__ どーも、伊勢白山道のリーマンさんには、独自の「持っていきたい方向」といふものがあって、
そのために現れたと、ご本人は言っていた。
日本人による量子力学を作用させるために、
最初は、「5%運動」といって、3000人の読者(=氏子)を獲得して、原動力とするといっていたが、
どうやら7000人だったかの、志ある者が確保できたので、リーマンさんの指示の下、量子力学を発動させるという方向に、いまはあるようだ。(なぜなら、日本人の霊的な力はずば抜けているから)
彼は、グルジェフのように精緻な理論体系をもっているわけではなく、ウスペンスキーのように師の理論(真理の道筋)をまとめてくれる弟子ももっていない。
しかし、神秘学徒が尊敬してやまない『易経』を完全否定し、占星術のたぐいも一切認めず、「(従来の)宗教は無くなります」と豪語した責任はとってもらわなくてはいけない。
たんに、霊視で歴代の聖者を値踏みするだけではなく、ご自身のコトバで、語ってくれるようにと、
私は投稿を通して、幾度も批判してきたし、要請もしてきた。
その集大成とまではいかないが……
読者歴16年目にして初めて、「おっ、これはっ!」と感銘を受けた未知の達見があったので、公平を期して貼り付けておきたい。
拙稿を時系列で三つならべてみれば、詳細はご理解いただけるだろう。
2024年の6/11の記事 ▼
地球に張られた幻想システムに負けないように - 伊勢ー白山 道
6/12 の記事 ▼
そして、まとめとして6/14 の記事 ▼
最後に、9/26 の記事である ▼
ブログ『伊勢-白山 道』の4つの記事に対する私の3つのコメント📝である。
⚫️ 20240611
「何もかも有る」はどうなったの?
以前リーマンさんは、「何もかも有る」という方向で説くと宣言なさいました。(9次元のラマナでも偽実体の「自我」は認めなかったのに、それすら有るとして話を進めるということです)
以前に読者への返信で、こんなことを言っています。
> 。。。。デタラメ。
その線で人集めて、大金を得て、自分は着飾る厚化粧。
その線の主張するならば、ラマナ・マハルシのように裸を好むのが本当。
何も無い、が信条なのですから。
私の信条は真逆です。
何もかも有る。
自分が生まれている、事実から逃避しません。
…… つまり、
・ラマナやニサルガダッタのヴェーダーンタ(非二元)の「真我」だけが【在る】という方向
・釈尊や龍樹の、「無我」で「空」であるという【無い】という方向
輪廻転生については、
・ラマナは、高次元では「ない」が、低次では「ある」
・釈尊は、個体我はないのに、転生は「ある」
▼ 仏教の無我や輪廻転生の詳細については、以下参照
▼ アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(非二元論)の真我と自我(非実体)については、
どちら様も(ヒンドゥーの伝統を踏まえて)、
コノ世は幻影(マーヤー)であり、仮想現実であるという見方は共有している。
ここで、
リーマンさんが「何もかも有る」と言ったのは、
その幻影も、目の前にはリアルに「あり」、輪廻転生もまた「あり」として世界(宇宙)を扱うということだと受け取りました。
このリーマンさんの文脈では、
龍樹の説いた、
「個人という者は【存在しない】」
「自性は【無い】」
「この世は、縁起同士の絡み合いが見えているだけであり、本当は【空なのだ】」
という見解は受け容れられないはずです。
単にこの、仏教の「無い無い尽し」を肯定するだけなのであれば、
(厳しい言い方をしますが)伊勢白山道は必要ないでしょう。
私は、「なんでもあり」の見地から、ラマナ・マハリシの次元を乗り越えてゆく処に、リーマンさんの気概を感じました。
だから、なんで釈尊を多用し、その複雑な仏教理論をなぞることに終始しているのか、大いに疑問があります。
読者の方でもお気づきの方がいました。
> 釈尊は天上天下唯我独尊と言われました。自分がここにあるということと空の論理が私の中では相異なり理解に苦しみます。
…… 「私は在る」だの、「空(見かけはリアルでも、一時的に仮に見えているだけで、幻影ですよ、無いものは無い)」だのと両極端に掻き回されて、
いま感じている苦痛は空痛ですよなどと言われても、
それは、釈尊〜龍樹の次元なのであり、
伊勢白山道のものではないはずです。
手を抜かないで、是非ラマナを乗り越えていってください。宗教理論の単なる分かりやすい解説が、伊勢白山道であるはずがありませんもの。
⚫️ 20240612
微細身で出来ている
武田惣角の「壁抜け」のエピソードに関する達人伝説で聞いたんだったかな……
「微細身(みさいしん)になれば、壁を抜けられる」という俄に信じがたい発言があったと云う。
[※ この惣角の言の出典は失念した、ネット情報だったか書籍からだったか定かでない。(『月刊秘伝』の時宗宗家の遺稿集か?)武田家に伝わる秘伝として、「壁抜けの術」や「気合いで茶碗を割る術」があったことは知られている。オウム真理教の「空中浮揚」や惣角の「壁抜き」は行者の神通力のレパートリーとして一般的なものである。決してトンデモオカルト話ではない。惣角は、真言密教の口伝(生涯秘密厳守)を授かっており、『易経』や修験道、忍術についても深く修行して会得していたことは確かである。]
今回の記事に照らせば、
武田惣角は、量子のカタマリとして壁抜けしたということなのだろうか。
・量子は粒として【ある】、
・「個人」あるいは「身体」は、量子の仮初の集合体に過ぎず、それ自体で独立した存在としては【ない】
【「量子の海」イメージ】
量子の時代、インターネットの時代となったからこそ、語られる「真理」がある。
いま、私たちは「真理」についての真新しいコトバを聴くことのできる幸運な時代を生きているのですね。
ありがとう御座います、リーマンさんの
「何もかも有る。自分が生まれている、事実から逃避しません。」
と言われたご真意を少しだけ垣間見た気がいたします。
龍樹は、
「量子」というコトバ(概念)をつかうことなく、
「空(くう)」の縁起論(中論)を後世の私たちに向けて開陳してくれたということですね。
伊勢白山道が、龍樹の仏教を正しく承継するポジションに立っていることも分かりました。
(でも)こんなに凄くても、仏教は無くなるのですね。
伊勢白山道という新しいカタチ(道)に、姿を変えるのかも知れませんが。
「量子」と書いてあれば、私らの年代にはアイドル「佐野量子」が思い浮かべられますが、
まさに時代を画するコトバだったんですね。
量子の縁起(因縁)がわたしにもあるんだね。
【ゴッホにはこう視えている、ゴッホは真実(コノ世の実相)を描いていると、リーマンさんが言及していたことがあった。映画『マトリックス』でも緑の数字の羅列で「量子のカタマリ(人体や現象)」を描写していたが、なるほどこれも「量子の海」である。】
【ゴッホ「自画像」、まわりの空気より人体の方が固まっている】
⚫️ 20240926
粒でもあり波でもある
仮の現象でもあり、現実(リアル)の実感もある
自我のようでいて、真我のようである
個人のようでいて、世界全体のようである
> 結論は、この世は、電磁波のカタマリが
物質化・受肉化しているのが、統一論的な最終的な真理だと私は思います。
【「量子(電磁波)のカタマリ」のイメージ】
…… そうですね、リーマンさんの云われる「量子(電磁波)のカタマリ」という人間観は、わたしが探求してきたさまざまな世界観を見事に統一してくれました。ありがとう御座います。
縁によって、カタマリをつくらせる「思い」がある。
そして、それによって個人は固有の磁場を持つにいたる。
それを「私」と呼ぶ。
しかし、そのカタマリへと繋ぐ思いが切れると、量子は霧散する。
> 「 誰もが、他人との関係性の因果から今はこの世に出現しています。
でも、因果が昇華して消えて行けば、自分という量子のカタマリは、存在する理由(原因)を失います。
量子の形を因縁で構成が維持出来なければ、量子の原子の海(神様)へと人は帰ります。」
[※ いい文章なんだけど、最後の一文がまるで頂けません。「量子の形を因縁で構成が維持出来なければ」だなんて(「量子の原子の海」も)、出来の悪い大学生のレポート文でもあり得ない!ってほど酷いし、拙い。せっかくの箴言が台無しになったのが本当に惜しい。決めセリフとも言うべき名言は、ただしい日本語でお願いしたい。]
【量子をつなぐもの=因縁、因縁のサイクルが完結すると、量子のカタマリは緩んで霧散する、波は量子の海に浮かんでは消える(還る)、水滴💧と波〰︎のあらわれ】
おそらく、自我の思い(欲望)は「量子のカタマリ」にかなり重い負担をかけるのだろう。重く固まるか。
自我としての形を保つだけでも大変なエネルギーなのだろう。
(その意味では)ワレヨシは、特殊な思い方なのだと思う。
自我が薄いと、量子の繋がりが弱くなり、量子の海の位(位階)に近くなるのか。
波と海の関係に似て、量子のカタマリは、量子の海へ還るといったところか。
台風🌀と似てる気がする、台風は生き物みたいだもの、目ができたりして、低気圧になって霧散する。
─── この「量子のカタマリ」という人間観には、
アニミズムのスピリット観と相通ずる自在さを覚える。
万物に霊魂が宿るとゆー見方は、「量子のカタマリ」が仮に象づくった表象として霊魂をみているとも言えそうだ。
>インディアンや縄文人の思考はこうです。
“宇宙をあまねく動いているもの” これをかりに “霊” と呼び、
英語では “スピリット” と呼ぶことにしましょう。
このスピリットは宇宙な全域に充満して、動き続けている力の流れです。
その “動いているもの” が立ち止まるとき、そこに私たちが “存在” と呼んでいるものがあらわれます。
立ち止まり方が堂々として、何千年の単位で立ち止まっているものは【石】🪨と呼ばれ、
二百年ぐらいの単位で立ち止まったスピリットは、【木】🌲というものになります。
りっぱな木や石に出会ったとき、インディアンは石や木そのものでなく、その背後に流れている大いなる“動いているもの” に向かって祈りを捧げるのです。
同じようにして、四本の足を持って地上を動くことのできる形で数十年立ち止まることになれば、それが【動物】🐱になる。
空を飛ぶ鳥になるスピリットもある。
もちろんそこには人間もいます。
大いなる“動くもの”⛱️ が人間という存在として立ち止まったから、そこには人間がいるわけです。
[※ 中沢新一×小澤實共著『俳句の海に潜る』より]
…… あらゆる場処に遍満する「グレート・スピリット」なる「量子の海🌊」が、因縁因果により様々な一時的なカタチをとるのが、
石だったり木だったり四足獣だったり人間だったりする。(「量子のカタマリ」として)
そーやってカタマっている縁が無くなれば、もとの海へと還る。
そこに間然するところはない。流れるようにスムーズに遷化する。
私としては、こんなところで、安心していいのでは。
いま、「この私とは何か?」(ラマナ・マハリシの問い)に対する答えを獲得したと言ってもいいのではあるまいか。
[※ もっとも、この問いは必ずしも答えを求めていないところがある。問いを発した瞬間、考えている自分に到り、それ以上の思考が停止する ≒ 無心の境地が開くという説もある。
私というものは、そもそも存在しない が答えであっても、「考え」が止まるだろう。(本来の自分に立ち還る、考えることは人間本来の属性ではない)
★ 臨済禅の至道無難禅師(1603〜1676)にも、次の言がある。
「もの思わざるは 仏の稽古なり」
「主なくて見聞覚知する人を いきほとけとはこれをいふなり」
「いきながら死人となりてなりはてて おもひのままにするわざぞよき」
つまり「行為はあるが、行為者はいない」(釈尊)ということである。 ]
イエズス=キリストが、ユダヤ教の高位なラビのひとりに数えられるように、
釈尊もまた、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身として数えられている。
ヒンドゥーに反旗をひるがえして、出家した釈尊も、ヒンドゥーの欠くべからざる piece を担っている。
あたかも釈迦の掌から、外へ脱出しようとして果たせなかった孫悟空のように。
だから、
至高の世尊・釈迦牟尼仏を超え、聖ラマナ・マハリシを超え、どこまでも透徹してゆくのである。
ここまで、伊勢白山道を読みつづけたことで、おほきな結実がひとつ、いまこの手にもたらされたわけである。
まことにありがとう御座います、放てば手に満てり、
御心(おんこころ)のままに、生かします。
_________玉の海草