長期的に時間を辿るのは、おおげさだが神の視座を獲得する

そんな観の眼でみたら、家系の一瞬を切り取ったよーな「親ガチャ」なんて非道いことは言わないだろー

いつの世も「若者はバカ者」だが、親子関係の因縁をこんなにも短絡させて表現したのは、とりも直さず令和の抱えるどーしようもない幼さである

わたしは、子は親をえらんで産まれてくる(生誕後はその事を忘れる)説に賛成だ

「親ガチャ」と嘆いたとて、なんら前向きの気持ちにはならないからだ

欲望の権化のよーな父親・フョードルにたいして、カラマーゾフの長兄や次兄のよーな反発拒絶する時期は、当然私にもあった

アリョーシャのよーに「ゾシマ長老」に象徴される神秘に逃げた時期も勿論ある

「カラマーゾフ」とは、人間がフタをして、無いものとして見ないよーにしている身内のあらゆるモノでもある

まー、かの「大審問官」の条りが知識人の魂を掻き鳴らすものでありましょー

 

『カラマーゾフ』を読んで感じたことは、「わたしのうちもカラマーゾフである」とゆーことだった

文学としても傑作で、信奉者の多いドストエフスキーを語るのは、おこがましいが、ものごとは単純なもので感得してもよいと思う

たとえば、イマヌエル・カント『純粋理性批判』とは、単に「ア・プリオーリ(先経験的な)」なる一語を説明するために書いたと私は感じた

ドストエフスキーの神学は、青い文学青年には蠱惑的な魔力を感じさせるものではあるが…… 

ケーベル博士『神と世界』の至言で事足りる

> 《神は在る》は即ち《神が在る》ことである。

《神は無い》はこれも又《神が在る》ことである。

 

‥‥ つまり、「存在」とは「生まれないし死なない(不生不滅)」ものであること

わたしたち人間は「現象」であり、生まれて死ぬものであること

その、仮の存在めいた私たちは、神の似姿であり、神性を付与されていること

私たちは、宇宙の塵のよーな儚い一部分ではなく、私たちの内に宇宙が包含されていること

イワンの詩「大審問官」が突きつける命題は、私たち自身の内なる葛藤であること

わたしは、伊勢白山道とニサルガダッタのアドヴァイタ(非二元認識)によって、以上のよーな応えにいたった

日常生活に引き寄せて言明すれば、「わたしの内に、カラマーゾフがある」とゆー実感がある、小説文中の台詞にもある

「カラマーゾフというのは淫蕩、強欲、奇癖ということにあるんだ」

 

‥‥ わたし自身、複雑な家柄に育ち、二つの家系を継いでいる

(1)一つはタタラ製鉄から刀鍛冶につらなる、職人の道、

(2)もう一つは、平清盛の嫡子で、早逝した平重盛の子孫としての道

どちらに転んでも、強烈な生きる意志とゆーか「家風へのこだわり(=誇り)」が「カラマーゾフ」なのである

戦前戦中をとおして、平重盛は「親孝行」の美徳でもてはやされた

六波羅近くの小松第に住んでいたことから、「小松内府(だいふ=正二位内大臣)」と呼ばれ、たいそう人気だったよーである[※  私の継いだ家も「小松」を名乗っていた]

伊勢白山道を通じて知り合った読者の「triport」さんと云ふ方がおられたが、彼の知人からの内密な情報では、平重盛とは皇室が例外的に臣下を祀る三人のうちの一人であるそーだ

ほかのお二人は、弓削道鏡による皇室乗っ取りを防いだ「和気清麻呂」と、明治維新前夜に光格天皇の御志を体し臣籍に降り、討幕のために暗躍なされた「天忠党」の中山忠伊(ただこれ)卿…… [※ 光格天皇の第六皇子であらせられる武生宮長仁親王であるとされる]

平重盛は、父清盛が畏れ多くも後白河法皇を攻め滅ぼさんとした折に「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と、泣いて諌めて暴挙を止めた功労を賞したものらしい

文武両道にすぐれた重盛は、重用されたが、母方の親戚に有力者がおらず(母は白拍子とされる)苦労なさったらしい

内に秘めた激しい情熱は、平家の屋台骨であったが、惜しくも早世された

そんな無念の重盛公であったので、本来の烈しい性格を代々受け継いでいるよーだ

わたしは、その家系の秘密を二十歳で祖父の弟から伝承されたが、それ以来お盆になると憂鬱に悩まされるよーになった

何故なら、その「小松」姓を名乗っていないからだ、墓も別にあった

そのニつの家の墓をまとめて、一緒に祀るまで、その重苦しい憂鬱は消えなかった

その遺された思い、それが「カラマーゾフ」なのである

 

一族の悲願とかゆー言い方もするが、その外圧ならぬ内圧は凄まじいものがある(わたしはそーだった)

わたしは、しかし、イワンのよーに正面から嫌がるよーな歳でもなかった

なにか、親しげな思いを懐いた、「おれもそーだなあ」と、お盆が来る度に同化していった

つまり、遺伝とはそーゆーものだ、この血に流れているものは、ユダヤ人に云われるまでもなく濃いのである

 

ーそんな意味で、代々にわたって個体を変えて伝承されてゆく「家系」とゆーものも、ある種の「存在」ではないかとまで思うにいたった

わたしには妻子もなく、このままゆけば「絶家」となるが、「存在」に回帰した個体にとっては、それはかなしむべきことでは決してない

以前に美輪さんがよく云われていたものだが…… 

「家を新築すると、五年以内くらいに不幸が音ずれる」と

かくも左様に、そこに暮した念とゆーものは強いのだと思う

住者の念が深く浸透した、その家屋を壊すことには、なにかしら無礼なものがある

井戸にしろ、竈門(かまど)にしろ、機能して「活きて」いた代物を壊し、その上で何かを営むとき、その蔑ろにされた思いは「祟り」となるのかも知れない

おおざっぱに括ってしまうと、人びとが生きているとゆーことは、取りも直さず「霊」同士のせめぎあいが渦巻いていると観なければなりますまい

霊の海に浮かぶ、人びとの思い、出来るかぎり大切にしてあげたいものだ

        _________玉の海草

 


🍁仮説 「いつも繋がってたい」 人は、本を読まない

2021-08-27 03:00:24 | 読書

__も〜3年にもなりますか、『初耳学』の中で、林先生が実に含蓄に富むことを言っておられた

 

「僕の莫大な経験では、『孤独は嫌だ』という人の共通点として、本をあんまり読まない

「考えるという作業は絶対一人じゃなきゃできないんですよ」

人間は、考えると一人になるんです。そして一人になって自分を見つめ直す。その中で他人との繋がり方を見出していく。それを唯一可能にしてくれる孤独が、寂しいんですか?」

「本を読まない人は寂しがり屋で友達を欲しがる」

「本を読む人は友達がいらない」

 

‥‥ 誰もが知ってる曲「新一年生になったら、友だち100人出来るかな」は、「ともだちが多いのは、良いことだ」とゆー価値観を社会に浸透させたと云ふ

[※  童謡『一年生になったら』まど・みちお作詞1番〜3番/山本直純作曲、1966年]

 

【画像:絵本のおもちゃばこ(単行本)ポプラ社、2011年】

 

 

林先生は、「友だちは少なくてよい」が持論で…… 下重暁子『極上の孤独』(幻冬舎新書)のなかの「友だちや知人は少ないにこしたことはないと思います」の条りや、ドイツ哲学のニーチェの言った「愛せない場合は通り過ぎよ」を挙げて、ドライな人間関係もわるくないと提言した

とゆーのも、SNSの普及によって、簡単に他者と繋がれることで生じる深刻な弊害もあると示唆している

 

なにをもって「ともだち」と呼ぶかは、おのおの思う処はあろーが…… 幕末の志士たちの思い描く「友」とゆーものも垣間見てみよー

 

“ 士は己を知るものの為に死す  とゆー言葉があります

>司馬遷『史記』刺客列伝 にある有名な句。

紀元前5世紀の中国・晋の人、豫譲(よじょう)の言葉。

‥‥ 現在のC国とは違い、古代中国には目を瞠るよーな清冽な御仁がおられた様です

>豫讓、山中に遁逃して曰く、

「嗟乎、士は己を知る者のために死し、女は己を説ぶ(悦ぶ)者のために容(かたちづく)る。

今、智伯われを知る。…… 」

():「ああ、志ある人士はおのれを知ってくれる者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために顔かたちを飾るのだ。智伯はわたしを知ってくれた。…… 」

…… この句が、「知己」の語源 なのだそーだが、

「知己」とは、知人だの知友だのとは、一線を画する特別な言葉なのね

「知己を後世に待つ」とか「天下の知己」とかには、深い意味合いがある

 

「天下後世まで信仰悦服せらるゝものは、只是れ一箇の眞誠なり。  …… () …… 

誠篤ければ、縦令(たとひ)當時知る人無くとも、後世必ず知己あるべし。」 ( 『 西郷南洲翁遺訓 』より )

「 知己を百年の後に待つ は大丈夫のことじゃ。

一時は暗雲に閉ざされても、人の真心から為した仕事は必ず光明を放つ時が来るものじゃ。

近頃では、こんな血誠男子はまことに少なくなった。」

[※  頭山立雲(満)翁による『南洲翁遺訓』の解説 ••• 口述筆記された]

 

‥‥ 右翼の首領・頭山満翁も、遅く生まれすぎた志士であり、西南戦争に従軍しよーとしたが入獄されていた為に果たせなかった御仁である

勝海舟の言葉にも、知己を千載(千歳=1000年)の下に待つ」とある

武士としての矜持を支える価値観として、「士はおのれを知る者のために死す」とは志士の心映えをあらわす言葉として、共有されていたものかも知れない

 

縷縷のべてきた「知己」と、SNSでの「フォロワー」とでは、同列に論ずることは出来なさそーだが…… 

林先生の「少なくていい」とは、「知己」に近い所謂「親友」みたいな者を指すのだろーか

しかし、自分の培ってきた素養から導かれる「自己」とゆーものがない者にあっては、「己れ」を知る者は永久にあらわれない、「自己」あっての「知己」である

「己れ」の確立のために、読書とゆー孤独な時間、自分に向かい合う時間が必要だと言わんとしているのではないか

以前に述べた、タモリさんの述懐と同じ消息を語っているよーに思えてならない、モーレツ社員(回りと同じよーに仕事に打ち込む=繋がっていたい) にならざるを得なかった当時の日本人は、「自分との対話」(自分と向き合う=孤独・読書)がこわかった と言えそーです

《以下、当該記事へリンク》

> 五輪が終わり、「自分の夢中」を喪ってから現れるものは…… - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 

‥‥ その「自分との対話」、生まの自分に直面する手段として、極めて有効なのが「読書」である

これもまた、以前の記事に書いたが…… 

本を読むという行為は決して情報を得たいというためにやるわけではなくて、むしろ自分の中からどの位引き出せるかという営みなのです。」(酒井邦嘉教授)

《以下、当該記事へリンク》

《ちょい言》 日本人の半分は 、習慣的に “ 読書ゼロ ” - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 

‥‥ 最後に、林先生の「読書による孤独のうちに己れを知る」とゆーことが、「自立」「ひとり立つ(独立)」の為にいかに重要なものか、いや必要不可欠なものか、自分の体験から見てみよー

私は、いわゆる読書家のほうで、3000冊位の読書量はある

若い時分、東大英文科系統の中野好夫の「知識人の定義」を目にして、30才でほぼ2000冊に到達した

一週間に一冊読むとして、1年で50冊、それを40年続ければ2000冊になる、その位読んでいれば「知識人」と呼んでも差し支えないのではないかと、

日本の文壇をリードした東大英文科(小泉八雲・夏目漱石・上田敏・斎藤勇等の教授陣や東大出身翻訳家・評論家、坪内逍遥・谷崎潤一郎・芥川龍之介・川端康成・三島由紀夫等の東大出身作家による東大派閥の影響力)を代表していた長老・中野氏が提言していたのである

まー、わたしの読書は「生きてゆく」ために不可欠なもので、追い詰められて仕方なく本からの知識を打開策にしたのが真相で、純粋に教養を身につける為の向上心とは無縁だったとは思う

サラリーマン生活が生きづらかった私(普通や人並みが大キライ)は、本の中に処世術を探ったし、勿論現実逃避(夢想)もしていたと思う

私の中では、秘伝書やオカルト文献・剣豪小説(職人物語みたいな受け止め方)なども、広義の実用書であったわけである、書物の中の世界は現実と結びつけられた

そんな真剣な読書を四半世紀もコツコツ続けて、3000冊に達する頃には、もはや読書欲もたいがい無くなってきていた、目次を読んで内容に予想がつくよーになって仕舞ったからだ

そーしたときに、巡り逢ったのが「伊勢白山道」である、あやしげだが紛う方なく光るものが厳然とあり、前代未聞の世界観を伝えていた

一年くらいかけて、コメント欄で反論したり、質問の形で試してみたりして、自分なりに納得のゆく検証を試みた

その結果ほぼ、私の長年蓄えたオカルト知識からみても、破綻が見つからなかったし、認識については私の遙か上を行っていた、そこで、一度信用して自らの指針として採用してみると、統一性がとれていて、どっぷりと彼のブログに浸ったことだった

霊的な真理に飢えていたのだ

仕事しながら、お昼休憩時に伊勢白山道を読んでは、グルジェフのよーに霊的なワークに繋げたのである、陽明学の「事上磨練」= “ Training On The Job ” である

ほんとにあらゆるオカルティズムに精通された御方で、一日の記事のなかに、書籍で読めば十冊分くらいのオカルト知識(隠秘学)がつめこまれてあることも珍しくなかった

わたしは徐々に、苦労して文献を読むのを放棄するよーになって行った、最早彼のブログからお手軽に隠された情報を知ることが出来たから(読者ボランティアによる検索システムも「過去コメントのまとめ」も極めて優れたものだった)

そーなると、オカルト(隠された知識)を日常に実用化してきた私なので、公私にわたって、実生活のなかに「伊勢白山道」が深く浸透していった

「生きる」ことの根本義(神棚参拝や先祖供養そして感謝想起・観音行)として、伊勢白山道の実践が根付いているわけだから、油断していると無意識のうちに「リーマン教信者」になってしまっている……   困るのは自分でそのことに気がつかないことだ

伊勢白山道の世界、コメント欄の読者同士で繋がっていることに、無上の安らぎを覚えたものである

こーして十有余年経って、わたしは本をまったく読まなくなった

読書の孤独感にたいして、耐性を失ったのだと思う

SNSつまり、伊勢白山道ブログに繋がっていれば、安心だし、実践による体感もあるし、迷いは少なくなっていった

ついに、社会不適合者かと思うほど生きづらかった私が、何としたことか生きやすくなったのである

伊勢白山道の圧倒的な知識と認識が、本からは手に入らない「真の知識(叡智?)」を示唆してくれたからである

それでも、私は彼の文章が気に障る処(英語を直訳したよーな生硬な文体等)があって、コメント欄で文句を言い続けて(不掲載となるが)、とうとうコメント削除されて出禁になってしまった…… (現在は幸いにも投稿が許された模様 ♪)

そのときになって、いかに私の実生活に伊勢白山道が浸み込んでいるか、いかにコメント投稿するとゆー能動的行為に自分が救われていたかに、初めて気がついたのである

十年以上にわたって、伊勢白山道を追ってきたことはもちろんまちがいではない、それどころか言いようのない感謝の気持ちで心が一杯になる

間違ったことといえば、すべてを伊勢白山道を通して受け取り、与えてもらおうとゆー怠惰な心持ちに安住したことかも知れない

伊勢白山道にいつも繋がっていたかった私は、自分を見つめ直す(読書の)時間をないがしろにしてしまったのである

読書に伴う孤独、読書とゆーものを成り立たせる孤独、それは一時的とはいえ、伊勢白山道での繋がりから離れなければ成し得なかった難事だった

伊勢白山道推薦の、『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』とゆー難解なアドヴァイタ・ヴェーダーンダのエッセンスは、類稀なる孤独の時間を潤沢に提供してくれた(5回繰り返し読むよーに推奨された)

わたしは、その本を読んだことのない人から薦められて、読んだのは初めての経験だった(リーマンさんは霊視で内容が分かるため、読むことはない)

ニサルガダッタ・マハラジの示す、「最後の知識(Knowledge)」、知識に別れを告げる〜知識(観念)に引導を渡す「真の知識」の波及する範囲はすべてを網羅していて、伊勢白山道で学んだオカルト知識にまで及んだ

推薦本を熟読吟味したことによって、伊勢白山道の言語表現に物足りなさを感じるよーになり、文章批判に繋がったことは、如何にも皮肉なことだった

 

こーした得難き経験をとおして、いつも誰かと繋がっていたい人は、ご自分を知る一番大事な機会を逸しているのではないかと思うのですよ

繋がりそのものが負担となって、「妄想」を稼ぎ、不毛の依存を生み出し、自らのシンプルなありようを致命的に阻害することもあろー

洞察とは “ insight ” 、洋の東西を問わず、字義どおり内に向かうベクトルである

繋がりは自分の外へ、読書(孤独)は自分の内へ

外(外在神)を拝めば、内(内在神−根源神)は匿れる

世界中の太古の叡智が初めに告げる言葉

「おのれ自身を知れ」 

         _________玉の海草

 

 

 


《ちょい言》 日本人の半分は 、習慣的に “読書ゼロ”

2021-07-08 16:03:54 | 読書

 

だいぶ前の話だが…… 

けっこう反響を呼んだ、NHK『クローズアップ現代』の「広がる読書ゼロ〜日本人に何が〜」(201412月放送)

この番組中で、文化庁の調査(2000人を対象)で判明したショッキングなデータを取り上げていた

「一ヶ月に一冊も本を読まない」と回答した人ー47.5%

また、別の調査だが……

大学生の40%が一日の読書時間がゼロ

 

近年、ほとんどの学生が

インターネットの検索サイトに頼って論文を執筆、

情報を羅列するものの、持論を展開するのが苦手になっているという。

その一方、検索スピードは格段に向上し、閲覧する情報量は急増、わずか一秒で、表示された情報が有用かどうかの判断を下しているという。

  

‥‥ この「活字離れ」について、蔵書22万冊(内3万冊読了)の立花隆さんは、インターネットを「古代アレキサンドリア図書館」になぞらえていた

「(ネットによる)情報収集と、読書は違うもの」

「本は総合メディア。知情意が中にある」

「インプット・アウトプットの中間に、頭を通過するだけのスループットが産まれてきている」

‥‥ 「本」には、知情意つまり物語化されたエピソードが伴うという

たとえば、一口に情報といっても、一目おく気になるアイツが言っていた情報とは「単なる知識」では済まない特別な意味合いを持っている

のと同様に……

本は、単なる知識を印刷したものではない

そこに著者による選別や苦労の過程、製本に至るまで辿ったエピソードや物語が潜んでいる

インターネットで閲覧する1ページと、一冊の本になった中の1ページとは違うのである

「本を読むという行為は決して情報を得たいというためにやるわけではなくて、むしろ自分の中からどの位引き出せるかという営みなのです。」

(東京大学大学院 酒井邦嘉教授)

「読書と言っても、そういう言葉だけでは実はなくて、視覚的に映像を頭の中に想起するとか、過去の自分の体験と照らし合わせて対比して考えるとか、自分で得られた情報から更に自分で自分の考えを構築するというプロセスがはいってくるので、人間の持っている創造的な能力がフルにいかされることになります。」(同教授)

 

‥‥ なるほど、本を読まない人が多いから、ネットに変な日本語が蔓延するのだと思う

日本語の乱れについては、これからも随時追ってゆくつもりである

以上