『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

教養 = 「他人の文脈を読む」 こと〜 なぜ必要なのか?

2024-09-17 22:08:05 | いまの世相

── 真田広之が、主演男優賞をはじめ「エミー賞🏆」18冠の快挙をお慶びしていたとき、

時代劇ってゆーのも、異なる時代の「文脈」を理解するってことだなと、教養の大切さが肌身にしみて分かった気がした。

 

 

それで教養なるものが、現代でも必要なのかどーか、について

三宅香帆『なぜ働いていると、本📕がよめなくなるのか』をヨスガに追ってみよう。

 

この本は、「なんで働きながらだと本を読めなくなるのか」を、解明しようとした労作なのだが…… 

その過程において、

明治以降の日本が辿った

労動史

読書史とを

1950年代〜2010年代まで、並行して参照している点に特徴がある。

 

読書は、昔から行われていたように見えるが、さにあらず。

紙の貴重だった江戸時代も、寺子屋のおかげで庶民の多数が読み書きに通じていたが、

仮名草子や、草双紙(絵入り娯楽本)、戯作本などは、現代でいう「教養のための読書」には入らない。

 

いわば現代のスマホ📱みたいなもので、

スマホを読んでても「読書」とは言わないし、スマホは働きながらでも毎日見ることができるのだ。

 

つまり、この「読書」という行為が本格化したのは、たかだか明治維新以後ということになる。

それでは三宅香帆の著作によって、ざっと引用・要約して、「読書」の歴史的推移を辿ってみましょう。

 

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明治になって、

活版印刷の普及により

従来の「朗読して読む(素読、音読)」

➡︎「黙読の文化」が始まった

そして句読点が普及した

(明治10年代後半〜20年代)

 

1871年(明治4年)に、

立身出世を煽るベストセラーが生まれる

『西国立志編(SelfーHelp)』スマイルズ著、中村正直訳

この本は労働者階級に向けた立身出世物語で、

この本の中で、訳者中村正直が初めて「修養」という言葉をつかった( Cultivation, culture, cultivate 等の「勤勉」「努力」「洗練」「教化」「培養」「文明」に関連する言葉に「修養」の語をあてた]

 

この『西国立志編』が如何に売れたのか…… 

明治末までに、日本の総人口5000万人の時代に100万部売れたロングセラーとなった(福沢諭吉『学問のすゝめ』も、よく売れたが、県庁から公的に配布された経緯もあり、純然たる民間ベストセラーではない)

つまり「修養」とは、

明治時代にエリートの間で広まった

大正時代には、むしろ労働者階級の間にすでに根付いていた(図書館から借りて読む文化が発達)

その一方で、大正時代のエリート階級では「教養」が広まった(労働者階級の「修養」から差別化するためである)

・行動を重視するのが、「修養」

・知識を重視するのが、「教養」

 

大正時代から戦前にかけて、「教養」とはエリートのためのもので、教養主義が流行った

つまり戦前の概念では

・休憩 = 新聞・雑誌・ラジオ・レコード・運動など

・勉強・教養 = 読書

と、截然と分かたれていたのである

 

● 1950(昭和25〜)年代

戦後サラリーマン階級の出現〜 新しい娯楽が生まれる

「パチンコ、株、源氏鶏太のサラリーマン小説」の三つだった

源氏鶏太の映画化作品は、80作を超える

 

● 70年代

教養=学歴

司馬遼太郎『坂の上の雲』文庫本が大ヒット

(私注;70年代の大事件「オイルショック」は、日本国民に高度経済成長が終わったことを告げた。つまり終身雇用だと思っていた会社がリストラを断行し始めたからである。そんな時代だったからこそ、『坂の上の雲』にロマンを見たのであろう。この物語は明治〜日露戦争勝利までの右肩上がりに成長した日本を描いたものだったからだ。ちょうど、バブル崩壊以前の景気良かった「モノづくり日本」を描いた、NHKの『プロジェクトX』とおなじ構図である。要するに、古き良き時代への懐古がテーマだったのである。)

「歴史という教養」ビジネス教養主義

文庫本ふえる

通勤列車で読書

企業内教育において「自己啓発」はじまる

 

● 80年代

コミュ力=処世術

実用系雑誌・月刊「BIG tomorrow」(1980年発刊)が流行る

大正の大衆教養主義の系譜をうけつぐ、昭和の教養主義(=読書を通じた人格陶冶)を奉じた人生雑誌

学歴(教養)よりも処世術

労働に必要なのは、教養ではなくコミュニケーション能力

急速に「自分」の物語がふえる

黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』500万部売れる

村上春樹『ノルウェイの森』350万部

俵万智『サラダ記念日』200万部

いずれも一人称視点の物語→ コミュ能力の劣等感より

 

女性のカルチャーセンターが隆盛する

原因は、進学できなかった学歴コンプレックスから

 

● 90年代

行動と経済の時代

春山茂雄『脳内革命』(1995)

「内面」の時代から「行動」重視の自己啓発本

350万部売れる

バブル経済以前の「一億総中流時代」が終わる

(消費で自己表現できなくなる)

 

新自由主義(ネオリベラリズム)の台頭

⚫︎国家の福祉・公共サービスが縮小され、

規制緩和されるとともに、

市場原理が重要視される社会

 

「自分のキャリアは自己責任でつくっていくもの」

企業への忠誠心が消える

非正規雇用が拡大する

 

● 2000年代

仕事がアイデンティティになる社会

仕事で自己実現することを称賛する日本社会

労働そのものが「自分探し」の舞台となる

「やりたいことを仕事にする」幻想

90年代後半、すでに「やりたいこと」「好きなこと」を重視するキャリア敎育は取り入れられ始めていた。

労働市場が崩れ始めた90年代後半から、

「夢」を追いかけろと煽るメディアが氾濫するようになる

[※   荒川葉『「夢追い」型進路形成の功罪ー高校改革の社会学』]。

実際、学生が想像できる「夢」、つまり楽しそうな進路は

「服飾・家政」や「文化・教養」などの就職率の低い領域であることも多かった。

しかしそういったリスクを伝えず、高校のキャリア教育は夢を追いかけることを推奨した。

 

村上龍『13歳のハローワーク』(2002、平成14年)が流行る

2001年(平成13年)の日本労働研究機構(現労働政策研究・研修機構)によるフリーターへのヒアリングでは、

そのうちの4割が「やりたいこと」という言葉で自分がフリーターになった経緯を説明した。

[※  速水健朗『自分探しが止まらない』

この結果からも、

当時の就職活動や高校教育において、

いかに仕事における「やりたいこと」や「自分らしさ」の重要性が強く刷り込まれていたかが分かるだろう。

それはある意味、

日本の「夢追い」キャリア教育がうまくいった結果でもあった。

当時ニートと呼ばれる若者たちが問題になっていたが、

ニートをつくり出したのは、実は「やりたいことを仕事にすべきだ」という風潮だったのである。

 

 

● 2010年代

ビジネス書は「行動重視」傾向に

市場に適合しようと思えば、

適合に必要のない、ノイズをなくすことである。

 

コントロールできないものをノイズとして除去して、

コントロールできる行動に注力する

 

知らなかったことを知ることは、世界のアンコントローラブルなものを知る、

人生のノイズそのものだからだ。

 

> よくビジネス書では、

人に好かれる能力を磨きなさいと説かれていますが、

僕は逆だと思っています。人を好きになる能力の方が、よっぽど大事だと思います

人を好きになることは、コントローラブル。

自分次第で、どうにでもなります。

でも人に好かれるのは、自分の意思では本当にどうにもなりません。

コントローラブルなことに手間をかけるのは、再現性の観点でも、ビジネスにおいて当然でしょう。

[※  前田祐二『人生の勝算』より]

 

本を読むことは、働くことの、ノイズになる。

 

新自由主義改革のもとではじまった教育で、

私たちは教養ではなく「労働」によって、その自己実現を図るべきだという思想を与えられるようになってしまった。

 

> 20世紀、私たちは常に、自分の外部にいるものと戦ってきた。

たとえば他国との戦争、政府への反抗、上司への反発。

ー私たちが戦う理由は、支配されないため、だった。

しかし21世紀、実は私たちの敵は、自分の内側にいるという。

新自由主義は決して外部から人間を強制しようとしない。

むしろ、競争心を煽ることで、あくまで「自分から」戦いに参加させようとする。

なぜなら新自由主義は自己責任と自己決定を重視するからだ。

だからこそ現代においてーー私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。

 

戦いを望み続けた自己は、…… …… …… 疲れるのだ。

[※  ビョンチョル・ハン『疲労社会』より]

 

資本主義論理=市場原理が至上

企業間の競争は激しくなる

個人の誰もが市場で競争する選手だとみなされるため、

自己決定・自己責任が重視される

組織や地域に縛られず自分のやりたいようにやること、自分の責任で自分の行動を決めることなど個人主義的である

近所同士の助け合いや

同じ会社だから連帯して組合をつくるなどの従来からある共同体論理には向かわない

「社会のルールに問題があるかもしれない」とは考えない

 

ノマド、副業、個で生きる

[※ ノマドとは遊牧民という意味を持つ言葉であり、オフィスに縛られない働き方を指す言葉だといえます。(NTTコミュニケーションズより)]

働き方改革の時代〜 労働小説の勃興

 

 

スマートフォン📱の世帯保有率の推移[※ 総務省「通信利用動向調査」より]

2010年〜 9.7%

2015年〜 72.0%

2020年〜 86.6% 

 

「読書を娯楽として楽しむよりも、情報処理スキルを上げることが求められている」

娯楽から情報に変化

・本📕を早送りで読む人たち

・映画🎞️を早送りで観る人たち(目的が「観る」ことから「知る」ことへ)

・「ファスト教養」=自分と関係がない情報を「ノイズ」扱いする

 

全身全霊で働くことをやめよう

あなたの「文化」は、「労働」に搾取されている

 

 

自分から遠く離れた文脈に触れることーそれが読書なのである。

 

> 君たちはみんな、激務が好きだ。

速いことや、新しいことや、未知のことが好きだ。

ー君たちは自分に耐えることが下手くそだ。

なんとかして君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている

もっと人生を信じているなら、瞬間に身を委ねることが少なくなるだろう。

だが君たちには中身がないので待つことができないー怠けることさえできない!

[※ ニーチェ『ツァラトゥストラ』より]

 

●  知識と情報の差異

情報=知りたいこと

知識=ノイズ+知りたいこと

(ノイズ=他者や歴史や社会の文脈)

「歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知」

 

●  読書と情報の差異

情報ーノイズ抜きの知を得る

読書ーノイズ込みの知を得る

(※ノイズ=歴史や他作品の文脈・想定していない展開)

 

 

自己や社会の複雑さを考えず、

歴史や文脈を重んじないところー

つまり人々の知りたい情報以外が出てこないところ、

そのノイズのなさこそに、《インターネット的情報》

ひいては ひろゆき的ポピュリズムの強さがある。

※「安手の情報知」「安直で大雑把」「反知性主義」(社会学者の伊藤昌亮によるひろゆき批判)

求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で、読むことができる。それが《インターネット的情報》なのである。

つまり過去や歴史とはノイズである

情報とは、ノイズ(偶然性)の除去された知識である

インターネットでは、自分の興味のないニュースは入ってこない

《要約、引用ここまで》

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三宅香帆は、全身全霊で仕事にのめり込むと、余裕がなくなり視野が狭まるので、読書📖しながら

「半身」で仕事に向かおうと提唱している。

 

プライベートも構わず自身のすべてを、仕事に捧げるような生き方は、ほとほと疲れてしまうのだ。

過労の末にうつ病を発症して「燃え尽き(バーンアウト)症候群」におちいるからと注意を促している。

 

 

さて、

戦前は「教養」というものが高く評価されて、仕事に役立ったものだったが、

世間で学歴が重視され、教育が行き渡ると、「教養」に変わるものとして、コミュ力が台頭してくる。

つまるところ、ビジネスは人付き合いなので当たり前のことなのだが、

物知りや蘊蓄は、処世術に取って代わられる。

やっぱりコスパが悪いからなのだろうか。

目の前の難題を、手っ取り早く解決する方向に向かい出す。

そうすると、「市場原理」という見えない神の手が、最優先されて大手を振って闊歩するようになる。

人びとは、その風潮にたいして「新自由主義」というレッテルを貼って、肯定的にとりくむようになる。

自分のキャリアは自己責任でつくるという足枷をみずから課して、所属会社をあてにせずに、会社への忠誠心を失ってゆく。

非正規雇用には、たしかに新しい形の「自由」はあったが、その代償は想像以上に大きかった。

しかし、日本は国を挙げて、「好き」を仕事にしようと、つまりは仕事で自分の理想を実現しようと無責任なことをそそのかすようになる。

その結果、まじめな「夢追い人」は狭き門をくぐることが叶わずに、こぞって夢叶わず、大量のニートを生んでしまった。

やりたいことを追求するあまり、甘んじてフリーターの立場をえらぶクソ真面目な人びとも多かった。

「失われた30年」と云われる不景気時代が、個々の夢追い人に苛烈な壁となってあらわれる。

人びとは、必死の思いで「バブル崩壊」「IT革命」の荒波のなかを泳ぎきり、適応をはかった。

市場原理に適合するためには、自分のコントロール下におけないノイズを出来るだけ除去しなければならなくなった。

自分でコントロールできる「手の内にあるもの」しか扱わなくなった。その中に「読書」が含まれる。

仕事のノイズになるものは、排斥することにしたのだ。

つまり仕事一辺倒のモーレツ労働者になって、適応しようという、涙ぐましい真面目人間なのであった。

なぜ、それほどまでに仕事に打ち込まなければならないのか、いや何故そんなに全身全霊仕事に打ち込みたいのか?

それは、自分と向き合うのが怖いからであろう。

仕事にかまけているうちは、「自分を知る」という孤独な営みには目を向けないで過ごせるからである。

他人というのは、自分の抱くイメージ(幻影)を投影したものだというから、他者と自分の関係をつきつめることは、つまり他者との付き合い方を理解することは、そのまま「自分を知る」行為になる。

 

自分の殻に入っていては、自分の姿が分からない。

だから、自分が自らの他者にならなければ(客観視)自分というものは分からない。

自分の殻にこもっている人は、他人がその客観視の役を勤めてくれる。

他人とは、自分の殻を抜け出た自分なのである。

そうして離れた処から見なければ、自分の輪郭というものは分からないものである。

つまり、「自分を知る」とは、他人を通して「自他を知る」の謂いであろう。

自分と誰か他人が付き合っているのを、「離見の見」でみる。それはいわば神の視座である。

自分ひとりしかいない時は、斜め上空から眺めているつもりで自分を観るしかあるまい。

この境地にあるとき、、ゆめゆめ自分にのめり込むことはあるまい。

自分の文脈だけで、ものごとを断罪するとき、それはただの拘りというか執着をあらわすものに過ぎない。

他人の文脈が入ることは、とりも直さず「離見の見」(客観視)ができているのである。

つまり、自分に慢心していない、油断していないときであろう。

洞察は、斜め上からの「INSIGHT」(外から覗き込む)が本来であろう。

人は誰でも、自分を外から眺められるものだと思う。

南方熊楠の云う萃点というものが、おのずと分かっていて使っているのではあるまいか。

斜め上に、ℹ︎クラウドの収納点があるのじゃあるまいか。

 

いま活躍している年代の人は、コスパ・タイパに執心するあまり、自分を大事にし過ぎるんです。

自分を内側から見てばかりで、自分の輪郭(キャラ)が分からないのでしょう。

> コスパよくしたいなら死ねばいい。(成田悠輔)

> Happiness is not a goal … it’s a by-product of a life well lived.

幸せは目指すものではない、それはよく生きた人生の副産物なのです」(エレノア・ルーズベルト、第32代フランクリン・ルーズベルト大統領夫人)

 

だから、読書📖したらいいんですよ。

本を開けば(電子書籍でもいい)、そこに他人が存在している痕跡があります。

読書人は、進んで読むという行為によって、その他人に寄り添っていって、次第に自分を無にして、その他人の文脈に乗ってしまいます。

そして没入して、他人の眼👁️‍🗨️に成り切ったとき、見つめているのは自分自身なのです。

そう、自分自身が世界🌏です。

世界は、わたしの脳内にあるものですから。

 

…… と、つらつら思いを巡らしてみると、

自分の文脈しか分からない人(=いわゆる馬鹿)は、一見自由気ままのようでいて、実は受け身で生きている人でしょう。

なぜなら、自分の内側しか見えないから、外からの刺激を受けないと自分の反応が分からないし、自分の反応が見えないからです。(内側の反応を見るというか感じることは出来るでしょう)

自分を外から知ること、これを教養と云うのでしょう。

教養があるとは、外の離れたものと自分との接点があるということだと思います。

自分の文脈と同じ文脈が、そこに息づいていることを感じられる。

摂理が、自分を貫徹していることが実感できる知の働き(≒知性、神性)を持っていること。

それが通常の世間知や人文知と一線を画する「叡智」というものだと思います。

 

やはり、やれば「ひとりにされる」読書📖という行為には、自分の文脈から離れる、あるいは忘れる効果があり、

他人の文脈に浸かることによって、自分の文脈をも深く知ることのできる営みなのだと思います。

自分の文脈と、他人の文脈との間にながれる地下水脈みたいなものを、本来は味わっているものでしょう。

いつの日か、自分の文脈が、世界創造の文脈になるのです。

文脈というからには文章があるわけですが…… 

案外そのうち文章は要らなくなるのかも知れません。

 

(聖ラマナ・マハリシ)> おそらく私の学問はすべて過去世で学び尽くされ、私は辟易していたのでしょう。それゆえ、現在その分野にサンスカーラ(精神的傾向)が作用しないのでしょう。

[ラマナが学問しなかった理由、14歳まではした]

それ以来、私は読みたいとも学びたいとも思いませんでした。

 

そんなこともあるのかも、、、大自然の書物を読むという言い方もしますしね。

山川草木・岩石・鉱物にも文脈はあります。

あらゆる文脈を読むことは、きっと楽しいに違いない。

     _________玉の海草

 


(🧉) 随処に主感 ❶〜❼くらい

2024-07-12 22:20:39 | いまの世相

__ 567ウィルス🦠以来の日本は、つまらない国に成り下がってしまいました。

人びとは、変な人が多くなりました。

逆走したり、歩道に突っ込む老人は、なんでこんなに多くなったのか?

まー、何かが水面下で潜行中なのは確かでしょう。

 

それでも、生きてゆかなくちゃならない。

せっかくブログスペースお借りしてんだから、何か語らなくちゃいけないね。それでは一つ…… 

 

 

 

ユーミンに対しては、

「いい夢を見させてもらった」

という気持ちと、

「あんな夢さえ見なければ」

という気持ちとが入り交じる感覚を抱く人が多いのではないでしょうか。

かく言う私も、その一人。

ユーミンを聴かずにもっと自分の足元を見ていたら、違う人生もあったかもね、とも思います。

[※  酒井順子『ユーミンの罪』より]

 

 

…… ユーミンは、70年代に「ニューミュージック」と名づけられた彼女独自の音楽テイストによって、四畳半フォークを駆逐して、

おしゃれな女子御用達音楽を確立した天才である。

しかし、彼女のその天才性ゆえに、世間にばら撒かれた弊害も巨きかったと言えよう。

 

ほかにも北海道から出た、夢見る少女(少女マンガ的)のようなドリカムの吉田美和や、

1983年にオープンした現実世界に現れた夢の国「東京ディズニーランド」も、その後永く続いてゆくファンタジーの世界を牽引したと言えるか。

ネットではこんな最もな声もあったな。

上野千鶴子と瀬戸内寂聴

日本人の結婚観を毀損した二人ですね。

 

この時代(80年代)は、

「ぶっちゃけ」の象徴である、写真週刊誌『FOCUS』が活躍し始めた時期とピッタリ一致する。

[※  『FOCUS』は、

1981年に創刊、2001年の第1001号で休刊した]

 

この「ぶっちゃけ」が、日本婦女子を変えた社会風潮の最たるものだと、私は感じる。

女性の文化を、「ぶっちゃけ」てしまっては、男は幻滅するしかないからである。

この時点が、いまも深刻な懸念を呼んでいる「少子化」の原点となるだろう。

そのへんの詳細な解析は、天才山田玲司(漫画家)の秀逸な「世代論」が既に発表されているから、いつかこのブログでも「まとめ」てみたいと思っている。

おとこが夢想する「やまとなでしこ」は、この時期にほぼ絶滅したと言ってよいと思う。

 

それ以降……

男は二次元へ、女は推しの世界へと没入することになる。

 

 

 

__ こっからは、過去の拙稿をまとめて掲載しておく。

 

⚫️20240515

 🔴2007年に始まる

 

「男たちは2007年に恋愛を諦めた」

…… こう言ったのは、詩人・山田玲司(漫画家)だが、彼の世代論はおそろしいほどの説得力がある。

人びとの意識変化を、漫画アニメという地下水脈で追っているからだと思う。

彼は云う、

90年代、ギャルが自分のオンナ(性)を金で叩き売りする「援助交際の時代」を経て……

世のアイドルからも清純なイメージが消えた。

そして、男たちにも自分に見合う額で買える感覚が芽生え、「会えるアイドル」が誕生する。

彼女たちには、「恋愛禁止」が課される。

若い男は、女に対して

「女は天使のように清純で綺麗なもの」という幻想を持たせてもらえなければ、心から女を愛することができないようにできている(例外はあれど)。

[※ 山田玲司『見下すことからはじめよう〜「中2」でなければ生き残れない』より]

 

…… 単純な男性性が抱くロマン志向である。

ゲーテのグレートヒェン幻想とか、近くはMJのダイアナロス幻想(フリオに取られて絶望する)とかの、「聖なる女」幻想である。

しかし、実際の社会で蔓延っていたのは、

援助交際をする女(ギャル)

(※ 若い男の幻想を裏切り続けてきた)

ヤマンバギャル(風呂に入らない)

汚ギャル

(※ ここでオトコは、潜在的に現実の恋愛から撤退した)

ホームレスギャル

(※ オトコの抱く「女=天使」像が完全崩壊する)

 

…… この、オトコたちの「天使(幻想)」が絶滅したまさにその時、時を同じくして、

バーチャルアイドル「初音ミク」が降臨する。

そしてリアルな恋愛、リアルな身体性が消滅する。

 

この一連の社会潮流に関して、

「ヤマンバ〜汚ギャル」への傾倒(彼女らにしたら、「抵抗」「防御」の意味もあったが)にストップをかけた人物が存在する。

こないだ『激レアさん』に出演なさっていた、「ラスト・ヤマンバギャル」といわれた「あぢゃ」さんの貴重な証言によれば……

社会から「ヤマンバギャル」を駆逐したのは、「ゴリエ」ちゃんだったそうだ。見事なまでに一掃されたらしい。

あまりにも意外で…… つまり、オトコがオトコの幻想を救ったのである。

 

オトコもオンナも共に、夢やぶれた者は「おひとり様」へと向かってゆくのが世の趨勢のようだが、

そこそこでいいんじゃないのと残念に思う。

 

 

⚫️ 20240323

 🔴デジタルネイティブは幸せか

田舎での少年時代を思い起こすと……

学校🏫終わったら、走って帰って、ご近所の遊び仲間(小1〜小6まで、通学時に一緒だった者たち510人位)と、自転車で隣り町に遠征したり、川で雑魚獲りして泳いだり、山に山菜獲りいったり、雪山でスキーしたり、メンコやビー玉や、〇〇カードとか集めたり賭けたり、ちょっと危ない合戦したり秘密基地つくったり、駄菓子屋に行ったり、大人のおでん屋で皆で食べたり……

暗くなるまで、騒ぎまくって、テレビで『仮面ライダー』が始まるまで帰宅するといった生活だった。

中学に上がると、そこには部活が入ってきた。

 

それが、私達から10年も年下となると……

7080年代に生まれた人びとは、上記で述べた学校が終わってからの生活が、ゲーム一色に傾いてくる。(任天堂のファミコンは、1983年に発売された)

幼い頃から10代にかけて、何に多大な時間を注ぎ込んだのかは極めて重要なファクターである。

 

田舎の少年が、友だちと野山をかけめぐって色々な経験値をあげていた頃……

ゲームに熱中していた少年は、(他人の作った)ゲームから経験を得るしかなかった。それも長時間座った不自然な姿勢で。

もう、この段階で「こころ」が壊れている。

ゲームの世界が、ほぼ自分の生息する世界になってしまっている。ゲームのルールが、少年たちの人生のルールになってくる。

 

そーなったら、面白くないゲームはやらないし、終わったらリセットしたらよい、初期パラメータ(能力値)も自分の納得するものを選びたいし、好きなだけゲームに没頭したいとなる。

しかし、ゲーム時間が終わって、現実の生活に引き戻されると、そこはゲームのようにはいかない世界である。

しかし、経験値のほぼすべてがゲームに依存している少年たちでは、ゲームの世界が実生活を侵食し始める。

そーいった「ゲーム脳🧠」から出てきた言葉が、たとえば「親ガチャ」だったんですね。

それは親不孝な発言などでは毛頭なく、ただ自分の人生(≒ゲーム)を考えた時に「初期のOS(親や育った環境)」が間違っていたという冷めた認識。

ゲームをやらない人からは、到底思いつかない思考回路なんですよ。

そして彼らは、その後「就職氷河期世代」として、まるでいいところのない青春時代を送ることとなります。

コミュ障からの「こもりびと」が多くなるのも、この世代からですね。(うつ病も同じじゃないですかね、初期外部環境の外圧による不具合発生といえるのでは)

 

わたしがゲームをやらないのは、人生≒ゲームだと薄々感じているからだと思います。

ただ彼らと違うのは、人生はコンピュータゲームのような粗雑なゲームではなくて、もっともっと精緻で綿密なものだという認識なんです。

どこかの誰かが設計した、狭い世界観からつくられたゲームに、自分を委ねることが出来ないのです。

 

そんな「ゲーム経験」の有る無しによる断絶は、

戦前戦後の「戦争体験」の有る無しによる断絶と、その溝の深さにおいては、ほぼ等しいものがありそうだ。

「ゲーム経験」と似た消息で、IT革命において「パソコン・スキル」が世代の断絶を生んだし、また「スマホ経験」が全世代あたりまえのものとなってくる。

それ、やらなければ生きていけないのなら選択の余地はないが、果してアップデートは必須なのか迷うところだ。

 

 

 

⚫️20240424

 🔴愛されただけで終る人生って

2050年までに消滅してしまいそうな自治体が、744市町村で、全体の40%にもあたると。

この調査って、

【若年女性(2030代)】の人口の減り具合で試算しているんですよね。

街を維持するために必要な最重要ファクターは、若年女性ということが分かっているのに……

なんでチンプンカンプンな少子化対策を打っているんでしょうね?

 

田舎から都会に出てゆく若年女性は、田舎にも帰らないし、都会で結婚もしない。

自分の夢物語に没頭するだけの若年女性を育てたのは、わたしたち日本国なんですよ。

いまの日本では、たとえ生き延びても、古き良き日本の風情(日本の原風景、日本国の本質)を継承できない。

わたしの住まいする東北の町も、消滅候補に入っていた。活発な女の子は皆上京しているもんな。

いまになって思うのは、最も大切なのは教育である。

子どもの教育というよりも、良き母親(母体)を育てる教育である。

若年女性が、結婚したくない〜子ども産みたくないというのは、亡国のサインである。

 

親から愛情ふかく育てられ、その負債を返せないままに亡くなる独身女性・独身男性は、その偏ったバランスを修正しなければならないだろう。

愛というものは、受けても自分の処で滞っていると腐ってくるもののようだ。それが中高年ともなると、だんだん苦しくなってくる。愛する対象に飢えているのだ。

愛というサイクル(循環)は、受けて出して、そこで完結する。恋愛にかぎらず、根源神と私の間でもそのサイクルを全うしなければならないと思う。

 

 

 

⚫️20240427

 🔴大谷選手のもたらすもの

今朝も、オータニさんの7号ホーマーで爽やかな朝☀️を迎えました。ありがとう、おたにさん♪

 

別にオータニがホームラン打ったって、わたしの手柄ではないし浮かれてんなよ、と自戒するのが昨日までの私でした。

オリンピックの金メダルだって、自分が取ったわけでもないのに、日本の誇りだとか何とか、所詮はヒト事でしょと冷めた目をしていたものです。

 

でも、これって真相はストレスと関係するんですな。

名越康文さん(アドラー心理学)が言っていました。

人生において純粋な喜びなんてない。(近傍にはね)

 

…… 近傍ってのは、自分の身の回りにはないということ。少し遠くにはあるんですな。

たとえば、阪神が優勝したとか、いう時。

遠いところにある、ある種の幻想の中でならば、のんきに全力で楽しむことができる。

つまり、人間の場合、そうした幻想の中にしか本当の喜びはないといってもいいそうです。

なぜなら、動物はちがいますが、人間は良いことも悪いことも、どちらもストレスになるからです。

 

1970年代にアメリカ🇺🇸で行われたストレス調査で、「人間がストレスを感じる20項目」が公表されたのですが……

親しい人の死別や会社が潰れるという項目のほかに、結婚や子どもが生まれるといった慶事もまた上位に入っていたそうです。

マリッジブルーなんか該当するのかどうか、いずれにしても喜び事の折りには、くれぐれも注意しなければならないそうです。大きすぎる喜びはピンチなのです。

 

こうしてみると、誰かの推しだとか、エンターテイメントやスポーツ等の祭典は、人間にとって自分の身近な事ではない為に、【ノーストレスで純粋な喜び事】なんですね。

ヒト事ゆえに、全力で喜べる貴重な機会なんですね。

人間は、遠い幻想でしか思いっきり喜べないのですね。ひとって儚いものです。

 

 

 

 

⚫️20240409

 🔴若者は危ないのでは

霊主体従の時代

日本国のご老体は、元気で溌剌とした方々が多いです。霊主体従となったら、その心はますます肉体を若返らせることでしょう。

しかし、引きこもりやうつ病の蔓延している中年〜若者はどうでしょう。弱り目に祟り目で、より弱体化が進むことでしょう。

 

少し前に、「自分の祖国を守るために戦いますか?」という国際的なアンケート(国際価値観調査2017〜2020……

日本のために戦うと答えた人は、13%しかいなくて、

参加79カ国中で最低だった。(78位のリトアニア🇱🇹33%だから、圧倒的最下位)

 

この調査は、各国ごとに全国の18才以上の男女1000〜2000人をサンプルにするものだから……

若者だけではなく、中高年も「戦いたくない」のである。

戦後民主主義の洗礼をうけて、戦争は悪だと叩き込まれた「団塊世代」を筆頭に、

祖父母世代〜両親世代〜子ども世代

の三代にわたって、マッカーサーの日本人弱体化計画が見事に成し遂げられたことが、この調査で証明されたことになる。

 

若者世代には気づいてほしいのだが、

昭和の体制を馬鹿にして、親の意見は無視あるいはなかったことにして、自分たちの世界で生きることを選択しているように見える若者世代の実態が、

実はアメリカ🇺🇸さんから洗脳されて、まんまと三代にわたって導かれたものであるという深層の事実に向かい合ってほしい。

先代も先先代も、あなた方の準備をさせられただけなのです。

目の前の、「自分だけの生活」を守る姿勢では、そうしたメタ認知は難しかろうが。

 

ほんとうに日本が嫌いな日本人が多いよな、学校で日本の良いところを教えていないからな。

日々の先祖供養や神社参拝もせず、祭りもおろそかにしている現代日本人は、霊的にも相当弱体化していることは明らかである。

よその国の漢心(からごごろ≒リベラル)で培養されて育った日本人は、霊主体従となっても大したことがないんじゃない。

 

 

⚫️20240424

 🔴そこそこの幸せ

レンタル彼氏についてコメントした方がおられたけれども……

白馬の王子さまを追い求めて、

「推ししか勝たん」と押し活に異性付合いの代わりを求めて、

恋愛至上主義を唱えて、結婚相手をえらぶのに一切の妥協を拝して、

お見合いや周りの外圧に負けないことを自分に課してきたような女性は、

完全に団塊世代から連綿と続く、リベラルな社会風潮に振り回された人々である。

 

白馬の王子様でも理想のイケメンでもいいけれど、

何%の男子が、それに該当するだろうか。

そしてそれは女子側の%でもある。

これは、「いい成績とって、いい大学に入って、いい一流企業に就職する」といった夢をかかげた人々と同じ過ちを冒している。

その目標(夢)を実現できる人は、何%いますか。

 

多く見積もっても、その理想を手にする人は、10人に1人もいないのよ。もっと少ない。

白馬の王子様と結ばれるよりも、そこそこの幸せを手に入れる、堅実な恋愛をえらぶことは出来なかったのだろうか。

結婚は、女性がGOサインを出さない限り、まとまらないことになっている。これは人類史が始まってから変わりはない。

つまり、女性が白馬の王子様に執着する限りは、少子化は止まらないのだろう。

 

世界的に人気のあるドラマ『深夜食堂』に出てくる、キャリアハイのお茶漬けシスターズのように、

理想主義と恋愛至上主義で凝り固まったお金を持った女性が、結婚ができないのは理の当然であろう。

キノコ雲に万歳しているようなTシャツを着ているような某国のアイドルを推したり、二次元の男の子に夢中になっていたり、ホストに貢いだり、刹那の幸せにかける、すさまじいばかりのバイタリティである。

二十年ばかし、そうやって夢を追いかけたら、ある日独居老人になっている、あるいは成るであろう自分に気づくであろう。

 

そこそこの幸せに満足できなかった人は、いつまでも理想を追い求めるしかないのです。

自分の理想に殉じる、その意味では幸せでしょう。

 

 

 

 

⚫️20240616

 🔴音読すれば分かる

「誤読も含めてその人の理解力」ということで、

『読書百遍、義、おのずからあらわる』であり、百回読めばよいと言う読者のかたがおられました。(スマホ中毒の現代人には無理だとは思うが)

平易な文ばかりではつまらないという点も、もっともなことだと同意いたします。

「門前の小僧習わぬ経を読む」と申しますように、

繰り返しによる「薫習」で自然と身につくやり方もあります。

 

BSの、鈴木保奈美『あの本、読みました?〜』で取り上げられていて……

40年にわたってベストセラーで、東大生がもっとも買った文庫本一位だった、外山滋比古『思考の整理学』の一節が強く思い出されたので引用しますね。

 

【声で考える】のは、現代人においても決して見すてたことではなかろう。

書き上げた原稿を読みなおして、手を入れる。

原稿は黙って書くが、読みかえしは、【音読する】

(中略)

そして、【もし、読みつかえるところがあれば、かならず問題がひそんでいる】

再考してみなくてはならない。

沈黙の読み返しでは、

たいていこういうところを見のがしてしまう。

声は、目だけで見つけることのできない文章の穴を発見する。

声は思いのほか、賢明なのであろう。

[※  【】は私が挿入]

 

音読してみて、「読みつかえる」箇所がないか検証してみるのは有効であろう。

コトバは音にすることによって、言霊となり、文字とはまったく違った作用を起こす。

昔の、論語の素読は「音読」であった。

グルジェフも、『ベルゼバブ』をはじめ自らの著書を弟子たちに音読させた。グルジェフの文章は、イメージを喚起させる書き方をしているからである。

 

果して、ブログ『伊勢-白山 道』のリーマンさんの文章が繰り返しの「音読」に堪えうるものか、読みつかえる処がないか、調べてみるのがよろしかろう。

 

 

__ 以上、

目ぼしい投稿をピックアップしたが、最後はやっぱり「日本語」に行き着いちゃうね。

音読してダメな文章は、悪しき日本語であるとは至言ですね。

      _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


🏓 中国の卓球女王〜 実はアイドル並に可愛ゆい

2024-03-02 20:22:23 | いまの世相

__ 🏓 世界卓球釜山大会2024 では、

日本女子チームが決勝で、23 で惜敗したが、あわや優勝するかという地点まで中国チーム🇨🇳を追い込んだ。

中国の卓球ファンは、ヒヤヒヤドキドキしながら、決勝を見守ったようだ。こんなに追い詰められたことは初めての経験であり……

最終試合の「張本美和ー陳夢」戦は、まさに手に汗握る攻防だったようだ。(そんな追い詰められた状況下であっても、ハイリスクなロングサーブを4連続で決める陳夢はサスガである)

 

いかに苦しい決勝戦だったことは、滅多に感情を表に出さない中国🇨🇳のエース孫穎莎(そん えいさ、スン・インシャ、Sūn Yǐngshā、2000年11月4日生れ)が初めて公の席で泣いた顔を見せたことでも分かる。

【優勝インタビューに臨む直前に、涙を拭う孫穎莎と陳夢】

 

決勝戦では、孫穎莎はふたり(張本と早田)と戦い、二勝をあげている。

日本🇯🇵のエース、早田ひなは孫穎莎については、3ランクくらいは上の実力者で、手も足も出なかったとコメントしていた。

東京オリンピックでも、伊藤美誠が完膚なきまでに叩きのめされたのは、記憶に新しい。

男子選手なみの強力なフォアの打球を打ち、戦略も多彩で、落ち着いたポーカーフェイスである。

まったく弱点が見当たらない、世界ランキング一位である。

性格も人懐っこい。日本チームの伊藤美誠にも自ら声をかけて、おにぎり🍙をもらったりする。早田にもいっしょに練習しようと自ら誘っている。

まだ若いのに、そつがない。中国チームでもほっぺたをつねられたり、先輩にちょっかい出したり、人気者である。

 

 

…… ここまで、彼女を見ていただいて、お気づきだろうか?

そうです、孫穎莎はかなり可愛い顔をしているのです。

イタズラ好きですが、落ち着いていて、品もあります。

 

   【王曼昱、陳夢と仲良く3ショット♪】

 

いま現在は、オトコみたいな短髪していますが、これが髪を長くしてフェミニンにしたら、かなりの女度になるのではないでしょうか。

そんな合成(コラージュ)画像がありますので、ご覧ください。

 

…… どうですか♪    まるでアイドルみたいでしょ。

孫穎莎は、隠された美人卓球🏓選手なのですよ。

他にも合成写真を貼っちゃいましょう。

 

…… とんでもなく可愛いでしょ、女を捨てて、まるでジャンヌ・ダルクのように断髪して、ストイックに卓球🏓に人生を賭けているお姿が、また美しいのです。

ここぞというときの、強さは神がかっているというか、霊的なパワーをすら感じますね。

蠍座♏️の女そのもののような マダム・ブラヴァッキー女史(神智学協会)と同じ匂いがします。

 

 

__ 孫穎莎は、現在の世界卓球女王ですが、

前の世界女王・丁寧(ていねい、ディン ニン、Ding Ning、1990年6月20日生れ)も、

172cmという高身長で、イケメンと称された美人である。(トイレで男と間違えられて、ショックで落ち込んで泣いていたという逸話もある)

女性ファンも多く、「丁寧親衛隊」と呼ばれる熱烈なファンクラブも存在するそうだ。

 

日本人からすると、この「丁寧(ていねい)」というお名前がイイんですよ。

丁寧選手は、人柄も出来ていて、福原愛選手が個人的に尋ねると親切にアドバイスしてくれたり、早田ひな選手へも高身長同士で、懇切に励まし、彼女の将来を期待したそうである。(さすがに先見の明がある)

ドレス👗も、粋に着こなす。タッパが高いから似合う。

男子スターの馬龍(石川佳純の片想い相手)も張継科(中国卓球男子のモテ頭)も、丁寧選手が大好き❤️だと公言している。性格もすこぶるイイらしい。

私服もおしゃれで、その美貌が際立っている。

おまけに、昔は「ドラえもん」で、今は「ピカチュウ」の大ファンであり、周りからからかわれるほど熱中しているような可愛らしさも兼ね備えている。

ちょっと画像を見てみましょう。

 

 

 

…… 新・旧卓球🏓女王の関係性が、よく知られる動画ですね。ここでも孫エイサは、巧まざるユーモアを発揮している。10歳違いの大先輩にも、如才なくアプローチしているのは流石である。

さて、お次は丁寧選手のモデルとしての可能性を見ていこう。卓球台🏓を離れると、彼女は美しいんですよね。

真面目さと真摯さが、あの試合中の険しい表情となって露われるのですね。

 

【もー丁寧さんたら、脇処理忘れてますよ】

【儚げな風情も出せるんですね】

 

…… インスタの画像は、惚れ惚れするほどのイケメン女子です。

現在、卓球選手を引退して、なんと北京大学体育修士課程)へ入学したんですよ。知性もなみなみならぬものをお持ちで。

素的な佇まいで、女子卓球🏓の一時代を築き上げた丁寧選手。実に長きにわたって、ラスボスとして、日本女子卓球の前に君臨し続けた。

 

__ 最近、なぜか覇権国家中国🇨🇳の人びとへ、共感することが多くなっている。

その原因は、田舎の中国青年YouTuber、ぽー(POO)ちゃんの影響が巨きい。

オタクのPOOちゃんは、来日して錦糸町に住んでいるが、その生態が実に面白く、昭和世代のワイルドさに似たものも持っている。

大陸人の逞しさもあるのだが、何せイジメられて育っているせいで「日本の自由さ」が肌身で分かるという、日本という国に感謝しているんだと言う。

なんかその告白が、本当っぽいのですね。

小太りで、フィギュアと女の子が大好きな中国人アル。

懐かしい感じがする雰囲気なんだよね。

80年代日本では、POOちゃんみたいな20代はよく見かけた気がする。

もうすぐ、フォロワー10万人に到達するようだ。

動画に出てくる、さまざまな中国人女性もなかなか面白い。中国は多民族国家だし、あれだけ広い土地だから、地域差が激しい。

もの静かで内気な中国女性もいて、いままでの中国女性の概念を壊される。

POOちゃんはおそらく、中国人として何かが欠けているのだろう。

日本化したのかな、知らんけど。

 

 

どうなるものかねえ。

漢字好きの私は、むかしは中華文明信奉者だったのだ。

しかし、現代中国はあまりにも抗日運動が激しいので、半ばあきらめて、特に興味がもてないでいた。

でも、王羲之はじめ老子や孔子、中国禅僧もそうだし、中国拳法も、はなはだ魅力に富んだものが中国には存在する。

だから、全否定できない弱みがあるのだが、その反動でPOOちゃんのように、好きになれる中国人をやっと見つけたのだと思う。

闘神ブルース・リー以来、真に共感尊敬できる中国人があらわれた。それは意外なかたちで、ひょんな機会から訪れた。

中国🇨🇳や韓国🇰🇷と日本とは、かつて「オリエンタリズム」の関係性であり、その当然の帰結として日本は敵対国になってしまっている。

男女間の主従構造をもつ サイード著『オリエンタリズム』参照(記事の後半部分) ▼

 

《玉断》 「フェミニズム」ってのは、 時に、 男まで解放しちゃう - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 __日本では、インテリ女は嫌われる風潮があるようだ。誰が言ったのか、「頭のイイ女はほとんどの男から嫌われるが、賢い女はすべての男から愛される」とか言う諺め...

goo blog

 

 

どうなるものか、仲良くなる日は来るのだろうか。

まず今は、好きになれる少数を見つけることが出来ただけで、よしとしよう。

日本人だって、昔日の「古き良き日本人」の面影は地を払っている。日本人だって変わるのだ、隣国だって変わるだろう。

いつまでも同じではない。

一切皆変化、諸行無常、そこに一条の希望はあるかも知れない。か細い光明だが。

     _________玉の海草

 

 

 

 

 


 「〇〇世代」って 呼ばれたくない〜 年上の連中は 全て 「老害」

2024-02-19 01:54:59 | いまの世相

 

__ このCMは、面白いよね。

「呼んで呼ばれて、気がついたけどさ。

自分から名乗り出した奴なんて、いないんだよ!!」

 

…… 「当たり前だろ、そんなこと、アダ名はつけられるものでしょ」と私なら言いたい。

「ゆとり世代」が、一番文句つけたんじゃなかったかな、

「自分たちのことを、ゆとり世代って言わないで」と。

そんなこと言われましてもねえ…… 

ひとり一人の個性に合わせて、対応しろとでも言うの?

そりゃ、酷でしょう。

 

〇〇世代って、全体の傾向をつかんだ方が、やりやすいじゃん。

自分たちとココが違うのね、違うどころか、異次元の生き物なんだねと納得したほうが、絡みやすいと思うな。

「〇〇世代と言わないで」なんて、私は言いませんね。

私は、分類的には「新人類」と呼ばれたが…… 

「そんな風に先入観もたないで」なんて、思ったことはないね。

やっぱり、みずからの本質に自信があったのだと思う。

何とでも呼べばいいさ、と涼しい顔してたもんだ。

 

 

…… いいじゃん、「ゆとり世代」でも「Z世代」でも。やっぱりね、同世代に共通する顔立ちとゆーものはある。

その世代ならではの流行への熱量は、他の世代とは共有できないものだ。そして、それがその世代の「生き方」に大きく影響していることさえある。

例えば、「ガンダム」とか、「ビートルズ」とか、「ピンク・レディー」とか、「美空ひばり」とか…… 

 その話題になると、異様に盛り上がる題材が各世代ごとに必ずある。

それに、物流革命なんかも影響するよ、例えば比較的に「肉🥩」を食わなかった東北地方で、物流の改革によって、豚肉や特に牛肉の流通が飛躍的に伸びた時代があった。

それ以降の世代は、やっぱり体格が違ってくる。

つまり、その時代の「時代精神」を象徴するものが必ずあるんだよ。

 

世間に先行する世代からみて、正直な感想が「〇〇世代」という呼び名にあらわれている、ってことでいいじゃない。

悔しいのなら、個人的にその「〇〇世代」への評価を覆してみたらよい。それだけのことじゃないだろうか。

自分の扱われ方に、敏感すぎるのよ。

扱い方を決めるのは、いつの世も力のある方である。

 

 

__ 世相を眺めると、「ソフト老害」という言葉もひとり歩きしてそうだから、また私の「世代論」として、拙稿をまとめてみようか。

 

🔴 20240214

 

 戦わずして生き残られるのか

団塊の世代あたりの、全共闘世代は「戦争経験がない」から、若き知性でもって国家相手に戦った。

だから全共闘世代は、殴り殴られ、暴力というものに慣れている。ゲバ棒や拳でもって戦った世代である。

全共闘は大学生が中心にあったが、当時東京🗼の高校生だった坂本龍一は、早熟な知性で全共闘に参加している。

 

そんな坂本龍一が、西暦2000年を迎える頃……

病に臥せっていた父を励ますために、「エナジー・フロー」という曲を作った。

CMにも使われ、数多くの疲弊したサラリーマンを励ますことになった。この曲が坂本龍一の最大のヒット曲となる。

 

坂本の父・一亀さんは文壇では名を知られた敏腕編集者である。学徒動員で、戦争の現場を経験なさっている。

この厳しい父親と、坂本龍一は戦っていたのである。

晩年に、和解するような安らぎの曲「エナジー・フロー」を病床の父に贈り、一亀さんも気に入ってらしたようである。

 

つまり、戦前も戦後(全共闘19689年)も、男は恒に戦っていた。

戦いに参加できなかった、「団塊の世代」の下の世代は、「シラケ世代」と呼ばれて、国に楯突くのは止めたが、今度は別のものと戦った。

そして70年代を迎えると、外で戦う者は「不良」に、心の内で戦う者は「オタク」に分断した。(山田玲司説)

 

いまのZ世代の、父も祖父も戦っていたのである。

それを見て育ったZ世代は、もはや戦わなくなった。

拳で殴り合う代わりに、格闘ゲームに興じるようになったわけです。実際のケンカは、したことがないのです。自己防衛もできないでしょう。

 

痴漢をされても、暴行をうけても、エレベーターに閉じ込められても、火事になっても、「助けて!」と大声で🆘を出すことができない。

周りを気にし過ぎて、自分の意見を言うことができない。仲間はずれにされるのが怖くて、言いたいことも言えない。

そんな、保護されることを前提とした、女性目線が「ホワイト社会」を形造る原動力である。

ホワイト社会では、「戦う者」は疎外される。

エジプト🇪🇬人の女性が言っていた、今の日本は「女尊男卑」だと。(サトマイも同意していた)

 

それで、日本は生き延びられるのか、はなはだ疑問である。

_________

 

❎ 20200215

 リーマンさんの懐かしのギャグ

のたびに、読者に分断が起きているような風情がする。

中高年は、得意げに「知ってる〜♪」なんてはしゃいでいるし、

かたや、若者はつまらなそうに「そんなの知りません」と不満を鳴らす。

 

私らの世代(リーマンさんも同じ)は、もし自分が知らなければ、「恥ずかしながら存じあげないのですが、教えていただけますか?」と問うたものです。

いまは、「若者でも分かるように説明しないそっちが悪い」と言わんばかりに、その古臭さを馬鹿にしています。(ボンレスハムのCMは、YouTube で「1975-1987 ハム&ハンバーグ関連CM集」とか「CM 1983 丸大 ボンレスハム」でいまでも視聴できますよ)

 

「自分が知らない」ということに「恥」を感じなくなったのは、いったいどの世代からなのだろうか?

『バカせまい史』によれば、『ヘキサゴン』(2005)で初めておバカタレント枠が出来たということから遡って考えると、「ゆとり世代」の始まり(平成元年・1989年頃)に一致するかな。

「無知は罪」とは、アックンの世界でも金言なんじゃないの。

_________

 

❎ 20240215 

 年上を尊敬したい願望

リーマンさんが記事に懐かしの流行り言葉をのせるたびに、中高年から「知ってます〜♪」と嬉々として共感を寄せるコメが舞い込む。

これをみていて、ああ、相当下の世代から迫害されてんだなと。

世間の波に乗ろうと、時代から取り残されぬように、下の世代に合わせようと相当無理をなさっているのだろうなとひしひし感じられます。

 

西洋でいう「ノブレッス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」と同じように、日本にも『年上の義務』(山・田玲司著)というのはあります。

年下は、はなっから馬鹿にしようと思って年上を見ているわけではなくて、むしろ年上を尊敬したいと思っているという著者の感覚は、自分の若かりし頃を思い出しても共感できるものです。

年下からナメられないために、

年長者が最低限守るべき、三つの戒律をあげています。(山田さんは、時代の潮流を見透す、現代の詩人です)

 

・愚痴らない

・威張らない

・ご機嫌でいる

 

この三つだけです。

詳細は、

ゆうつべで「山・田玲司 【老害】年下から馬鹿にされる理由はあなたにある。」で検索して、1320 から3分間だけでもごらんになってみて下さい。

 

こんなこと言うと、中高年を批判しているように受け取られるかも知れませんが、私自身初老です。

いま、私たちが若者から突き上げを喰らっているように、若者たちもその年下から「NO」を突きつけられています。世代間の断絶は、昔以上に深刻なものです。

 

30代であっても、10代からは相手にされていません。

20代ですら、10代にとっては異世界の住人かも知れません。

誰にでも、「年下」はいるのです。

いつまでも、「年下」で甘えられるわけはないのですから。

だから、全世代に向けた提言となります。

 

 

🔴 20240216

 

 ソフト老害だって

ワイドショーで、スズキオサムが提唱した「ソフト老害」について特集していて、笑った。

最初は、5060代の老害ではなくて、40代でも老害を引き起こしているという趣旨だったのだが……

そのうち、30代にも当てはまるとなって、

更に20代後半ですでに、老害となっているという具合に話がすすんでいった。

 

こちらで、「親ガチャ」の件で老害扱いされた私だったが、

確かに40代くらいで、若者の代弁をして、私はわかるが老人には分からないと間を取り持つようなことを言っていた読者がいた。

若手を理解している気持ちになってずれている「若き老害」であるかも知れない。

20代】「年齢が近いからこそ親身になってる感出して、口出してくるケースは感じます。『お前の気持ちわかるよ』っていう的外れなのはしょっちゅうある気がしますね」

Yahoo!ニュース、高齢者だけじゃない『ソフト老害』が話題に 放送作家・鈴木おさむさん「40代でも行動次第では老害に」の記事より]

 

平成以降は、若者の意見が社会で重視されるようになった。なぜならば、若者の方が ITスキルが段違いに高かったからである。(会社運営上の理由なのだ)

本来なら、この時代だけの逆転現象だったのだが……

現在でも若者の視点に注目が集まるのは、少子化がすすみ子どもの数が少なくて、就職現場でも売り手市場だからに過ぎない。

若者の価値観至上で動く社会なんて、歴史上なかったし、異常であろう。

 

しかし、その若者も中堅になって、すぐに老害問題を引き起こす年齢になる。

いつの時代も人間のサガは変わらず、同じような世代間対立が繰り返されるが……

いまの時代は、世代間ギャップが非常に細かくなってきているそうだ。

20代であっても、10代には相手にされないこともある。昔の80年代でも、10歳差はまるで合わなかったものです。

老害、老害と非難していても、明日はわが身なのですよ。

 

しかし、いくら世代間で常識が違うとはいえ、先祖供養(親孝行)の大切さは変わらないでしょう。

都会で先祖供養している家が少ないのは、親が教えなかったからです、自分もしていないから教えられなかったのです。

だから若者の常識のなかに、「先祖供養する」という項目がないのです。

栄えている家庭は、何代もの家族が同居して、親孝行な家風であります。

新しい橋が竣工されるとき、渡り初めするのはそうした何代も続いている家なのも日本各地で共通のことでしょう。

_________

 

🔴 20240217

 

  ソフト老害つづき

「老害」と呼ばれるのは主に5060代なのに、

「ソフト老害」とは、3040代、そして20代後半、

つまり【歳上だってだけで、老害認定される】ってことですね。

 

若者の気持ちが分かるよと、ほんとうに老害だよねと、若者に媚びる中間層が今回ターゲットにされたということで、

老害に対して、日頃自分たちが盾になって防いであげてるのに、後ろからグサリと刺された心地でしょうな。

 

でもそんな30代でも安心してください、数(人口)の上では、20代は30代に到底かなわないのです。

ついでに言えば、50代は第二次ベビーブームの生まれ(団塊ジュニア辺り)なので、40代に対しても圧倒的に多数(優勢)なのです。

ハラスメントはいけませんが、「若者に媚びる」必要は毛頭ないそうです。

ただ、感情的な反論ばかりで、「反証(エビデンス)」をあげないならば、若者と同様ですので、慎みましょう。

 

20代以下だけで世の中全部回して行ける」はずもなく、若手はいま自分たちが「異様に大事にされる」のは何故なのかを考えてみるべきです。

後年、あなた方がした様に今度はあなた方がされます。

_________

 

 

…… 世代論というのは、面白いね。

さっきも言ったけど、その世代に特有の顔つきってあると思うのね。

例えば、80年代のアイドル顔には類型がある。

NHK朝のテレビ小説『あまちゃん』で、有村架純が一気に中年から受け入れられたのは、

1993(平成5)年生れの架純ちゃんが、昔のアイドル顔していたからなのである。

ほんとうに驚いたものだ、これ懐かしのフィルム使ってるんじゃないかと疑ったほどだったから。

有村架純は、そのまま80年代のアイドルでも通用しそうな顔立ちだったからである。

だから、世代間格差はもう仕方ないのよ。

これは摂理です。

でも、世代ごとに違う特徴があるからといって、それが何なの?

そんなに重要なことかしら?

〇〇世代は、言ってもいいし、言わなくてもいいし、そんな大した問題ではないのよ、本来は。

問題を大きくしているのは、いまの「打たれ弱い」若者なんじゃないかな。

受け手が「イヤな思い」をすると、それは自動的に「ハラスメント」だという、弱者保護のリベラル思想が根本にある。

いままでの歴史で積み上げられてきた、「女性が蔑視された怨み」は膨大な質量を帯びて、リベラル思想に反映しているのだろうね。

「ホワイト社会」は、コロナきっかけで浸透したのかも知れないけれど‥‥ 

やっぱり、草の根運動が実を結んだとも言えるわけだね。

心して、「ホワイト社会」に生きなければいけません。

まー、そんなに悪いことばかりでもないからね♪

とはいえ、旧態依然とした芸能🎭文化や職人文化は、壊滅的なダメージをうけることは間違いない。

「ホワイト化」は、都会化やハウス栽培化や無菌化の延長線上にある。

人間本来もっている野生化と、どっちに振り子が振れるか、ここ十年は注目するのも面白いかも知れん。

     _________玉の海草

 

 


 岡田斗司夫の “ ホワイト社会 ” 〜 どうして 【革命】 なのか

2024-02-04 00:53:31 | いまの世相

__ どこよりも自由な投稿空間である、伊勢白山道のコメント欄📝でも、3年ほど前から「不掲載」になることが多くなった。

ブログ主は、そうする理由を本記事のなかで、丁寧に説明してくれたが、なぜそうなるのか、なぜそうしなければならないのかがよく分からなかった。

「見ざる、聞かざる、言わざる」に徹して、よけいな言及は一切しないでくださいとの事だった。

個人を特定して、その危険思想を察知できるほどに精密になった 「AI による監視の眼👁️‍🗨️」のことなんだろう。

要するに、「ブログ存続のために」やむを得なく、そうせざるを得ないということであった。

 

今回、はからずも 「ダウンタウン事件」の、予想を超えて世間に波及してゆくのを眺めて、その裏表がハッキリと掴めたような気がした。

オタキング・サイコパスおじさん、岡田斗司夫のお蔭である。

 

「団塊の世代」75才位

   ↓

「ポスト団塊ジュニア」50才位

   ↓

「ミレニアム世代」 25才位

 

…… と三世代に渡って、受け継がれ、洗練化されてきた

 「リベラル・デモクラシー」 であって、

現在の主役 「ミレニアム世代」 は、昭和・平成の「生き方」に、あからさまな 「NO」 を突きつけている。

それの本質が、岡田斗司夫が 「ホワイト化」 と称しているものである。

 

かれが、それに加えて 「ホワイト革命」 とまで云っていることは、注目しなければならない。

「革命」 とは、それ以前の体制では想像すらできなかった価値観が、革命以後は 「あたりまえの価値観(生き方)」 になるという意味である。

戦前 「お上」 が絶対だったのが、戦後 「権利」「民主主義」 を覚えて、自由にわがままに、すべてに逆らうようになったのと、

いま始まっている「ホワイト革命」 とは、歴史的な転換点だということ。

これは、グローバルで圧倒的な外圧ということもあるが……

成る程と頷けるのは、それ以前とそれ以後の人口分布であろう。

第二次世界大戦・前後の日本🇯🇵における、価値観の大転換、まさに 「革命的な変化」 に優に匹敵する大変化が令和のいま起ころうとしているのだから…… 

それは、ただしく 「ホワイト革命」 といってよいだろう。

 

【荒川和久氏が作成した「年齢別死亡者数の長期推移」図】

 

スクショしたので、目を👀凝らさないと見えないのだが、

グラフ📈は、

ヨコ軸に1899年〜2067年までの4年毎の数値が記されている。

タテ軸は、30万人ずつ6段階で最高180万人まで表示されている。

グラフ📊の左側は、「太平洋戦争」 の間隙で仕切られていて、右側の 「現在」 の矢印がついた、タテの白線は、

2019年(この動画がアップされた当時)を指している。

 

このグラフ📉で、現在の2024年あたりを見てみると、

死亡者数は、150万人台に到達している。

つまり、

年間死亡者150万人越え(太平洋戦争時なみ)が、あと50年間は続くという 【推計】

となっている。

そして死亡者の70%以上は 「高齢者」 である。

【多死時代】が、既に到来している。

[※ 加筆🖌️ (20240227) 実際の話、

厚労省の『人口動態統計』によると、国内死亡者数は2022年に初めて150万人を超えて、2023年に過去最多を記録している。

2022年死亡者数ー1582033

2023年死亡者数ー159503 (2024年2月27日発表)

葬儀場は、今現在1週間待ちが普通のようです。新たな葬儀場の建設を予定している自治体が多いとの事。]

 

その結果、年齢別人口分布は、徐々に若年層が厚くなってゆくわけだ。

それゃあ、「ホワイト化」 が進むであろう。

なんということだろう。

 

 

__ 岡田斗司夫さんご自身がまとめられた、

「ホワイト革命」 の動画をリンクする。

【概要欄から、詳細を引用しよう。

> 2022/02/07

岡田斗司夫が今後訪れると予言するホワイト化社会。 それがどのようなものなのかを解説した本放送と2ndチャンネル含めた3本をまとめました。 コ○ナ、キャンセルカルチャー、ミュートと縦横無尽に解説しているため やや難解ですが十分お楽しみいただけると思います。

~~~~~~お品書き~~~~~~

0:00 コ○ナ戦争とホワイト革命 イントロ

2:30 日本は本当に清潔になった

5:46 コンビニのおにぎり

7:14 キーワード1  見た目は正しい

13:48 キーワード2  汚いものは正しくない

20:39 コ○ナは第三次世界大戦

29:20 メンタルのホワイト化

33:57 汚いものに本質がある

40:39 キーワード3  不潔なものは体に入れないようにする

43:06 (2ndチャンネル) ホワイト化みんなの証言

43:18 ミュートについて

43:50 ホワイト革命の世代差

44:25 上司のカラオケにモヤッとする

44:49 K-popアイドル

45:52 クジラの郷土料理

46:39 かつての街の中華屋の汚さ

47:03 ホワイト化社会が不安

49:10 コ○ナは第三次世界大戦part2

51:00 (本放送)80年代のCMよりわかること

53:02 進むミュート化

54:07 僕はホワイト化に前向き

56:14 錯綜する情報による死者

1:00:45 中年でさえ許されない

1:02:02 暴言もホワイト化対象 】

 

 

__ もはや、「ホワイト化」 の浸透は、わたしの日常生活にも及んでいるんだな。

今クールのドラマで、大好きで観ているのが

・『不適切にもほどがある!』

・『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』

のふたつは、もろに 「ホワイト化」 推進ドラマじゃありませんか。「❗️」がどちらにも付いているのが可笑しい。

【アップデート】 がテーマなんだよ、「社会のお荷物」 になりたくない主人公のお話みたいだね。

アップデートするのは、若者に合わせるためや追随するためではなかったんですね。

生き残るためにする、アップデートもあるんですね。

そう素直に思えたのは、いまは、現実が見えているのかも知れないなと思いました。

こう生きたいではなくて、生き延びるために、「生きられる」 選択をしようとしているのは、生命体としては正しい生き方ではないでしょうか。

とはいえ、ホワイト化というものは、私には抵抗のあるものではない。

平成の御代となったとき、昭和のおどろおどろしい靄がかかっていた 「霊的なバリアー」 がクリアになったのを肌で感じて、心底驚いた覚えがある。

それまでは、神社⛩️仏閣でも、なにかしら「呪い」とか「闇」 が建物や空間に染み付いていたものだ。漂う空気に澱みというか、奥行きのある落とし穴のような不気味さがあった。

平成を迎えたら(90年代になってから)、その類いの「うら悲しい」 ものや 「うらみの磁気」 が希薄になったような気がした。

それは、一面では情緒が薄まったような寂しさを内包していたのだが、昭和の情熱が薄められたようで少しイヤだったものだ。

しかし、『カラマーゾフの兄弟』 のような毒々しいまでの遺伝🧬的な粘着質の「怨念(生き霊)」 が、伊勢白山道の供養によって、薄められていたのが幸いしたのかも知れない。

お盆の時期に、きまって襲われていた「死にたくなるような意気消沈」 も、二系統のご先祖の墓を合祀してから、あらわれなくなった。

そんな、希薄な軽やかさ、ホワイト化は、昔求めて得られなかったものでもあった。

なんら問題はない。

ただ、本音のドス黒い塊はどうしたものかな?

わたしにも心奥にある「繊細さ」 を見て見ぬふりをして生きてきたツケも払わねばならんだろうな。

 

ホワイト化は、わたしの志向と一致する処もすくなくない、かならずしも逆らうものではないので、けっこう新しい世界🌍が開けるかも知れない。

でも、表面的な付き合いに終始しそうな気もするな。

ホワイト化は、いわば泥のついていない野菜🥦だからなあ。

本質はくらませないものだから、有機物(つまり臭い存在)としてどうなんだか、腐ったような臭さを嗅いで安心するような処もあるからなあ〜

一番キライな 「使い分け」 に追い込まれるかも知れんな。

まー、直面することが大事ですわ。

      _________玉の海草