『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

“短歌” よりフツーに〜  芭蕉 (俳句) が スキ〰️

2024-10-07 16:16:45 | 日本語

__昔は、和歌(短歌)俳句

「第二芸術」に過ぎないという評論が優勢で、

詩や小説(散文)と比べて、一段劣る余技みたいな扱いをうけたものです。

わたしも少年時代には、その論を真にうけて、俳句なんか単なる言葉遊びにすぎないと馬鹿にしていました。

>フランス文学者の桑原武夫は、終戦直後の1946年に雑誌『世界』で、『第二芸術―現代俳句について―』を発表しました。
 彼は、有名俳人の俳句と、アマチュアの俳句を著者名を伏せて混ぜ合わせ、いろいろな人に読んで貰った上で、優劣の順位を付けさせたのです。
 その結果、プロとアマのレベルに明確な差がないことが判明しました。

 このことから、小説、演劇を第一芸術とするなら、現代俳句はこれらに劣る「第二芸術」と呼ぶべきだと主張する論を展開したのです。

>良く誤解されているようですが、『第二芸術論』は俳句を全否定しているのではなく、あくまで終戦直後の俳句界のシステムを否定した論です。

 松尾芭蕉の功績については認めるが、それ以後の俳句界は彼を神聖視して祭り上げてしまったのが、間違いだったとしています。
 桑原氏は、「芭蕉を捨てなかったためにその後の俳人が堕落した」と述べています。 

 この点においては、正岡子規の月並み俳句批判と通底するところがあります。

[※  引用は共に、『日本俳句研究会』HP より]

 

俳句については、一度過去記事『 HiーKu (俳句) 🎋 〜 日本人の 「立てる」 御業 』で要約したのだが、

あの当時は、とても噛み砕いて理解していたとは言えなかったので、もう一度まとめてみようと思い立った。

 

俳句(連歌)のどこが、短歌(和歌)に比べて優れた芸術なのか、はっきりと並べて論じたいと思った。

「俳」の漢字は、「人をおもしろがらせる芸人」の意味であり、

・俳諧(おどけ、こっけい)

・俳優(わざおぎ=業招ぎ)

・俳徊(=徘徊)

の三つの側面を有している。

 

  

【すべての短冊🎋は、芭蕉翁の真筆。右から、

・ふる池や蛙飛込水のおと  はせを(者・世・越)=「芭蕉」の変体仮名表記

・かたられぬゆどのにぬらす袂かな  桃青(芭蕉の以前の雅号)

・雲の峰いくつ崩れて月の山  桃青

・涼風やほの三日月の羽黒山  桃青(この句は、初案であり後に「涼しさや」に)

右端の署名は、「はせを」(古語)、本来なら「ばせう」なのだが、そうはしなかった。】

 

 

 

__ ここから、中沢新一と小澤實による対談集『俳句の海に潜る』 より、引用と要約をしてゆこう。  

今回のメインテーマは、「俳句(連歌)短歌(和歌)の決定的な違い」である。

 

俳句は、必ず「季語」(動植物と気象から成る)を立てる

 

和歌における「歌枕(名所)」

日本人の場合、自然を制圧したり、やわらげたりする時は言葉にするんです。

奥州には近畿に次ぐ大量の歌枕があった。

歌枕によっても古代権力は陸奥を制圧している。<

 

…… 荒々しい自然や服(まつろ)わぬモノを、優美な言葉に作り変えてゆく、組み替えてゆくことそのものが、朝廷の権力(=西日本の文明)だったと云うのです。

じつは、天皇の一番重要な働きとは、「和歌を詠むこと」だったのです。

和歌とは、「マイルドなかたちに自然を組み込んでいくこと」によって、自然を制圧する機能があったようです。(天皇が、和歌で災難を鎮めたことについては伊勢白山道でも言及していた)

和歌の題は、優美な美意識によって限られたものが選ばれました。

 

俳句は、「権力から見ると周縁にいる農民とか庶民の感覚というものを立てた」。

松尾芭蕉がやろうとしたことは、

「西日本で発達した権力と一体になった芸術」(=和歌)とは、まったく違う芸術を作ろうとした。

天皇の芸術である和歌

和歌は限られた大和言葉しか使えなかった。

明治の短歌革新まで平安時代の古語だけしか使えなかった)

俳諧は漢語・外来語・俗語すべての言葉が使えます。

 

自然を記号にしていくという実践の動きそのものを愛でるのが和歌の本性。

記号は人間が作ってますから、それを破っていく行為として俳句がある。(「月並を破る」

その意味で、俳句は現代的でアヴァンギャルドなんだと思います。

二十世紀芸術の主題もそれですからね。

 

もしも俳句が時代に添って詠まれていくものであったとしたら、俳句じゃないじゃないですか。

俳句はつねに、今、ここにいる人間の外に行って、鳥になったり、動物になったり、死者になったりするわけだから。

今、ここにある現実の中に一緒になって動いていって、それを言語化して『サラダ記念日🥗』みたいになったら…… 。

それは俳句じゃないと思う。

和歌・短歌はとっくに俵万智で崩れてしまった。

和歌・短歌は本質が都会的なものだから、ああいうものでいいんだろう。

ただ、俳句は主題が人間でないもの(=モノ)である。<

 

…… つまり、短歌は口語化したが、俳句はそのあとを追わないのだと。(古語を守る)

芭蕉が唱えた「不易流行」という言葉には、深い含蓄があるのである。

不易なものって、同時代を生きていながらも、時代から外に出ていかないといけない。……( 略)…… 

でも、離れたところから変化流動生成している世界を、つまり流行の世界を詠むわけだから、そこに意識の行き来があるというところが俳句の面白さではないですか。

俳句の場合の不易って、たぶん、離脱ということじゃないかと思うんだけれど。

地平から離脱超俗という言葉でもいいが。

その離脱の目がいろいろなかたちをとって季語ということになっていると思うんです。<

 

俳句の本質は、「アニミズム」である。

アニマとは「ものを動かす」という意。

日本の縄文人とアメリカ・インディアンの考え方は、基本はだいたい同じだそうだから、インディアンの【グレート・スピリット】として考えれば解りやすい。

つまり、「宇宙全域に充満し、動きつづけている力の流れ」「宇宙をあまねくうごいているもの」を、目の前の世界に感じ取り、それを抽出して短く句に詠みあげるのを、「俳句」というのです。

▼スピリットの顕われ方については過去記事参照

 HiーKu (俳句) 🎋 〜 日本人の 「立てる」 御業 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 

日本では、スピリット=霊=タマ ですので、世界とは「タマのさきはう世界」となります。

アニミズムの極致の俳句(中沢新一)として、

「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」(芭蕉)

蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています。

 

和歌・短歌では人間が主体になります。

ところが、俳句の場合は非人間であるモノが主体です。

モノと人間の間を自由に行き来すること通路をつくるということが、俳句の主題です。

ですから、俳句は人間と非人間の間に通路=パッサージュを開く芸術として、

ある意味、和歌よりも人類学的な芸術なのではないでしょうか。

そうなると、古代的で、原始的で、アニミズム的だということになってくるわけで。<

 

「なぜ俳句を縦に書くか」

俳句は、発句を立てる。(立句)

そして短冊🎋にタテに認ためる。

ユダヤ系秦氏が日本に招来した「作庭技術」で、作庭の第一歩は、「石を立てる」こと。その技術者を「石立僧」と呼んだ。

この作庭技術から、お茶(点てる)とかお花(立花)とか、みんな生まれてくる。

古事記でも「天の御柱」を「見立てて」おられる。

【沼島の「上立神岩」、イザナギ・イザナミが柱巡りしたという伝説の場所】

 

一座の中心となる第一位の人物のことを、「立役者」「大立者(おおだてもの)」「立行司(たてぎょうじ)」とも言いますね。

 

天空と地上との間に喧嘩が起きて、不和が発生した。和を取り戻すためには天上界とつながらなければいけない。そのために高い山に登ったり、高い柱を立てたりするのです。

神話は、失われた秩序を人間がどう取り戻すかが大きな主題です。

芸術行為は柱を立てること、石を立てること、

要するに垂直線に立てていくことを基本に据えるけれど、その考え方は神話の延長上から来ているんだと思うわけです。

 

 

…… つまり、俳句は「立てる」芸術であるということなんです。ここに、俳句に託された寓意があると見ます。

芭蕉は、その境界に辿り着いたのでしょう。

和歌の限界を突破したというか、和歌では成し得ない働きを生み出したことが、朝廷からも認められた(諡)のだと推察いたします。

 

 

 

…… 芭蕉の最晩年にいたった境地「かるみ」についても、言及しなければならないのだが、なかなか把握できないでいる。

芭蕉は、連歌する際には、発句は「かろき句」を選んだと聞く。

この「かろき句」と「かるみ」は全く違うものなのだ。

わたしの愛唱する「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」や「荒海や佐渡に横とう天の川」などは、連歌の発句には使われない。これらは「重き句」なのである。

主情的だったり、感心されるような句は、「重き句」となるようだ。

芭蕉は、「かるみ」を明確に定義しなかったから、ややこしい。

わずかに

「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』より)

という言葉が残されているのみである。

まー、和歌の伝統である「風雅」を、さらりとしたものに変換する趣きのようだ。

人間の主観的な思い(=重い)よりも、たとえば心の動きを秋風に添わせる風情で、グレートスピリットの大きな波に乗るような感触を得た。

この「おもみ」を排斥するという点において、高弟たちが賛同しなかったらしいが、芭蕉は弟子の意見をみとめて、自由にさせている。

芭蕉の世界は巨きいとゆーか、別次元の調べが流れているんだよね。

芭蕉は、俳諧に特有のレトリックを多数編み出したらしいのだが…… 

「〜や」「〜かな」「けり」といった切字(きれじ)も芭蕉の発明なんだとか。

この切字によって、別次元に遊べるんですよ。芭蕉は世界を俯瞰するような、おほきな世界観(認識)をもっていたことを証しするものだと思います。

これは、ひとつには日本の和歌における伝統でもありました。

藤原俊成『古来風体抄』において、

和歌の道と天台本覚思想を融合させようとする試みが始まり、

正徹ー心敬ー宗祇と、天台で修行した僧侶の系譜を経て、心敬僧都において「冷えさび」を、宗祇において「連歌」の大成を見たのです。

(心敬)> 言わぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり。境に入りはてたる人の句は、この風情のみなるべし。

 

…… 芭蕉は、「冷えさび」の正統伝承者であり、それを自身の言葉で「かるみ」と云ったのだと思う。

過去記事▼

  「わび・さび」 の淵源〜 冷えさび🧊(心敬) なんだって - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 

やっぱり、芭蕉の句は、和歌を超えようとした凄みが漂う。ハレてさらりとしている宏大な趣きをあらはしているのだ。

ほかの凡百の俳人とは、一線を画する高みというか深みがある。

仏教的に云えば、

高みの昇る「往相」のみならず、「かるみ」によって「還相」をも包んでしまっているのだ。禅の十牛図の10段目の「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」の境地に遊ぶものであろう。風雅を退け、平易に世俗に戻るのである。「いまの一点に生きる」であろうか。

 

せっかくだから、わたしの好む俳句を並べてみましょう。  

芭蕉ほどの練れたものばかりではないが……

(芭蕉は、弟子たちに出来上がった句を、声に出して、舌の上で千回、転がしなさい」といつも云っていたらしい)

 

先ず、俳句なのに、短歌のように叙情的でこじんまりした駄作をとりあげようか。

 ✖️夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり (三橋鷹女🦅)

 ✖️みんな夢 雪割草が 咲いたのね (同)

 ✖️鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし愛は 奪ふべし (同、鞦韆=ブランコ)

 ✖️誰もみな コーヒーが好き 花曇  (星野立子)

 ✖️じゃんけんで 負けて蛍に 生まれたの  (池田澄子)

 ✖️コンビニのおでんが好きで星きれい  (神野紗希)

 

…… まー、ね、口語体の俳句は、尻切れ蜻蛉の「サラダ記念日🥗」ですよ。

短歌を短くしたって、俳句にはならないのですよ。

俳句がアニミズムであるとは、別次元へ通じる扉🚪、あるいは通路(回路)をもっているということ。そこには世界が拡がる驚きと発見があるのです。

彼女たちの句は、日常生活の延長線上に過ぎない。

 

おなじ女流でも、一味ちがうのも挙げておこう。

 旅終へて よりB面の 夏休  (黛まどか)

 夏草の 雨にけぶれる 平泉   (同)

 

短歌の、情念のほとばしる名首も二つ挙げます…… 

 花終えし あとは真紅に 身を染めて 白山風露 燃える一生  (長山昌子)

 年々に わが悲しみは 深くして いよいよ華やぐ いのちなりけり  岡本かの子『老妓抄』末尾の句)

 

__ こっからは、お気に入りの俳句を羅列いたしましょう。

日本人にとって芸術行為とは「つくる」ことではなく「見つける」ことではないのか。(中沢新一)

たとえば、千利休は朝鮮の井戸茶碗を、岡本太郎は縄文式火焔土器を、柳宗悦は民藝を、赤瀬川原平はトマソンを…… …… ……  最近ではパリ五輪で「無課金おじさん」を見つけたように。

 

 

 夏草や 兵どもが 夢の跡  (松尾芭蕉)

 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる  (同)   

 この道や 行く人なしに 秋の暮   (同)

 島じまや 千々(ちぢ)にくだきて 夏の海  (同、松島を詠めり)

 

 によつぽりと 秋の空なる 不尽の山  (上島鬼貫)

 そよりとも せいで秋たつ ことかいの   (同)

 

 春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな   (与謝蕪村)

 さみだれや 大河を前に 家二軒    (同)

 石工(いしきり)の 鑿(のみ)冷やしたる 清水かな   (同)

 

 遠山に 日の当りたる 枯野かな    (高浜虚子)

 

 くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり   (飯田蛇笏)

 まなことび 腸ながれあり ほとゝぎす    (同)

 なきがらの はしらをつかむ 炬燵かな    (同)

 芋の露 連山影を 正しうす     (同)

 たましひの たとへば秋の ほたる哉   (同)

 採る茄子の 手籠(てかご)にきゆァと なきにけり   (同)

 

    水枕 ガバリと寒い 海がある     (西東三鬼)

 おそるべき 君等の乳房 夏来る     (同)

 

 ゆきゆきて 帰る道なき 花見かな    (chori a.k.a キクチミョンサ)

[※  a.k.a」は、”also known as” の頭文字を取った略語。 裏千家の跡取りだったのに、分家して、夭逝した人です

 

 このひとと することもなき 秋の暮    (加藤郁乎)

 

 心あらば 今を眺め世 冬の山
      紅葉も すこし散りのこる枝
         木枯の ときしもあらく 吹きいでて   (心敬)

 世の中や 風の上なる 野辺の露
      迷ひうかるる 雲きりの山
         啼く鳥の 梢うしなふ 日は暮れて     (同)

 人の世は 花もつるぎの うゑ木にて 人の心を ころす春か    (同)

 

 紅葉の 色きはまりて 風を絶つ    (中川宗淵)

 

 冬蜂の 死に所なく 歩きけり     (村上鬼城)

 ゆさゆさと 大枝ゆるる 桜かな    (同)

 生きかはり 死にかはりして 打つ田かな   (同)

 秋の暮 水のやうなる 酒二合    (同)

 うとうとと 生死の外や 日向ぼこ   (同)

 

 分け入つても 分け入つても 青い山     (種田山頭火)

 せきをしても ひとり      (尾崎放哉)

    ほしいまま 旅したまひき 西行忌      (石田波郷)

 

 春風や いろいろの香を そそのかし     (加賀千代女)

 朝がほや 釣瓶とられて もらひ水      (同)

[※  この句は曰く付きの句で、正岡子規から酷評された逸話がある。> 「人口に膾炙する句なれど俗気多くして俳句といふべからず」(新聞日本)とバッサリ切り捨てています。というのも、「もらひ水」という趣向が写生から離れて「俗極まりて蛇足」だからというのです。<世間では「朝顔に〜」という言い回しで流布しています。いっぽうでは、> 鈴木大拙など「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世のものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によってうなずかれる」(『禅』所収)と絶賛しています。<]

 

 

 人体冷えて 東北白い 花盛り      (金子兜太)

 おおかみに 蛍が一つ 付いていた      (同)

 山桜の 家で児を産み 銅(あかがね)色    (同)

 三月十日も 十一日も 鳥帰る  (同、東京大空襲と東日本大震災の両日)

 

 ずんずんと 夏を流すや 最上川      (正岡子規)

 いくたびも 雪の深さを 尋ねけり                     (同、病床にて)

 漱石が来て 虚子が来て 大三十日(おおみそか)       (同)

       

 のどかさよ 願ひなき身の 神詣       (心学本より)

[※  この句は吉田松陰の作ではない。>吉田松陰が野山獄で妹宛に書いた手紙に、「仏法信仰はよい事じゃが、仏法にまよわぬ様に心学本なりと折々御見候へかし。心学本に、「長閑さよ 願ひなき身の神詣」。神へ願ふよりは身で行うがよろしく候」(岩波文庫『吉田松陰書簡集』)

 

 

__ やっぱり歌はいいもんですね。自然に彫琢された感じが山海の奇観に臨んだ思いがします。

5・7・5 (17文字)も、5・7・5・7・7 (31文字)も、ビートたけしは因数も合計も素数だって言ってたけど…… 

中沢新一は、海の民が舟を漕ぐリズム🚣🚣‍♀️🚣‍♂️じゃないかと言ってたな。

連歌は、多島海を舟で巡る遊びなのであって、それに橋をかけてしまっては台無しだと怒っておられた。

       【芭蕉が憧れた、宮城の松島の多島海】

発句のみを特別視した「近代俳句」が、「連歌」という稀有なる伝統を滅ぼしてしまったのです。

 

時代劇と似たような消息で、

俳句の「型」のある不自由さこそが、別次元へのトリップを可能にする土台となっている。

言葉は、人間にとって「呪(しゅ)」なので、縛りつけるのです。

その意識の連続性に切れ目をいれて、人間の目👀で見ないで、イーグルの眼👁️‍🗨️から、世界をみるのです。

中沢新一の言葉を借りれば、

俳句とはアースダイバーの文芸なのです。

古代の、縄文の地層に潜って、グレートスピリットの地下水脈に触れ、太古から伝わる未知のチカラに任せるというか、舟で漕ぎ出す試みなのであろう。

なぜ、陸地つづきではいけないのか、なぜ橋を架けてはならないのかは、

陸軍と海軍の理想像の比較に重なるだろう。

・陸軍〜 IRONーBAR(鉄の棒)

・海軍〜 FLEXIBLE–WIRE(柔軟にしなるワイヤー)

つまり、固まってはならんのだ。

俳句は、柔らかく「かるみ」をもって、変幻自在に流動するところに命脈があるということだろうか。

つまるところ、俳句は「大自然と同位に立つ」ということであろう。

人間という枠(和歌)からはみ出して、大地として感じ、天として見渡し、あらゆる世界線を飛翔してゆく、浸透してゆく、透かしてゆく、アニマ(グレートスピリットの一部)として、いろいろなものを見て動かすことだろう。

俳句は、極めて危ない遊びである。

誰もそこまで真剣にしないから、辿り着かないだけで、恐ろしいツールなのだと思った。

冗談抜きで、俳人は廃人なのかも知らない。

    _________玉の海草

 

 


 「剣豪小説」 とは、こんな感じ〜 白い闇夜にうごめく死闘

2023-10-28 00:23:51 | 日本語

__ 剣の達人を描いた剣豪小説(現在は、時代小説と云う)、

この特殊なジャンルは、その際立った精神性(悟りの境地、武士道)や多彩な歴史絵巻、伝奇物語としての風味もあいまって、おおくの読書人に愛されてきた。日本型の「教養小説」でもある。

しかし、職人気質的な文学ジャンルでもあり、未完の作品も少なくない。

このまま、「未完ゆえ単行本にもならずに見捨てられていた」傑作が、世間に知られないまま埋もれるのは、余りに惜しいので、こころある「時代小説ファン」に読んでいただきたい。そんな思いで著作権法に抵触しないように、地の文を適宜挿入しながら、引用の体裁をととのえようと思い立ちました。

[※ 五味康祐歿後、未亡人が原題『虎徹稚児帖』を『柳生稚児帖』に改名して、徳間文庫から初めて上梓された。単行本で出版されたことはない。]

 

【剣豪小説を愛する皆さんへ】

これから、白眉の剣戟シーンを引用しますが……

節々で挿入された私のコメントには漏れなく色付けしてありますので、

五味康祐の格調高い文章を味わいたい御方は、(色の付いた文章をスキップして⏭️黒い地の文だけを一気にお読みください

 

  書籍では、漢字の隣りに小さく添えられる「ルビ」の表記については、()内に半角カタカナで添えました。

一本線や破線も、できるだけ似たような印象に近づけました。

 

【読むまえに〜 物語の背景(あらすじに替えて)】

この「雪洞」の暗闘の舞台は、幕末の尾張藩剣術指南役・柳生兵庫介厳蕃(とししげ)の屋敷。

この未完の大作のラスボスは、「仙台黄門」こと戸田流林田派宗家・藤木道満であり、五味康祐『風流使者』でもラスボスをつとめている。『柳生武藝帳』における疋田陰流・山田浮月齋のような立ち位置であろう。

千葉周作が、「生涯敵わなぬ」と吐露していた、中西道場の三羽烏の一角を占める、「音無しの構え」の高柳又四郎は、この藤木道満の戸田流の系譜に連なる。

中条流平法を継いだ、越前の「富田流」は、一刀流を編み出した伊藤一刀斎や巌流・佐々木小次郎を育てた鐘巻自斎の流派である。鐘巻(印牧)は「外他、戸田」も名乗っている。小野派一刀流の源流と云える。

文中の浜部角兵衛は、藤木道満の一番弟子で道満の影武者をつとめるほどに出来る剣客だが、もとは刀鍛治であった。

その偽道満の角兵衛を襲うのは、江戸柳生を守る秘密結社「犬頭党」のメンバーである。

徳川幕府初期に柳生十兵衛の影武者だった狭川新七郎(古陰流)が、弱体化する江戸柳生を守るために組織した、柳生但馬守の弟子たちの末裔たち(稚児)で構成された陰の組織である。

裏柳生の忍者技に似て、集団で多撃必倒の必殺剣を振るう暗殺結社であった。

そんな、命を惜しまぬ、決死の玉砕戦法を取れる非情の武士が、無言のうちにジリジリと襲ってくる不気味さは堪らなく怖い。

 

 

_ . _ . _ . _ . _ . _   

 

 

 

五味康祐『柳生稚児帖』より引用>

 

雪洞(ぼんぼり)

 

  1

 

 偽道満が書院を出たのは八ツ(午前二時)過ぎである。

 早苗を辱しめたあの裸身ではなく、むろん軽衫 (カルサン)  も、袖無し羽織も身につけ、大小を腰に、片手で菅笠をさげていた。

 雪はいくぶん小歇 (コヤ) みになった様子ながら、深夜の暗さに変りはなく、植木までがた'''に雪に蔽 (オオ) われコソとの物音も無い。

 書院野広廂を渡り廊下の階 (キザハシ) まで来ると、そんな、真綿を敷きつめたような庭の静寂に一瞬、渠は立ちどまって視線を遣 () った。きざはしを降りたところに草履を脱いである。そこから渡り廊下が弧をえがいて母屋へ跨 (マタ) がっている。

 渠は草履をはいた。

 渡り廊下の、擬宝珠 (ギボシ) のついた手すりに蓑を掛けてあり、軒からはみ出た半分が雪で白くなっている。ゆっくり、手すりに寄ってこれを取りあげ雪を払い落すと、さっと肩へ引っかぶって、咽喉もとの紐を結び合わせながら、

…………

 何か、低いつぶやきを洩 () らした。それから菅笠を、被 (カブ) った。

 この時にはもう、万象ことごとく積雪の下に眠る趣きのあった庭さきに、一つ、ふたつ、白い影が動いていた。

 影は合羽を蔽 (カブ) っていた。

 先刻、偽道満が塀を飛び越えて立った燈篭のかげと、母屋の縁の下と、道場へつづく庭の柴折戸 (シオリド) のわきから現われた三人である。いずれも偽道満へ対 (ムカ) い、三方から迫るとともに蔽った合羽を、ふわりと後方へ投げ捨てた。

 襷 (タスキ) がけに鉢巻。

 藍色 (アイイロ) の稽古着へ、一人は剣道具の黒塗りの胴をつけ、野太刀さながらな大刀を提 () げていた。他の二人は常の武士のいでたちである。ただ雪の日なので、いずれもが軽衫ばき。

 偽道満__ 浜部角兵衛がこれら刺客の待伏せをいつ感知したか分らないが、恐るるに足らずと軽視したことは明らかである。それが、渠をして悔いを千載にのこさしめる因となった。

 たかが、柳生の門弟__ そう見くびったのが不覚である。

 

 

…… 黒柳徹子がテレビ📺出演を始めた(つまりテレビ放送が始まった)1953年に……

剣豪作家・五味康祐は、芥川賞を受賞した。(同時受賞は、松本清張)

齡31才にして、川端康成や三島由紀夫に匹敵する、美文調の練達した筆致であった。一種の「実験小説」のような体裁で受け止められたが、まごうかたなき「剣豪小説」(着想は斬新なものだったが)で芥川賞を獲ったのである。

その受賞作『喪神』は、ドラゴンボール超🐉の「身勝手の極意」みたいな心法の剣術で、オカルティックなある種の魔剣であり、かの幻の剣術「無住心剣」とはこんな感じなのかしらと思わせる短編である。

日本浪漫派の五味は、文章がいい。

オーディオの玄人で音感もすごれたクラシック通の五味は、きっと文章のリズム(律動)も練れているのだろう。

『喪神』は原稿用紙で30枚しかない、芥川賞史上もっとも短い作品である。ドビュッシーのピアノ曲にインスパイアされて書き上げた「剣豪小説」で芥川賞を受けたのも、空前絶後のことであろう。

ちなみに、文中の「渠」とは「かれ(=彼)」と読みます。

 

 刺客は、後でわかるが柳生屋敷の内弟子では無い。兵庫とは無縁な集団である。

 浜部角兵衛は夢にもそうと知らなかったから、

  「うじ虫どもが、この雪の最中 (サナカ) に湧 () くとはの」

 蓑を脱ぐではなく、擬宝珠の手摺に足をかけるとヒラリと雪の庭へ脚を没して立った。まだ大小は腰にさしたままである。

 三人は抜刀した。

 雪が深くて機敏な動作は双方とものぞめない。何か高速度写真の動きをみるように、雪を蹴散 (ケチ) らし、肺腑から絞るような気合の声をあげて一人が、刀を上段にふりかざし、ゆらり、ゆらり、角兵衛に駆け寄ると、ふわーっと刀をふりおろした。

 鏘然 (ショウゼン) 、これを受け止めた角兵衛の太刀の鍔もとで、刃が鳴った。

「これは」

 呻いたのは角兵衛である。音無しの剣のはずが、いかに雪の中とて、あっけなく刺客の太刀に音を発せしめたのだ。

 尋常の相手ではない。

「その方ら」

 角兵衛は菅笠の庇 (ヒサシ) から眼を光らせ、

「柳生の者ではないな。名乗れ」

「____

「われを藤木道満と知っての襲撃か。柳生の者でないならわれらの此処に在るをどうして知った?」

「____

「汝 (ウヌ) ら、新陰の一派ではあるな?」

 何と言われようと刺客はいっさい無言である。

 角兵衛にようやく微 (カス) かな狼狽の色がはしった。

 刺客らは、死を怖れていない。上層部より指令があれば己が生死を問わず、命じられた相手を仆 (タオ) す__ いうなら 《一人一殺》 、そんな訓練を受けた集団らしいと角兵衛は察知したのである。高速度写真の緩 (ユル) やかさで撃ち込んできた剣先に、かえって、凄 (スサ) まじい相討ちの意志があり、自殺行為に似た悲壮感さえそれはともなう攻撃であったことを。

「名乗れ」

 もう一度、角兵衛は叫んだ。蛆虫 (ウジムシ) と蔑 (サゲス) む傲慢さはもう浜部角兵衛から消えていた。

 三人は応じない。

 黒塗りの胴をつけたのが頭 (カシラ) 格で、歳は三十四、五。浪人髷で眉の太く精悍 (セイカン) な面魂である。これが野太刀を左手 (ユンデ) にまだ提げて、

〈懸れ〉

 と言わんばかりに右の刺客へあごをしゃくった。

 右にいたのは白鉢巻のひときわ凜々 (リリ) しい士で、歳は二十をいくらも過ぎていまい、眉はやはり黒々と太く、隼 (ハヤブサ) の鋭さをもつ眼で、これは刀を青眼に構え、雪に没する肢を、交互にゆっくり揚げながら一歩、また一歩、角兵衛の脇に接近する。

 同時に黒胴の合図をうけて先程の、高速度写真の緩やかさで挑んだ刺客が、今一度、こんどは双手大上段に刀を把()って、やや面俯 (オモブ) せに、鉢巻を締めつけた髷に粉雪を戴きながら角兵衛の左脇へ接近する。同じように片足ずつ、雪に埋もった肢を膝高くあげては躊躇 (チュウチョ) せず前へ、前へと進んだ。

 平地なら身のかわしようがある。機敏な跳躍も意のままである。

 だが、こう雪が深くては退 () きもならない。牛の歩むに似た鈍重さで、死を目前に、たじろぐことなく徐々に前進する彼等の、その接近ぶりにはおそるべき迫力があった。あまつさえ、黒胴の浪士も亦 (マタ) 、これは角兵衛の正面から、提げた刀を八双に把って、ひときわ膝を高くあげては前へ踏み出し、あげてはふんで肉迫する。

 

 

…… わたしの読書の始まりは、浪人時代に読んで、完全にその物語世界に魅了された剣豪小説、柴田錬三郎『運命峠』でした。

柴錬、五味康祐、池波正太郎なんかの王道の剣豪小説を読み耽りましたよ。後年は、隆慶一郎や戸部新十郎にも興奮していました。

何十年と、チャンバラ小説を読み続け、たいがいのパターンは熟知している私にして胸を震わす展開なのです。

ひょいと出逢った『柳生稚児帖』の、この雪洞の章には、一読ブッ魂消ましたよ。

なんという筆力でありましょう。

この文庫の解説者(稲木新)がいみじくも洩らしています。

偽道満を討ち取る場面の造型力は素晴らしい」と。

 

 

 

   2

 

 渡り廊下には屋根がかぶさっている。

 その屋根に積もった雪がすべり落ちるので、屋根の軒下にあたる辺はひときわ雪が堆 (ウズカタ) く、踏みこめば足の自由がきかない。

 角兵衛はそんな場所にいた。

 言いかえれば角兵衛が其処に立つのを刺客らは辛抱づよく待っていたに違いなかった。あなどり難いこれは武略である。

 雪は小歇みなく降りつづけている。

 角兵衛の蓑笠をかこんで、三つの影はともに死をいとわず迫る。

 どうしようがあろう。

「待、待て。…… 負けた。待て」

 構えた刀をおろし、角兵衛は手をあげた。

「身共の敗けじゃ。音無しの構えが、さいぜん刃 (ヤイバ) の音を発したことさえあるに、一対一ならまだしも、三人が斉 (ヒト) しく相討ちを覚悟ではこの藤、藤木道満とて⬜︎ (カナ) わぬ…… 先ずは、刀をひけ。許せ」

 

 

…… この⬜︎にした漢字は、ネット上の漢和辞典なんぞには載っていないものなのだ。手持ちの『漢字源』には、確かに記載されていたので、実在する漢字のようだ。

忄(りっしん偏)に、匚(はこがまえ)の内に「夾」を入れた旁(つくり)

漢文に堪能な、昔の世代には遣われていた漢字なのだろう。こんな未知の漢字の造型に出逢えるというのも、練達の時代小説作家を読む愉しみのひとつであろう。

五味康祐の漢文趣味は、ひときわ変態的であることよ。

 

初めて『柳生武藝帳』を読んだときには、その語彙の凄まじさに、漢和辞典・古語辞典・国語辞典を並べて、高校までの国語力を全開させなければならなかった。

ネット上に、五味康祐の撰んだ漢字がないのなら、いまもその条件に変わりはないとも云える、なんともはや…………

 

 

 

 危地に陥れば降服して難を免れるのも兵略であろう。卑怯者というだけでは、敗北を喫したことにはならぬし、斬られては弁明の余地もなく敗者である。

 いさぎよく死ぬより、卑怯者の汚名に甘んじるとも生きのびて再起を計るのが、刀工浜部寿定の血をついだ__ つまりは武士の育ちでない偽道満の真骨頂であろうか。

 だが、刺客らは、武士であった。

「見苦しいぞ」

 はじめて、中央の黒胴の浪士が錆 () びた声で、

「この期におよんで何をこわがる? 黒の酬いを避け得ると思うか角兵衛」

「な、な、なんと?」

 菅笠の下で炯 (カツ) と角兵衛は眼をむき、

「われらを浜部角兵衛と知ってこれへ? ……  だ、だれに聞いた? 言え、誰が今宵 (コヨイ) 、柳生屋敷をおれが襲うと汝らに告げた? 誰がじゃ」

 刺客はもう答えなかった。屋根から落ちた雪のうずたかいのへ、まるで滑走でもするように、

「曳」

 気合もろ共、三人ほとんど同時、太刀よりは身をおどらせて、角兵衛に殺到した。

 白刃が一度、二度、交叉 (コウサ) し火花が散った。

 にぶい、濡 () れ手拭 (テヌグイ) を叩 (タタ) くに似た音、噴水さながらに奔 () き昇る血汐 (チシオ) が梢 (コズエ) の雪を払う音。呻き。渡り廊下の手すりに体でぶつかる音。シューッと蓑の裂ける音、手すりに太刀の喰い込むにぶい音。

 鬼気迫る、この静寂 (シジマ) の暗闘に一時、夜空に舞う粉雪までが凍 () てつくかと思われた。

…… 申せ、だ、だれか汝らに……

 角兵衛はあごをさげ、手すりに背を凭 (モタ) らせてそれきり、ズルズルと地面へ沈んだ。雪の大地に尻もちをつく恰好 (カッコウ) で肩から腕の力が抜けていた。抜ける力に比例しておびただしい血が周囲の雪を染めた。

 左袈裟 (ヒダリケサ) と、脾腹 (ヒバラ) と、手首と大腿部を角兵衛は負傷していた。このうち左袈裟に浴びた一太刀が致命傷だった。

 がっくり項垂 (ウナダ) れて、角兵衛はコトきれていた。そのなげ出した脚のわきに二十前の刺客が、うしろの手すりに二つ折りに身を凭らせてもう一人が、これも瞬時の斬り合いで、相討ちで即死していた。

 無疵だったのは稽古着姿の浪士ただ一人。

 

 

…… 黒胴をつけたお頭格の武士は、胴をガラ空きにして捨て身の撃ち込みをするためであったろうか。

端然とたたずむ、生き残りの孤影に虚を突かれる。なんという戦い方、必ず斃すために、躊躇なく踏みこめることに怖気を震う。

尾張の柳生家は、初代の兵庫介が新陰流の正統三世を継いだが、大和柳生の育て方には「鳥飼い」と呼ばれる、絶対不敗の信念を植え付ける独特な精神的鍛錬法が存在する。

振り下ろされる刃の下をくぐるということには、それほどの絶対信念がないことには務まらないのであろう。

そうした宗教的ともいえるメンタル面での強靭さにも焦点をあてたのが、津本陽の大作『柳生兵庫介』であった。

「真言不思議、観受すれば無明をのぞく」

新陰流の道統を継ぐ最終段階として、穴山流薙刀の阿多棒庵のもとに参ずるという試練があった。

薙刀は、対剣術としては強いからね。長モノは、多人数相手でも力を発揮する。

長物から小太刀まで、そして無刀捕りの素手体術に極まる総合武術ですね。

 

 

 

   3

 

 いかな深夜でも、達人同士の斬り合いでも、瞬時に三人が仆れるほどの死闘が、人に気づかれぬわけがない。

 おもしろいことに、庭さきの呻きや、鈍い物音に最初に夢を破られ、気づいたのは母屋の奥の__ 現場から一番はなれた__ 病室に臥 (フセ) っていた兵庫の妻女だったという。

 

 

  

_ . _ . _ . _ . _ . _(引用終)

 

 

…… わたしの剣豪小説読書歴のなかでも、そのヒタヒタと迫る不気味さと不敵さに、剣戟描写の白眉ともいってよい『柳生稚児帖』の「雪洞」の一節を手入力している時に、これに関連した調べ物をする過程で、信じられないような情報が目に飛び込んできた。

 

『柳生武藝帳』ですよ♪ その続編たる『柳生石舟斎』がペーパーバックで初出版されたと云ふ。

ʕʘ‿ʘʔ〜マサカ……   Σ(-᷅_-᷄) ナンデストー、それってあのマボロシの?

 

【週刊「新潮」に連載された、当時のページ。挿し絵入りだったんですね】

 

webサイト「復刊ドットコム」によれぼ、

>「柳生石舟斎」は、週刊新潮(昭和37年~39年、307号~434号)に連載されたものの、以後一度も、単行本として出版されていない幻の作品です。

 

…… とすれば、60年ぶりの復刊ですよ。生きてるうちに読めないと思っていた。なにやらアタフタしてきた、神の恩寵は知らないうちに与えられているって、そんな氣分になりました。

すぐにAmazonでクリック、全4冊入手が決まった。

 

武藝者も、忍者や能役者みたいに「芸者」だから、マンガ『カムイ』みたいに、被差別部落を避けては通れないのですな。『柳生石舟斎』は、のっけからその展開だと耳にしてきたので、こりゃ読む機会は永遠にやってこないかも知れないなと、五味康祐の妙なる運命に天を仰ぎましたよ。

 

 

それが、現に目の前に、何の飾りもない黒い表紙の『柳生石舟斎』がある。

豊饒な中身と、荘厳な字面、そして格調高い文体。

いつもどおり、たしかな至楽を間違いなくもたらす五味康祐の本が、ここにある。亦、悦ばしからずや。

 

『柳生武藝帳』は、五回は読んでいる、三回目くらいが一番愉しかったような憶えが……   さて続編『柳生石舟斎』はどうであろうかのう。

 

四十年、このときを待った。いまのこの氣分、高額の宝くじが当たったら、こんな心持ちになるだろうか。

       _________玉の海草


 「こーゆー」 のって、泡沫の 「昭和軽薄体」

2023-06-27 01:30:48 | 日本語

__ 「こーゆー」とか「どーでもいー」なんてゆー「ー」の使い方は、歴史的には「棒引き仮名使い」という名前があるのだが…… 

それを知ってて使ってたわけではないし、何故こー書くよーになったのか、自分でもフシギに思っていた。(ネットの文章でしか使わない)

 

「棒引き仮名使い」の典拠はこちら参照。

> 1904 (明治37) 年度から使われた『尋常小学読本』には、このようないわゆる棒引き仮名遣いが書かれていた。
たしかに、「病気」はビョーキ」と発音するので、じっさいの発音に近い表記にしたのだろう。
しかし、日本の仮名の歴史において、棒引き「ー」は使われてきたことがない。
[ 沢辺有司 『日本人として知っておきたい〜 日本語150の秘密』 より]

 

…… この実用例は、明治時代の後期のことだから、もっと最近の実例を探れば、一時期モーレツに流行って…… 

泡沫(うたかた)のように消えてしまった

【昭和軽薄体】 という文体に辿り着くであろー。

 

昭和の時代に突然あらわれた、新しい「言文一致体」なんですね。

わたしが、この「棒引き仮名使い」を使ったりするのは、振り返ってみると、昔大好きだった南伸坊と橋本治(『桃尻娘』シリーズ)の文体が深層心理に食い込んでいたからだと思う。

まー、歴史ある文体であるということは、ここで高らかに言っておかなくちゃならんだろうね。

ただし、いわゆる「おじさん構文」とは、まったく別物だから、お間違えのなきように。

 

「昭和軽薄体」の隆盛

昭和軽薄体の代表作とされるのは、1979年に刊行された、

椎名誠『さらば国分寺書店のオババ』です。

「とつぜんこういうことを申しあげるのもなんですが、わたくしはだいたい、鉄道🚃関係の人々、というものはあまり好きではないのです」

と始まるので、です・ます調かと思いきや、

だ・である調も混じり、

そこに…… なのね」…… だって」といった純正口語体もスパイスとしてふりかけられる。

さらには「おまえら」が「おまーら」になったり

「憂鬱」が「ユーウツ」になったりと、

「ー」やカタカナの使用法もユニークであり、一人称は「おれ」ということで、やんちゃ感も加味されます。

目黒考二との対談において椎名は、当時の読者からのハガキに「椎名誠の文章はシニカルな軽薄体とでも言うんでしょうか」とあり、

「それを読んで『昭和軽薄体』ってひらめいたんだ。うたかたのように消えていくエッセイにはふさわしいって気持ちもあったんだよ」

と語っています。すなわち昭和軽薄体は、「自称」でした。

[※  酒井順子『日本エッセイ小史』より、以下の引用も同書より]

 

…… なにやら懐しいのう、「昭和軽薄体」、重厚長大よりも軽薄短小が好まれた時代風潮だったんだよね。

日本中が、「シャイネス・ボーイ」から「パフォーマンス・ボーイ」に変貌しようとしていた、明るい🔆日本が見られた最後の時期ですな。(この後十数年で、バブル崩壊を迎える)

 

『さらば国分寺書店のオババ』の文庫本あとがきーより

「嵐山光三郎さん、糸井重里さん、東海林さだおさんの影響を色濃く受けている。もっともいま名前を挙げたこの三名の文章はけっして軽薄体ではないが__ 。まあ今思えば、テレの文体と考えていいのだろうな、と自分で自分を分析している」(椎名誠)

 

 

椎名が影響を受けたと書く嵐山光三郎といえば、

…… でR」という文章が印象的な、椎名と共に昭和軽薄体のツートップ、という印象があります。

嵐山の最初のエッセイ集である『チューサン階級の冒険』は『さらば国分寺書店のオババ』の2年前、1977年の刊行。

「チューサン」の語を見てもわかるように、昭和軽薄体的な言語使用法は既に始まっていて、です・ます調と、だ・である調も、混在している。

椎名が「昭和軽薄体」と絶妙な名付けをしたことによって有名になった文体は、少し前から萌芽を見ていたのです。

 

…… 嵐山光三郎は、深沢七郎の文章からも凄く影響を受けていて、深沢も昭和軽薄体の淵源であろうな。

「…… でR(である)」は、「ABC文体」と言われたんでしたね。

A画=映画🎞️

B人=美人

おいC=美味しい

気持ちE!=気持ちいい

 

…… って、こんな感じでしたね。なんか、同じ時期かはハッキリとしないが、アメリカ🇺🇸のプリンスの曲名も、この昭和軽薄体の匂いがするものだったねえ、

・Live 4Love    (for love)

2You     (to you)

プリンスは、17歳でデビューしたんだよね。

マイケル・ジャクソンと同年代で、ライバルだった男でした。ついでに、最初は一緒にやってたアレクサンダー・オニールとも張り合っていましたね。

大ヒットしたビッグ・プロジェクト「We Are The World」は、クインシー・ジョーンズ率いるマイケル陣営だったから、裏の事情もあって、プリンスは強く誘われていたのに参加しなかった(参加出来なかった)と言われています。プリンス傘下の女性ドラマーであるシーラ・Eは、プリンスに相談しながらかろうじて参加できたみたいね。

これは至極残念だったね、黒澤映画『影武者』で勝新太郎が降ろされたほどに、大ショックだったものです。

プリンスは入れなきゃならないだろう、この後、マイケルからプリンスに猛烈にアプローチがあったそうなんだけど、とうとう二人の共演は成就しなかった。

プリンスは天才だから、わたしもアルバム💿が発売されたリアルタイムで、彼の音楽性を理解することは適わなかった。

プリンスの曲は、5年遅れで聴くくらいで丁度いいような感じがする。NHK・FMで渋谷陽一の「サウンド・ストリート」で初めて逢った同級生だからね。最初はスティービー・ワンダーみたいなメロディアスな楽曲を歌ってたんだけど、いつの間にか「ダーク」な面を押し出してきたのは、やっぱりマイケルの影響だったのかしら。

面白いお二人でしたね。

 

 

嵐山光三郎の他に椎名が影響を受けた人物として名を挙げているのは、糸井重里、東海林さだおです。

糸井重里の最初のエッセイ集『ペンギニストは眠らない』(1980)を見ると、「小エッセイのよーなもの」「エッセイのよーなもの」といった文言が目次に並びます。

もちろん「影響」は「ー」の使用法にとどまらないと思われますが、そこには共通する時代の雰囲気が漂うのでした。

彼らの一世代上である東海林さだおの最初のエッセイ集は、『ショージ君のにっぽん拝見』(1971)。

昭和軽薄体を読んだ直後に、

「ダレでも一度は釣り🎣をしたことがあると思う」

とその一行目を読むと「あ」と思わされるものがありますが、それ以前に「ショージ君」という語がそもそも、その「ー」使いといいカタカナ使いといい、後の世代に与えた影響が絶大の単語であったのではないか。

我々は長年にわたって「ショージ君」という単語を見続けていますが、その一語には、後に昭和軽薄体に移植されるエッセンスが詰め込まれていたのです。

 

……  最近の「棒引き仮名使い」の使用者は、

さんまちゃんの盟友「村上ショージ」(本名;村上昭二)もそう。これも「ショージ君」から由来するのかしらね。

カタカナにすると、従来の漢字の意味とズレる感じで使用できる利点はたしかにあったのです。

 

 

 

 

 

昔、「フォーク」音楽🎵とか「ニューミュージック」の流行は、誰でも歌を作っていいんだと、日本国民のクリエイティブな意識を変革したものです。

おなじように、80年代の「昭和軽薄体」は、手軽に創作なるものをしてもいいんだと、プロでなくとも文章を自由にモノしていいんだと、大いに私たちの詩魂に火を点けてくれたのだと今にして思います。

随筆=エッセイ(散文)は、動く映像表現であり、詩歌(韻文)は写真の如き表現であるそうな。

詩人・萩原朔太郎は、自らの詩論『詩の原理』のなかで…… 

「文学の両極を代表する形式は、詩と小説との二つ」

・詩→主観主義

・小説→客観主義

と言い、評論・随筆等は「その中間的のものにすぎない」として、主観精神に属していると言ったそうです。

そして、ひとつの公式を導き出しています。

> 「評論等の栄える時は、必然に詩(及び詩的精神)の栄える時である」(萩原朔太郎)

 

80年代は、エッセイ/コラムも栄えましたし、短歌(『サラダ記念日』など)も栄えた、軽い時代だったようです。

それ故に、軽い口語体やわかりやすいカタカナ言葉が好まれたのでしょう。

ただし朔太郎は流石に、和歌は「主観」だけれども、俳句は「客観」であるのを見抜いていました。

俳句は口語体にならないのです、だから大流行した『サラダ記念日』は短歌だったのです。

今の時代はやはり重いのでしょう、夏井先生の俳句がもてはやされるのは鳥瞰図的な客観(=世界の断面)が求められているからかも知れません。

研ぎ澄まされた客観に向かおうとすると、詩やエッセイは筆が進まなくなります。

このブログも、どちらかというと検証精神で書いているので、エッセイというよりも論文に近くなって来る傾向があるようです。

知らず知らずに、「昭和軽薄体」で文章を書いていたことに、今回気がついたのは収穫でした。

なにやら、失われた三十年がすんなりと胸におさまった感じがしてます。

やはりマイカル・ジャクソンよりプリンスであり、

SMAPより男闘呼組であると。(ジャニーズで唯一好きなグループです、いやジャニーズであることすら忘れていた程に、実力のあるロックバンドでした。この度イエスの復活みたいに突然渋いバンドになって復活してくれて嬉しい。ジャニーズも崩壊しつつあるが、少年隊やKing & Princeのダンスには瞠目したものだ。やっぱり造られたアイドルは、自然発生的な芸能🎭とは違うよな。あの、礼儀正しさとストイックな鍛錬は高く買うけど。芸者にそーゆーのは当たり前だからね、そろそろ藝を身につけた達人・名人を輩出してほしいところ)

 

硬軟両様が書ける、時代精神に流されないで、普遍を見つめる自分であり続けるつもりでいます。

          _________玉の海草

 

 

 


《玉断》 畏れるべき関西文化〜 「させていただく」 の是非

2022-06-10 18:30:22 | 日本語

__ きょう、カトパンのワイドショー『イット』のニュースで取り上げられていて、コメンテーターの明治大学の齋藤孝先生からのコメントもあって、参考になった今流行りの言葉が、「させていただく」である。

 

 

番組ではアンケート(30人だけだが)も取っていて…… 

20〜30代は「礼儀正しくて良い」「言葉自体が好き」という声であり、

50代以上は、「丁寧そうで丁寧ではない、好きじゃない」「何となく上から目線」との意見だそーだ。

文化庁の「敬語の指針」(2007年)に拠ると…… 

「させていただく」を遣うシチュエーションとして、ふたつの条件を満たす必要があると云ふ。

・相手・第三者の許可をうける場合

・そのことで自分が恩恵をうける場合

 

齋藤孝先生の話しでは、2010年頃から、政治家が多用し出したことも影響していると云う。当該者は、鳩山さんや麻生さんなどである。

この「させていただく」の言い方は、

「丁寧な言葉をつかうことで謙虚な姿勢を一見示しつつ、自分の意思は通させてもらう」という便利な言い方であると云ふ。

 

まー、なるほどと思いながら聞いていたが…… いまひとつ深掘りが出来るので、私見を加えよう。

関西発祥のコトバが日本を席巻する

[2022-02-22 06:27:18 | 8´11´22]

 

コミュ力において、関西と東京とでは比較になりません。まるで都びとと鄙びと(田舎者)ほど違います。

話しコトバの「柔らかさ」、対立に持って行かない「意図的なあいまいさ」、リズムを崩さない敬語「〇〇してはる」等々枚挙にいとまがありません。

何より、名前の判らない人に対して、つかえる言葉を持っている処は讃嘆せざるを得ません。

レパートリーが豊富で羨ましいです

たとえば、「にいちゃん」「ねーちゃん」「おばちゃん」「おっちゃん」「旦那さん」「坊ん(子ども)……

年上につかう「にいさん」「ねえさん」もありますな。

気軽に声を掛けられる、その土地で長い歴史の中で認められた、失礼のない言い方(言葉)をコミュニティで持っているとゆーことが素晴らしいことなのです。

京には主上がおわしまし、近畿は商人の街だからでもありましょー。

わたしは、東北人ですが、大阪では他人に気さくに声をかけることが出来ますが、地元にもどるとまるで会話が発生しません。

東北には、「名前のわからない人」に対する呼びかけの言葉(失礼のない言葉)がないからです。

都会的で洗練されているよーに見えても、首都東京でも事は同様です。東(あずま)びとは大勢の人々にもまれて仲違いすることなく生きることに未だ慣れていないのでしょー。

 

ー大阪で三年間大お世話になり、関西人を芯から尊敬する私くしですが、「めっちゃ」「〇〇させていただく」も関西発祥なんですが、何となくキライなんです。

「めっちゃ」は関西方言をあづまびとが盗用したといえますが……

「させていただく」は、もっと事情が複雑なのです。

 

司馬遼太郎『街道をゆく(24) 近江散歩奈良散歩』に拠ると……

> 日本語には、【させて頂きます】、というふしぎな語法がある。この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。

「それでは帰らせて頂きます」。…… 略…… 

「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」

この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、…… 略…… 

絶対他力を想定してしか成立しない。…… 略…… 

「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。

 

__ どうやら「させていただく」は、浄土真宗の他力本願から出た「宗教的なコトバ」らしいのだ。

大阪芸人が師匠筋にたいしてつかう「勉強させていただきます」にしても……

自分が勉強するのに、師匠の許可が必要なはずはない。勝手に勉強すればよいだけだ。それをあえて「させてください」と許可を願う言い方をするのは、

師匠におもねるとゆーよりも、絶対他力で阿弥陀様のはからいにより、「させていただく」とゆーことなのだ

実に深い、宗教的なコトバなのである。

同じ消息で、「息させていただく」や「感動させていただく」など言いそーであるが、実に他力の思想では成り立つ言い方なのである。

この「させていただく」とゆー語法は、近江商人の行商によって全国に流布されたとする説もあるそーだ。

近江商人には一向宗の門徒が多かった。

なるほど、関西圏以外で「させていただく」を聞いたのは、新潟県上越市の人であったが……

新潟の海沿いは、親鸞上人にゆかりの深い土地だものなあ、妙好人がつかったのかも知れませんね。

「生かしていただく」も、まったく同じ消息ですね。

実に深い言い回しですが、「〇〇させていただきます」と言われるのが、何故か大っ嫌いなんです。

「させていただく」は、丁重なコトバではあるが

【敬語ではなく】、言い切る処に相手の意向を無視している慇懃無礼さがあると云います。

たぶん、他力信仰のない人がこの語法だけを使っている処にも異和感があるからだと思います。

ちょっと阿る(おもねる)よーな、胡麻するよーな腰の低さは、武士(プライド)を尊ぶ東国にはなじまないものかも知れません。

 

 

__ ほかにも、さすが関西圏のことばは強烈やわと再確認させられるのが、

「めっちゃ」や「わかれません」もあるんだす ♪

 

● “ コトバの棲み分けは大切 ”
[2019-12-04 02:44:33 | 王ヽのミ毎]


「めっちゃ」とゆーコトバに、これだけ意見があるとゆーだけでも、このコメント欄には日本語を大事に遣う方々が集まっていると云えるのかも知れん
私は、若い頃大阪で三年程住ませてもらったから、「めっちゃ」とゆー関西方言が遣われる場面は数多く見聞きしている(大阪を「めっちゃ好きやねん♪」)
大阪にも私の限られた経験からみても、いろいろな大阪弁のランクがあって、私は特に「船場言葉」と云われる、落ち着いた渋い感じの大阪弁にシビレておりましたわ
「おおきに」って、語尾下げて言わはる旦那衆なんか、なんとも云えん都びとの風情を醸し出しておられました
今回の「めっちゃ」は、大阪の若い女の子がつかう印象が強いです、男が云うのは聞いたことがない
もちろん、私も遣いませんでした


◆「めっちゃ」の本来
めちゃめちゃー滅茶滅茶ー目茶目茶
めちゃくちゃー滅茶苦茶
むちゃくちゃー無茶苦茶


‥‥ ってところでしょーか?
「無茶苦茶しよるな」とか「目茶目茶好きや」とかは僕自身ゆーとったと思う、「むちゃくちゃ」の音韻が男っぽい思うねん

まー、くだけた口語であるし、そもそも方言でもあるし、あらたまった席で遣う語彙ではない
きちんとした妙齢の日本婦女子の遣うコトバではない
人は、自分の身の回り(ネット環境も含む)で遣われるコトバしか、原則として遣わないので……
「めっちゃ」を多用するのは、底が知れるとゆーものだ
強調する表現を多用する人は、また最上級のコトバを遣いがちな人は、全体がよく分かっていない人です
世の中にはそんなに端倪すべからざることは、多くないものだからです
盛り過ぎた話は面白くない

「めっちゃ」を、関西以外の土地で遣うのならば、それは仲間内の符丁みたいなものだ
テレビ画面ではよく見聞きするコトバだからといって、限られた世界での流行りコトバに過ぎない
若者コトバと云ってよいかも知れない、口調が可愛いとゆーかむしろ幼い
ついでに云えば、なんらオリジナリティーの感じられる表現ではないのだ

昔の人、つまり日本語をつくってきた人々の書いた本も読まないし、年寄りの話にも耳を傾けない環境ならば、もはや致し方ない

 

●  [2022-02-21 17:01:44 | 8´11´22]

理解できないとゆー意味合いの「わからない」を、「わかれない」とゆーのは、一体誰が言い始めたのか?

「わかる」には、それ自体で「可能」の意味が含まれるから、「わかることが出来る」とは言わんし、ましてや「わかれる」なんて、普通の日本人は言わない。

 

🌷「わかれない」と耳で聞いたら、普通は、例えば男女間で「別れない」の意味だと思うだろー。

Yahoo!知恵袋にも、「見える」「できる」「わかる」などに可能の表現はないと記しておられる方がいた。

それゃそーだろー、「わかる」で充分なのにわざわざ「わかれる」とゆー人の気が知れない。

「わかれる」は、「わかられる」の「ら抜き言葉」だとゆー解釈も成り立つが、「わかられる」に「理解することが出来る」とゆー意味はない。

 

🌷「わかれる」と同じよーな使い方で、「生きれる」がある。

これは「生きられる」(=生きることが出来る)の「ら抜き言葉」である。

「いきれる」と耳で聞いたら、わたしなら「息切れる」と勘違いするだろー。まったく正反対の意味合いになってしまう。

「生きる」とゆー根本の話題について、誤解されやすい言い方はするべきではない。

 

🌷「見れる」と「見られる」と比べた場合……

「見ることが出来る」とゆー意味でつかうならば、一聴して「見れる」の方が意味は伝わりやすい。

「見られる」だと、誰かから見られている意味で「受動態」で解釈したり、「敬語」として解釈したりする恐れがあるから。

だけれども、「見れる」は音韻が悪いから私はつかわない。

 

「わかれない」とつかっている人の文章を読むと、しっかりとした文章で素養もありそーな人が使っている。少なくとも大学卒だと思われるのだが、いったいどこでこの「わかれない」と読んで覚えたのだろーか?

わたしは、知識人としては基本である「2000冊の読書」(中野好夫基準)をクリアしているが……

その読了した本のなかで、「わかれない」とゆー日本語に遭遇したことはない。

誰が言い始めたのか、ずいぶんアタマの悪い言い方だと思うが如何か?

 

 

__ この拙稿に応えて、関西のISHK読者の方から、貴重な現場の使用例を教えてもらったのです。

わからないを、わかれないと使うのは普段、関西弁で、「そんなんわからんわ」と使うとキツクなるので、

普段は、これわかる?と尋ねられたら、

上司になら「すみません、わかりません」ですが、

同僚なら「ごめんなさい、私にはわかれませんわ」

「そんなん、わかれませんよ」普段使ってる方便の癖です。

 

__ なるほど、関西圏の人付き合いは濃密だなあと感嘆してしまう。そんな、微妙な使い分けをなさっているのですね。畏れるべし、関西人 ♪㊗️

天子さまの都のあった京は、徳川さまが治めるまで始終戦乱の巷でありました。隣の大坂は、生馬の目を抜く商売人の都でありました。

それゆえ、この近畿圏における「生き残りの知恵」は、到底よその土地の及ぶところではないことは容易に推測されます。

会話のスキルが、命にかかわることもあったことであろう。言葉は、他人の気持ちを逆立てるものであってはならなかったのです。

実際、大阪では全く個人的な情報をやりとりすることなく、うわべだけの親しい会話を延々と続けることができる。大阪弁とはそんな重宝な会話体でもある。

極端なはなし、大阪弁ならば内気な私でもナンパできますよ。

素晴らしい「しゃべくり」の高度な伝統、敬愛鋭く大阪はこれからも、中央の日本語に揺さぶりをかけて来ることだろう。

そのたんびに、懐の深いその使用法を学べば、日本人のコミュ力も飛躍的にアップするのは疑いがない。

困った流行り言葉だが、表現にレパートリーを増やした功績は見逃せない。どっちに転んでも、さすがの人間通の粋人・大阪人である。真の都びとの名に値いしよう。

最後に、『五常訓』から借用した齋藤孝先生の「愛の一句」を。

 慇懃無礼

  礼に過ぐれば

    へつらいに

        _________玉の海草


 大好きな 当今 (とうぎん) に捧ぐ〜 ご皇室にふさわしいアナウンス考

2022-04-11 00:00:06 | 日本語

__ 昭和大帝の御語り口は、じつに魅力に溢れてあらせられた。先帝陛下もまた、ご自身で分からないながらもご神事に御命懸けで向かい合れる御姿と年々と重ねられる翁顔が歴代最高の御笑顔であらせられて、じつに見事な第125代と御成遊ばした。

さて、開かれた皇室に玉体をもって体当たりで臨まれた二代の天子のおせなを眺めながら、わたしたちと同じ時代を歩まれて来られた 浩宮さま ……   ほかならぬ陛下に、わたしの想う天子の現れ方を建白書のかたちで、ご奏上させて戴きたく存じます。

 

●  “ ほんものの氣品とは? ”

 

敬語も文語ではわずらわしいし、万が一不敬があってもいけないので、香家の比喩で話を進めよー。

 

香位にある今ちゃんの愛娘が、インタビューに応じた。この娘は賢くつつましくおっとりとして、あたかも「大和撫子」の幻想を彷彿とさせる雰囲気(いまどき珍しい )をもっている。

今ちゃん嫁が、手塩にかけて育てた「秘蔵の玉」である。

香位継承権トップのセカン(No.2)の娘は、美人姉妹でヤング香族として嘱望されたが……

姉は異国へ駆け落ち、妹はアイドル的な人気を誇ったものの、何か立居振舞いに香族らしさが足りない。

うわずった感じの鼻にかかった声が幼く、口跡が冴えない。

セカンと嫁との大学生交際とゆーか、キャンパス・ラブは、思い出すだに微笑ましく、ある種理想のカップルにみえた。

次男ゆえに、割と自由な交際が認められたと思う。もちろん私はこの二人を応援していた。

今ちゃんとセカンの兄弟間の星廻りが、私と実弟との星廻りとぴったり相似形であり…… セカンの行き方は本当にわが賢弟に似ていた。

私は、仏教(聖徳太子)の影響色濃く霊的なタイプで、あらゆる神秘学を漁ったが、不思議と神道(伊勢神宮と白山神社)だけには全く縁がなかった。

セカンの彼女は、音無しめの仄ポッチャリタイプで、素朴な髪型もあいまって、もろに私のタイプであった。

「よかったなあ〜、セカン 」と心から祝福した。

聞けば、彼女は琉球の「御嶽(うたき、沖縄の聖地・神社的空間)にぞっこん惹かれて参拝を繰り返していたとか。

彼女が惚れ込んで、習った「琉球舞踊」の女師匠は、琉球武術・御殿手の名手・上原清吉も認める、舞の名人である。

コノ御二方は、「武」と「舞」の極意を共有しているのである。同じなのである、

その昔、柳生石舟斎と金春七郎とが、新陰流と金春流(能楽)の秘伝を、おのおの披露し交換した逸話を思い出す。

この時伝授された金春流の口伝が「西江水(せいごうすい)……

週刊新潮に連載され、洛陽の紙価を高からしめた剣豪小説の名品と云われる、五味康祐『柳生武藝帳』のなかで……

柳生但馬守がさりげなく垣間見せる所作が、新陰流の究極の奥義「西江水」であったものだ。

かくの如く、セカンの嫁にはかなりの霊的素質が備わっていたに違いない。

ただ、御嶽(伊勢白山道では参拝禁止)への執心は、後年の「金毛九尾の狐」を御所に忍び込ませる呼び水となったやも知れん。

 

あの、見るからに信頼できる学究の貌をされた大学教授を父にもつ、セカンの嫁が、結婚後子等を授かり次々と出産した過程において、何があったのか、私は存じ上げないが……

彼女の、あの温かみのあった平安朝的な丸顔が、みるみる痩せ細って、ショートカットで瞳に険をふくむ貧相な顔へと変貌していったのは何故なのか……

しみじみと残念である。

残念ついでに、あの甘ったるい幼稚な話ぶりは、娘たちに受け継がれた。

人生の途中から、香家に入る一般人と、生まれながらに香家として育った者は、根本的に出来が違うのだ。

いくら先代のお上さんが、社長令嬢としてセレブに育てられたとしても、神主をしている生まれながらの香女(389)とは、そのおのずから放たれる威において、雲泥の差がある。

先先代の大葬において、直系の香女の醸し出す品位は、到底人間のものとは思われなかった。

微塵も小揺るぎのしない坐位と凜とした立ち姿、あれこそまさに「高貴」と呼ぶに足る。

国際大運動会を誘致するために、演説した久姐は、その点、やはり華族の家柄だけあり、(外国語での)話し方・目配り・所作・歩き方すべてに「ハイ・クラス」の気品を纏い、すこぶる見事なものだった。

しかし、庶民から嫁いだ者は、俄に糊塗することは叶わない。

香家のワン・ツーの嫁は、ともに庶民だから、精神を病むほどに「お上修業」が過酷なものとなる。

 

もちろん、高貴な血を継ぐ香家として、土俗の一般人とどこが違うのか、格の違い・位の違いを恒に見せつけなければならないわけだが……

気品は意識して出せるものではなく、実際の処、現場ではどーなのだろー。お目にかかると、その威に震えるなんて本当にあるのだろーか。

香位にあれば、祖霊が憑依して顔つきまで変わるものらしいが、その他の香家の者はどーなのだろー。

香位につく者は、その血筋(霊的素質)をもち、そのよーに育てられた者でなければ適わない。

何故なら、男とゆー生物は、ある日突然王位につけられても、王である自分を受け入れられずに四苦八苦するものらしい。慣れるまでオドオドしている。

卑近な例えだが、いきなり社長の椅子に座らされても、すぐには社長として振る舞えないのだ。

女はそーではない。いきなり王位につかされても、次の日には既に「女帝」としての貫禄を帯びて、平然と女帝然として振舞えるものだと云ふ。

則天武后とか歴代の悪女の、最高権力者に成った際の切り替えの速さは、それは見事だったとか。

だから、香家の男子には、長い年月をかけて、香家のしつけ(宮様教育)を施さなければならない。

 

まー、手っ取り早く香家の気品を感じさせるのは、言葉遣いだが……

今ちゃん娘は、品よく言葉を噛むこともなく付け焼き刃的な言い回しも感じられず、全体として印象がよかった。

わたしが、香家のスピーチで不満なのは、あの決まり文句の型である。

…… …… と思いますと共に」とゆー独特の接続の仕方とか、(「私は…… …… と思っていて」とゆー庶民の言い方と似ている、何で一旦切らずに繋げたいのか)

…… …… をもってお祝いの言葉と致します」とか、如何にもそらぞらしく聞こえる。

思えば、昭和の香位トップの翁は、訥々として自然で高貴であった。音吐朗々と語りかけになられた。

「生き神様」として帝王学を施された最後の人だったからか。

生まれながらに香家であるとは、どーゆーことなのであらーか。香家なのに、いまはまわりにも敬語をつかう。謙虚なあまり、庶民と見分けがつかない。

「ございます」とか丁寧に表現するが、香家がこれほどオープンにされていなかった頃は、つまり御簾(みす)越しにお言葉を賜ったときなどは、いかなる言葉遣いであったのか。

もーちょっと香家らしい美しい言い回しがありそーなものだ。あれじゃあ、丁寧なだけで何ら庶民の言葉と変わらない。

 

わたしは、こんな時、下々の者どもとも対等につきあった唯一の帝・後白河院のことを思い出す。

院の愛唱なされた「今様」の節回しが現在まで伝承されていなくて、つくづく遺憾なのではあるが……

河原者や白拍子とか道々の輩(ともがら)等々、祇園女御にしても、身分外の無生産者(非納税者)まで集めて、今様を共に競った。

どんな言葉遣いで、それらの者と会話なさったのだろー。

後白河院は、敬語なんかお使いにならなかったのではないか?

敬語は、長くゆっくり言い回すことで特別感を付与するよーな塩梅である。言うに言いにくく、聞くに聞き取りにくい。

例えば、「〇〇される」と聞いても、敬語の「される」なのか、受動態の「される」なのか、一聴してすぐに見分けがつかない時がある。

二重敬語なんてのもあるし、複雑多岐にわたる厄介な代物である。

関西圏みたいに、「〇〇してはる」で敬語を統一すればよさそーなものだが、あえて複雑さが尊ばれる。

とにかく、公の席での、香家としての言葉遣いも考えてほしい。一般庶民と大差ないのを、「香家」として崇め奉ったりしませんよ。

今ちゃんは、生まれながらの純粋培養だったから、即位まえから、おのずからなる氣品をまとっていた。

それは、エリザベス大姐さんに特に可愛がられたことからも分かる。

直に拝謁を賜わると、物凄いオーラであると仄聞する。香家ならではのそーゆー権威を纏う人は心配いらない。

問題は、香家一族の郎党の方々である。

日本貴族として、世界の社交界に隣席して、セレブのオーラを圧倒する氣品をもつ者が、果して何人いるだろーか。

日本は、政治家も貧相なら、香家一族もそーである。

体格でも劣る日本ならではの貴族のあり方ってあるはずだ。

 

 

●  “ 心あるご香族の足下へ奏上あれかし

 

ー初めに、お断りしておきますが…… 以下は空想物語につき、敬称を省きます。

 

先に、香族の公的なアナウンスは、不自然な丁寧語や堅苦しい言い回しで、違和感があると申し上げた者です。

ならばどのようにしたら良いのか、私自身代案といいますかご提案を奏上していなかったので、ここに付け加えます。

 

香室のアナウンスが、庶民の言い回しとほとんど変わらない点について……

まず、庶民の公的なアナウンスは、いかにして現在の形になったのか、ザッと振り返ってみたい。

 

昭和世代の校長先生や会社の社長らの挨拶は、晩年の森鷗外の小説調で、漢語の多い武家言葉に似た感じで、簡潔な締まりのある格調高い言い回しで喋っていた。

日本文学(小説・詩・短歌等)を下地にして、素養としての『論語』とか外国(世界)文学のよく知られたエピソードとかを織り交ぜて、言葉が選ばれているだろう。

小説といえば、鷗外・漱石が双璧となろうが、ここから大谷崎〜芥川〜川端康成〜三島由紀夫とつづく、文学界をリードした東大閥作家の影響は大きい。

わたしは志賀直哉は、一読簡潔で端正なる名文と感じた覚えがあるが、泉鏡花にしても、日本の名文には漢学の素養は欠かせない。

和漢洋を束ねた幸田露伴のような碩学もいたが、やはり名文の基本は、晩年の鷗外のような簡潔にして漢語を織り交ぜた格調な高い文章であろう。

漢学者の家に生まれ、素読を叩きこまれ、純粋培養された天才・中島敦なんかは、典型的なすっきりした日本語の名手ではなかろうか。

昭和の時代までは、きまりきった様式があるように思えた。

戦前から続いている、何か伝統めいたものがある。

 

では、この格式張った硬い感じのアナウンスはどこから来ているのか?

もちろん戦前の軍国教育の影響はある。

明治開国から昭和まで、途切れることなく続いた海外列強との戦争によって、軍部の権限が拡大して、軍人の考え方が日本国中で幅を利かせるようになった。

つまり、軍人調の簡潔で硬い話し方が流布された。

江戸時代の寺子屋、武家の藩校、芝居小屋(歌舞伎)寄席(落語、講談等)

幕府の官学は、漢文の「朱子学」

少年期の徳川家康をささえた軍師・太原崇孚(そうふ)雪斎は、臨済宗の禅僧。晩年は天台宗の天海僧正。家康公は鎌倉の源頼朝公を武家棟梁の鑑として尊敬した。

仏僧は、漢文を重視する。

時代は飛んで……

鎌倉時代、初めての武家政権・鎌倉幕府が発足する。

時あたかも、鎌倉新仏教の勃興と同期する。

新しい宗祖たちはほとんど、比叡山で学んだ後に立宗した。「日本的霊性」が発露したと云われる激動の時代である。

鎌倉には、蘭渓道隆等の宋国から渡来した禅僧が活躍した。武士と禅は相性がよく、武士道の精神性にも多分に影響があった。

つまり、この時代より「漢学」が、武家の素養として浸透し始める。

後年、本居宣長が国学を確立するために排斥した「漢心(からごころ)を、幕府ぐるみで国を挙げて受け容れた。

この漢訳仏典の受け入れ方は、かなり心の奥処にまで至った密度の高いものだったようで、鎌倉新仏教に刺激をうけて、この時代の古神道は柄にもなく理論書めいたものを出版することになる。

哲学がなかった「神道」に、宋学(氣の哲学)を礎として、明確な分析と分類による世界観が見られるよーになった。

 

日本語のターニング・ポイントは、この鎌倉時代だと思う。

平安朝から連綿とつづく和歌の文化、雅びな「ヤマト言葉」は、大陸渡来の漢語に押されて、公卿のたしなみに追いやられたと見る。

その結果、武家言葉は漢語が多い、簡潔で硬いものに変化したと思う。

 

私の主観にもとづき、ザッと歴史的に概観してみたが…… 現在の庶民の言葉感覚は、鎌倉に淵源をおく武家文化のなかで養われたと言ってよいと思う。

武家=潔い=簡潔な表現=漢語を好む

よく時代劇で耳にする決まり文句「恐悦至極に存じます」などは、ほとんど漢字熟語で出来ている。

 

いよいよ次は、公家コトバに触れてみたい。

俳優・梅津栄が、時代劇にとりいれた「おじゃる言葉」は、室町時代の京都のことばで、当時公家も庶民もつかっていたらしい。

他には、宮中や禁裏でつかわれた女房言葉御所言葉

ex. おかか・おかき・おかず・おこわ(飯)・おつくり(刺身)・おむすび・おでん・おつけ(吸い物)・おひや(水)・おむつ・おまわりさん/おめもじ・そもじ・あらしゃります・ごきげんよう]

他にも、女子学習院でつかわれた「華族ことば」もあるよーだ。(「よろしくってよ」は、「お嬢様ことば」ではなく幕府の「御家人ことば」だそうです)

 

さまざまに枝分かれしているが……

さすが風雅な京都人、角のとれた丸い発音を自然と好まはりますなあ。

関西・近畿は、ことばの発音が関東に比べて柔らかいのが特徴ですね。

 

将軍家の武家言葉と、京の宮中の公家コトバ

明治のミカド親政の流れを引くわけだから、本来なら香()軍と呼ばれた軍隊の軍人コトバ(武家言葉)と香居の公家コトバは、並び立つはずである。

それが、敗戦とともに、公家コトバは、香族花族の伝統とともに消えてしまったのである。

そして、形ばかりの貴族が残った。

国会予算から捨て扶持を充てがわれたような身分では、到底、香族の存在意義たる第一義(祭祀)をまっとうすることは出来ない

そんな、相矛盾した現状をよくよく鑑みれば……

香族としての、公的なアナウンスは、ますます無味で無難なものとなりかねない。

そこで私の結論は、こうである。

 

「漢語を極力とりさって、柔らかく大和言葉を意識する」

 

この間のアナウンスを例として聞いてみると……

「皇室は,国民の幸福を常に願い,国民と苦楽を共にしながら務めを果たす,ということが基本であり,最も大切にすべき精神であると,私は認識しております。」

とか、哲学的に庶民のインテリ目線で話すのも感銘深いが…… 香族らしさはちょっと違うようにも思う。

例えば「香家では、なによりもおほみたから(大御宝)のしあわせをいのり、おそばによりそいながら、おつとめさしていただく、これが香家に代々うけつがらているみこころ(御心)でおじゃります」

無理やり当てはめた感もあるけど …… 関西弁まるだしの抑揚で噺家みたいに仰るわけにはいかないが、主な特徴はこの中に含まれている。

先ず、まろやかで優しい、漢語がないから連想がスムーズで絵が浮かぶ、柔らかくて明るい調子(抑揚)であること。

角の尖った言葉は一言もない。

「京ことば」というか、「御所ことば」総動員して、とにかく柔らかな「大和言葉」を前面に出すこと。

庶民の日常生活は、漢語・熟語に溢れていて、素早く伝わるゆえに、言霊の響きを無視して、短くて荒い言葉を連発しがちである。

それゆえ、せめて香族の方々におかれましては、日本の言葉本来の響きを十二分に披露していただきまして、忙しない世の中に、束の間、寛い心持ちをもたらして戴けますと有り難い。

簡単なことです、漢心(からごころ)を去って、「大和ことば」に真心を乗せることです。

 

つらつら思い巡らすうちに、

うちの近くにある八幡宮の宮司のお姿を、香族の方々のアナウンスに重ねてみていた。

この神主は、わたしの先輩なのだが、同窓会が「厄祓い」の年にあたると、代々の同窓会幹事がこの神主に頼む。

さて、メインの祝詞奏上が済むと、くつろいで、皆で神主のお話しをうかがう。

ゆるゆると始まる神主のご挨拶は、お人柄から来るものもあり、多少の滑稽みとともに、可もなく不可(不快)もなくゆっくりと進み、それが決して退屈を催すことなく、ゆるゆると流れてゆく。

いわゆる、毒にも薬にもならない話しが絶妙な面影を映し出して、何か縁側の陽だまりにくつろぐ猫のような気分になって、そろそろ飽きる前に幕を降ろすのである。

その、ぬくもりある空間が、いかにも「厄祓い」された、目出度い日常に受け継がれてゆくのであった。

それは、クライマックスもなく、晴れ晴れとトトノウのである……

しかし、あとを引く余韻が長くほのかに続いて、なんとなく「よかったな」となる、そんな香り立つ神事が営まれる。

榊のかほりでしょうかね、ほのかな苦みがアクセントになっていました。

そんな余韻棚引くアナウンスが、香族の方々にはふさわしいのではあるまいかと愚考するのです。

いくら寄り添おうとも、あなた様方は一般人にはなれない、苗字のない庶民などいないのだから、違いは違いとして生かして頂きたい。

 

__ たとえ話とはいえ、随分ご不快になられた箇所もおありだったと存ずる。大変、申し訳ないことでございます。つつしんでお詫び申しあげます。

天津神とは無縁の、まつろわぬ民の血筋であった可能性の高い私だが…… なにやら白河院とは一縷のご連枝があるやに耳にしているので、なんとなくご皇室に奉り純粋な思慕を懐いている思いは芯底にあると存ずる。

その、偽らざる畏敬の念い、ただその一点をお汲み取り賜りたく存じあげます。

           _________玉の海草