ロシア日記

~ペルミより愛を込めて~
日本語教師と雪のダローガと足跡

~サンクトペテルブルグ~
雪の上の足跡

プラハ城

2013年02月17日 | 日記
 カレル橋をまっすぐ進み、長い緩やかに続く坂道を昇った先に、プラハ城はあります。
 本当は、お城見学はしなくてもいいかなという横着な気持ちも生まれていたのですが、お城の中にある、昔、王族に遣える者たちが暮らしたという色とりどりに塗られた小さな可愛らしい家が立ち並ぶ『黄金小路』の写真を見たときから、今日は絶対ここへ行こうと真っ白な旅の一日の目的を決めたのです。
 けれど計画性のない私のたどり着いた時間は午後3時過ぎ、チケットのお姉さんにも「あと一時間しかないけどいいの」と念を押され、中へ滑り込みました。それに、『黄金の小道』がプラハ城の中にあるとは気づかずに、お城とはまったく関係のない他の道を彷徨っていたのもあるのです。けれどそういう観光通りでもなんでもない道も可愛く美しいのですからヨーロッパの街は本当に歩いていてウキウキします。

カレル橋

2013年02月17日 | 日記
 かの有名なカレル橋は旧市街から歩いて10分ほどです。
 対岸に霞んで見えるプラハ城、美しい古都の街並み、どうしてヨーロッパとはこのように美しいのでしょう。ため息が出ます。
 
 橋の途中の左下の階段を降りればマナー・ストラナと呼ばれるプラハでも最も古い街並みが現存する地区です。下から見下ろすオレンジ色の屋根と白い壁の街並みがワクワクさせます。10年前にここに来たことも微かに思い出します。けれどどこをどうやって歩いてのかはもう覚えていません。
 
 カフェやバーや雰囲気のいいレストランがたくさんあり、『Shakespere』という名前の本屋も見つけました。本屋独特の店主に、パリにある『Shakespere Company』と姉妹店なのかと尋ねたら、まったく別物だという答えが返ってきました。その名の通り、すべて英語の本で埋め尽くされ、中は地下まであり、ソファがあったり寛げる空間がいっぱいです。私もひとつ心に思い当たる本があり、置いてあるのかと聞いたところ、残念ながらないとのことでした。日本からロシアへは2500円くらいの送料がかかるうえに、着かないかもしれない恐れもあるので、そんなリスクはおかせません。
 本屋を後にした私は、一路、プラハ城へ向かいます。

観光客のプラハ

2013年02月17日 | 日記
 チェコの古都プラハは、思ったより街が広く、しかも道が入り組み半円を描くように丸く折り重なっています。寄り道をしていくうちに方向感覚を失います。
 旧市街に点在するボヘミアングラスの店、マリオネットと呼ばれる操り人形、小さなコーヒーカップが並んだアンティークの店と寄り道すべきものはたくさんあります。
 
 久しぶりに現代的なお店に包まれ、私は『マニュファクトゥーラ』という木組みの人形と化粧品が一体となったお店で、たくさん買い込んでしまいました。中でも気になったのが、ビールのエキスを混ぜて作ったビールシャンプーとバスオイルと石鹸です。これらを懇切丁寧に説明してくれる店員の感じよさにも、無愛想なロシアから来た身には感激で、初めはドギマギして居心地が悪かったくらいです。けれど朝の地下鉄で道を尋ねた女の人が丁寧に教えてくれたときに、チェコ人は親切なのだと知りました。
 
 小さなビール屋の店主はもう一人の知り合いらしき男の人と昼からビールを飲んで酔っ払っていました。

時計台とビールと古都

2013年02月17日 | 日記
 お昼頃、旧市街にたどり着いた私は、10年前に見上げた旧市庁舎の時計台を懐かしい気持ちで再び見ます。毎時、鐘が鳴り、時計台の扉が開き、お人形が顔をのぞかせます。私も大勢の観光客に交じり鞄を気をつけながら、死神が鳴らす鐘の音を待ちわびます。いよいよ時計が刻まれ、12使徒が二つの窓から代わる代わる現れます。全部可愛くない顔です。これが終わると観光客から歓声が上がり、そのあと人々はすぐに散り々りになっていきます。
 
 とっても懐かしかったので、すぐそばのレストランへ入ることにしました。時計と広場が見渡せる席を選び、ビールを注文します。チェコのビールは1~2ユーロで飲めます。水と同じ値段です。ただしここは観光客用のレストランなので少し高めです。

 そして最初に解せなかったのが、チェコはビール王国と聞き、いろいろなビールの種類を注文できるとばかり思っていたのですが、どのお店も注文を取りに来てビールと答えるとそのままわかったと立ち去るのです。選ぶどころか一種類しかないのですね。けれどこれは何軒か違うお店を回りわかったのですが、あくまで地ビールということなのでその土地によって産地のビールが異なるのですね。

 プラハは、スタロプルメンという銘柄の黄金色のビールです。
 一口目の泡がクリーミーで口の中いっぱいに広がり、お味もコクがあり、私は天文台を見ながら、またそこに集まる観光客を観察しながら、仕事から解放された極楽気分に浸りながら、ビールとプラハを堪能しました。

ヨーロッパの古都 プラハ

2013年02月17日 | 日記

 10年ぶりに訪れるチェコは前回とはだいぶ違った印象でした。
 私はなぜか冬のヨーロッパに縁があるようで、前回も同じ2月に訪れました。そして橙色をしたプ屋根が印象的で明るい街だと印象付けられていたプラハの街が、今回は暗い東欧の街として目に映ってきました。
地下鉄から地上に上がり、目の前に現れた荘厳な国立博物館には圧倒されました。久しぶりに見る荘厳な建物とういこともあり、暗く沈んだ緑色がかった建造物がプラハの街から醸し出す空気感を作っているとも言えます。
 そこからまっすぐ伸びるヴァーツラフ広場の通りを歩き、旧市街に向かいます。この通りはまさに観光客用のメイン通りとも称されるような両脇にホテル、レストラン、両替所が並びます。
 プラハは至る所にレストラン、バーが林立していて、その種類も用途も様々です。雪に埋もれて何がレストランか見分けのつかないペルミから来た身には心躍らされます。

ホホフカとスラバ一家

2013年02月15日 | 日記

 同僚のナスチャさんのおかげで素敵な家族に出会いました。
ナスチャさんは毎週、日曜日に、14歳のアーニャさんに日本語の個人レッスンをしているそうで、先週の日曜日、その一家のご自宅にお邪魔させていただきました。アーニャさんの隣に座ってお父さんのスラバさんとお母さんのイリーナさんも一緒に日本語を勉強します。娘さん思いの優しいご両親です(*^-^*)
イリーナさん特製のボルシチをご馳走になり、スラバさんの従妹である金髪で小柄な美しいスヴェータさんとその旦那様のかっこいいアレクセイさんも加わり、車で1時間のホホフカの地への小旅行にも連れて行っていただきました。
 ホホフカは、ペルミから行けるちょっとした観光地で昔のロシア人たちが暮らしていたスタイルをそのまま一個の村にしたようなところです。人々が暮らした木の家と木でできた教会があります。人々は木の家を夏用と冬用に分け、冬用の場所には暖炉を作りました。サウナも作り、狩り用のテントも展示されていました。黒沢明が作ったロシアとの合作の映画を思い出しました。名前を思い出せませんが、森で暮らす先住民とそこに探検に入った現代人との心温まる交流の物語です。
私たちのホホフカはガイドさんも付き、雪の中を回ります。どれも初めて見る素朴な昔のロシア人の暮らしに興味津々でした。
 帰りにアレクセイさんの経営するペルミのピロシキのお店に行き、本場ロシアのピロシキをたらふく食べました。パイのように大きなお皿いっぱい焼けたピロシキの生地の中身は黄金色に焼けていて、お肉、お魚、ブルーベリーと種類も豊富です。特に、お肉やお魚にはウクソスというロシア特製の酢をかけていただきます。中味がぎっしり詰まって酢の味も利き、ボリューム満点で美味しかったです。
私はアレクセイさんお勧めのマンサという普通の小麦ではなく小麦のひき割の粉から作られたピロシキをいただきました。口の中にバターの風味が広がり、ヨーロッパのバター菓子だなあと思いました。
 ロシアの生活はどう?と質問を受けて、面白い、だけどスーパーマーケットで胡椒のありかを誰も教えてくれなかった、と言ったら、イリーナさんが「私もスーパーマーケットでは居心地が悪いわ。ごめんなさい」と言っていました。笑
 みんなが優しくしてくれて、とても楽しい幸せな時間でした。
 まだまだ寒いですが私の孤独は徐々に溶けはじめています。

墨絵、本番。

2013年02月14日 | 日記
 今週は、先週の私の失敗を見越して、なんと墨絵の先生が直々に私の家のクジラスーパーまで迎えに来てくれたのです。ロシア人て、本当に親しくなったらとっても親切なんだなとびっくりします。
 先生のセルゲイさんは一度ペルミのアートセンターで絵画展が開催されたときにお会いし、彼が出品していた桜の墨絵を拝見しました。今私が教えている学校の教室に飾られている鯛の絵も彼の作品です。彼は私が自分の教室に来てくれることをとても喜んでくれ授業料もいらないと言うのです。本当に親切だなと感嘆します。
 まだ世が明けない午前9時ごろ、バスに乗り、ふたりで大学まで歩きます。セルゲイさんのロシア語を私はほとんどわかりません。けれど彼はお喋りでずっと話してくれます。ロシア語をわかるようになりたいな、と私は思います。
 彼の勤める大学に到着し、小柄な彼が小さな可愛い手でお香に火をつけると授業は始まります。紙に筆元を重心に筆を置き溜めてから、一気に引き伸ばし筆を止めます。それを3回ほど行うと笹の茎の出来上がりです。書き方は少し書道に似ていると思いました。そのあと細い筆で笹の葉の枝を書き、最後は笹の葉を筆先から流すように書いたら出来上がりです。やはり何事も鍛錬で、すぐにはうまくいきません。細い枝を書くのも太く不恰好にならずに繊細に流れるようにすーっと書けるよう練習が必要です。けれど初めて墨絵の手法を目にし驚いたのと、シンプルな中に日本の美があるのだなと思いました。
 私の他に8歳のソーニャと2人の女性がいます。途中から高校生くらいの男の子も来ました。8歳のソーニャはとっても美人さんで、セルゲイさんいわくママも美人だということです。
ペルミで日本を感じる面白さに満足感いっぱいに教室を後にしました。来週は薔薇を書くそうなので今から楽しみです。

墨絵、序章。

2013年02月14日 | 日記
 土曜日、墨絵を習いに行きました。本当は先週も土曜日に習いに行くはずだったのですが、私が所定の場所にたどり着けなかったのです。墨絵を紹介してくれた16歳の生徒アンジェリカに、30番のバスに乗るように言われていたのですが、朝早く起き、まだ日も昇らぬ9時ごろにひとりバス停に並んでいると、骨身に沁み入るほどの寒さで、おまけに待てど暮らせど30番のバスは来ず、我慢しきれなくなった私はやってきた4番のバスに乗ってしまったのです。これがすべての間違いの元で、墨絵が行われるプーシキン大学を通り越し、引き返すことを決めたものの、聞けど人々は教えてくれずに、中には教えてくれる人もいたのですが、初めての場所で正確にはわからず、墨絵の先生もどうにか来れるように電話で助言はしてくれるのですが、なんせこちらは寒くてかなわない、行先を求めて道を歩くのですが、いったいどちらの方角へ行っていいのやらてんでわからない、アンジェリカも「さやさーん、あなたは今どこにいますか?」と電話を寄こしてくれるのだけど、私は今、私がどこにいるのかわからない状態で答え用がないのです。そしてとにかく寒い、そのうち寒さのせいと情けなさのせいで涙もぼろぼろ出てくるし、パソコンでどうにか場所を突き止めて所定の場所まで導こうとしてくれた天使のようなアンジェリカを制して、とうとう私は「アンジェリカ、今日は諦める」と一言はいてしまったのです。
 私は方向感覚は割といい方で、今まで定めた場所に行けなかったことはないのですが、これが初めての断念です。寒さは気を萎えさせます。もう出て人に道を尋ねる気力もましてや外に出て冷たい外気に中を歩ける気力もなくなったのです。辿り付いたのは小さな子供がたくさんいるブルーの綺麗な劇場です。私はこのままこの子供たちと劇をみよう、そして冷えた身体を温めよう。まるでマッチ売りの少女のような心境になりました。少しは期待して見た劇もやはり、これは子供向け、内容はともかく身体は温まったものの墨絵は行けず仕舞いでした。

不思議国ロシア

2013年02月13日 | 日記
土曜日、同僚のクセイニャ先生に連れられてある集まりに参加しました。日本のマンション群のようなロシアの団地の中に、凸凹してだいぶ歩きにくくなった雪を除けながら歩いていった先の建物の一階へ入ると、胴着を着た子供たちが次々に迎えてくれました。「こんにちは」というと何も言わずに物珍しげにニコニコしているだけです。どうやら日本語は解さないようです。クセイニャ先生に聞くと、ここは『合気柔術』の道場に使っているそうで、いったい『合気柔術』とは何でしょう。
すると一人のロシア人の男の人が出てきてアレクサンドルだと名乗りました。彼が合気柔術の先生らしいのです。見知らぬロシア人の口から「合気柔術」と日本語で聞いて、空手や合気道ならともかく合気柔術などとは一度も耳にしたことがありません。
勧められるまま奥の部屋に案内されると、そこは運動場のような部屋で真ん中には、一組の男女がいて、男の方がギターを抱え、その隣では女の人が歌を歌っているのです。そしてそれを囲むようにして20人ぐらいの人々がじっとその様子を見つめているのです。中には子供連れの家族もいます。何曲か歌を歌い終わると、ご清聴どうもありがとう、というように男女は席に戻り、次に司会というかその場を取り仕切る役の男の人が私に質問を投げかけてきます。「女の人はいつ着物を着るのか」「絶対に着物を着なくてはいけない日はいつなのか」結婚式には黒い着物を着ると答えると「どうして黒い着物なのか」また、「男はどうして着ないのか」という難しい質問を投げかけてきます。「男は昔からスーツでしょ!?」と答えると、「父親は子どもに日本の文化を残さないのか」というまたまたどうやって答えたらいいのかわからない質問の連続です。「日本の男の子は柔道をしないのか」と質問されたので「する子もいる」と言うと「日本ではする必要はないのか」というまたよくわからない質問をしてきます。だから「日本は平和な国だから」とおどけて返すと、今度は「母親からはどうなのか。娘へどうやって日本の文化を残すのか」と来ます。
クセイニャ先生が日本語に翻訳し、私が答え、それをまたロシア語で伝えというその一同一句のやり取りを他のロシア人はずっと見守っているのです。私はとっても居心地が悪くなってきました。まず質問の内容も右翼のように極端な気がするし、お酒を飲んでワイワイという日本の飲み会に慣れた身としては、この集まりがとっても異様に思えたのです。
けれど逆手にとれば、ロシアの社交の場がわかったような気もしたのです。どういうことかというと、自慢じゃありませんが、悲しいことに、私はロシアに来て一度も飲み会に誘われたことがありません。これは日本人の私からすると驚くべきことです。ふつう日本では、新年会、忘年会、お誕生日会、歓迎会、送別会、失恋会、クリスマス会、会社の帰りに一杯、花金に一杯、疲れて一杯、嬉しくて一杯、ストレスで一杯、お祝いに飲み会、なんでもいつでも一杯、いーっぱい飲みます。ところがどうやらロシアにはこの習慣がないようなのです。ただ単に私が不人気という理由なのではなく、周りの生徒やロシア人を見てても飲み会へ行っている様子がないのです。私も生徒から誘われるのは、スケートやボーリングでレストランで一杯というのは一度もないのです。
ロシアに初めて足を踏み入れた3年前から思っていたことですが、ロシアの外食産業はやけに高いのです。だいたい日本と同じかそれ以上に高い気がします。ランチにスパゲッティを食べると約1,500円です。これはペルミで女の人が一か月にもらう6万から8万の月給に比べるとベラボーに高い金額になります。この比率の合わなさは何なのだろうとずっと思っていました。
そして今ロシアに住み、人々を観察し、実際に見聞きしたところ、ロシアには飲み会の文化はないとのことです。仕事が終わり、一杯やりたいなと思っても寄る店がないのです。私もこのことにあるとき気づきました。そういえばロシアは気軽な喫茶店やバーがないな、と。
レストランへ行くのは、遠方より友来たるときや、本当に特別なときであり、それ以外は外食はせず、たいがいは誰かの家でパーティーをするそうです。
そしてどうやらこの集まりがそのロシアのパーティーだったみたいで、私はなんだか途中まで居心地が悪かったのです(;^ω^)最後はだいぶ慣れましたが、それでも品行方正に歌にお話にと、最後までお酒は一滴もなく、昼間のうちに切り上げました。とっても不思議な感じがしました。
それでも、ここロシアにも飲み屋はあって、入口に明らか酔っ払いの飲んだくれだなと思うオヤジたちがたむろしている光景は何度か目にしました。日本のように若い女性をターゲットにお酒を売り出す、というようなそういうビジネス展開というか産業というか、文化じゃないんですね、ロシアは。
これは全部ペルミの話なので、モスクワまでいくとオシャレな場所もたくさんあると思いますが、それでもやっぱり日本ほどじゃないです。イタリアンならせいぜいタパスタパス止まりとでもいいましょうか。でも本当にそんなイメージです。
一度、ペルミのホテルのレストランで食事をする機会がありました。行ってビックリ(*_*)がっかりしました。全面、蛍光灯でギラギラ光っているのです。雰囲気も何もありません。これがホテルのレストランなの!?と思いました。上司いわく、まだペルミではそんなに競争相手がなく、だから値段も高額なのだということです。ロシアはまだまだ開拓されきれずにビジネスチャンスがたくさん転がっているのかもしれない!と柄にもないことを思ったりしました(;´∀`)


17歳の先生

2013年02月12日 | 日記
 授業が終わったある日、ひとりの生徒から「先生はロシア語の勉強をどのような方法でしていますか」と聞かれました。「ロシア語のテキストで勉強してるよ」と答えると、彼はそのテキストを見せてくれというのです。私は、乞われるまま、テキストを鞄から取り出し手渡しました。すると、彼はそれを熱心に見、ページを繰り、今度は音声も聞かせてくれと言うのです。私は言われるままI-PODを取り出し音声を流すと、今度はそれにも熱心に耳を傾けているのです。しばらくすると彼がおもむろに話し出しました。

 3年前に、ここペルミにひとりのイギリス人がやってきた。彼は大学の留学生としてやってきたが、イギリスで何年かロシア語を勉強していた割には上手とは言い難かった。まず発音が成っていなかった。テキストには嘘が多い。

 そこまで話し彼は、「先生は‘ш’と‘щ’の発音ができますか」と言うのです。
このшとщは、ロシアのキリル文字のなかでも曲者で、最初のшの読み方はカタカナ表記にして「シャッ」であり、こちらのシッポが付いた方の文字はщ「シャ」であり、発音にいたっては、шを弱め、щを強めという注が載っているだけで、何がどう違うのかわからず、日本人の私には、書かれてある表記のまま強弱の違いだろうぐらいにしか区別がつかなかったのです。
 そして彼は耳をそばだて、私のおこなった発音を聞いた後、説明を始めました。
こちらの「щ」は日本の「シャ」と同じ発音でよい、けれどこっちのシッポの付いていない「ш」のほうは、舌を喉の奥につけて発音するのだ。それを彼は、日本語の口蓋音や、震え音などの専門用語を駆使して教えてくれるのです。
 何回か発音した後、私の「ш」の音も「少し歯のないおじいさんのような発音だけどいい」というヤン先生のお許しが出、私は生まれて初めて正式な発音の違いを学んだのです。かくして金曜日の午後5時からは、ヤン君と私のロシア語のレッスンが始まりました。
 彼は、ヤン君といい、ちょっと面白い男の子で、授業中に『現代』の漢字が出てきたときに、「ペルミには『現代美術館』があります。現代美術館で『現代』という名前がついているのは、ロシアではペルミだけです」というのです。そしてそのあと「先生は現代美術は好きですか」と聞くので「あんまり好きじゃない」と答えると、自分のポケットから出したお菓子のゴミを机の上に置き、それを指さし「現代美術」と言ったのです。笑
 写真は日本語の教室です。日本風にあつらえてあるのです。すごいでしょ!?


素晴らしきかな、自炊

2013年02月11日 | 日記
「Lost in translation」(言葉が通じずにちんぷんかんぷん)という言葉があるように、「Lost in food」(食べるものがない!)という構文もあるのでしょうか。
 私はロシアへ来た初めのころ、ロシア料理が口に合わず、食べるものがないと焦りました。スーパーマーケットへ行っても見知った食材がなく、何を買えばいいのかわからないのです。そして最初は胡椒の場所もわからず、店員に聞いても「知らない」と一蹴され、手持ちの調味料は塩と砂糖と醤油だけだったのです。みりんも酒も何もなくてこれでどうやって調理すればいいのだろうと途方にくれたものです。けれど料理上手な友達に聞くと、砂糖と醤油があれば肉じゃがも作れるし、ごった煮スープも作れるし、出汁の元がなくても肉から出る出汁で十分美味しい、何でも作れるよ、と教えてもらい光が見えたものです。さっそくその週の休みの日に、スーパーでジャガイモ、人参、玉ねぎ、肉を買い込み肉じゃがを作ってみたのです。こんなに料理に集中したのは久しぶりです。口に合う料理が食べたいばかりに一心不乱にじゃがいもの皮を剥きます。そして少し多めに入れた砂糖と醤油で味付けされた懐かしい肉じゃがの汁をすすったときには、甘醤油の味が骨の髄にまで沁みわたるようでしばし恍惚に浸ったものです。
 それからは料理を作ることが私の趣味とでもなったように、毎週末、私は買い出しに行っては自分のために料理を作り続けました。私、こんなに料理を作るのが好きだったっけかな、と思うほど料理を作ることに集中しました。そのころには、スーパーでの胡椒のありかも突き止め、他にも幾種類かの調味料を手に入れ、モスクワで買ってきた日本の3倍の値段に跳ね上がったお酒や味噌、乾燥しいたけなんかも取り揃え、マッシュルームやズッキーニを買ってきてはごった煮スープを作りました。友人のカーチャから譲り受けたインドの本場カレールーをも使いこなしました。その他、モスクワのスーパーで見つけたテリヤキソースに炒めたピーマンとパスタを絡め焼きうどん風スパゲィテも編み出しました。
 茄子とピーマンの味噌和えを作って食べたときは、これもまた甘砂糖の味噌和え恍惚に浸りました。ただし、茄子は見かけの艶々感と違い、大部分の中味が傷んでいたので、悲しいけれど、もう買わないことにします。やはりここは雪深いロシア、搬送中に茄子は傷んでしまうのでしょうか。どなたか、茄子の代案を教えてください。


ロシアの食事事情 3

2013年02月11日 | 日記
 ロシア料理の中で、ピロシキは唯一、有名ですね。これは日本では、具だくさんに味が詰まったパンが揚げてあるもの=ピロシキという認識ですが、本場ロシアでは必ずしもそうとはかぎらず、むしろ揚げていないパンの方が一般的のような気がします。中身も、ジャムだったり、お肉だったり、チーズだったりします。中味がじゃこのようなお魚が入っていた時があり、私はこれもまた口に合わずに食べることを断念しました。
 私は、カンボジアではコオロギみたいな黒い虫をスナック感覚でカリカリ食べたり、雀やウサギの肉に挑戦したり、インドでも平気で屋台の店の料理を利用したりと、食べ物でもなんでも好奇心の強い方だと思うのですが、ロシア料理には一切この好奇心は発揮されず、いつも安全パイのスープとパンを選ぶ身となりました。
 断っておきますが、私は美食家などとは一度も言われたことはありません。その私がここまで食べ物に拒否反応が出ているのも珍しいことです。私は、だんだん、ロシア人は本当にこの料理たちを好きなのだろうか、と疑うようになりました。ためしに同僚の人に「ロシア料理は好きですか」と聞いてみました。すると彼は「私はロシア料理が好きというより、ロシアのこの料理が好き、イタリアのこの料理が好き、日本のラーメンが好きですね」という何とも曖昧な答えが返ってきました。私は、これはもしや彼もロシア料理を好きとは言い難いのではないかと自分勝手に判断しました。けれど別の時に「私にとってはロシア料理が普通の味だと思っています」という言葉を聞いて、私が日本料理を普通に美味しい料理だと思っているということなのだと判断し、私の木阿弥は外れたのだと理解しました。
 他の生徒も「ロシア料理は美味しい」という構文を作っていたので、やっぱりロシア人の舌には合うのでしょう。 
 友人のカーチャは、デンマーク人の旦那さんを選ぶほど、ロシアの男のこともロシアの国も料理も毛嫌いしているので、カーチャの意見は一般のロシア人の例外と考えられます。
 あとはロシア料理が有名じゃないのは、「理由があるからである!」これは真実ですね。次回は私の自炊のお話を書くとしましょう。

ロシアの食事事情 2

2013年02月11日 | 日記
ロシアの料理を一口食べても、いったい何で味付けをしているのか、とんと見当がつかないのです。一言でいうと無味なのです。ハンバーグのような形をした肉の塊があるのですが、ハンバーグを完成させる前の段階で料理を終了してしまったような出来具合なのです。おそらく牛と豚のひき肉から作られていると思われるのですが、塩胡椒で味付けされたのかも判然としないぐらい味が不確かなのです。友達のカーチャは名前からして生粋のロシア人なのですが、彼女も不味いと言っていました。
そして他には、マカロニの上に何かのソースで味付けされた魚が載っていることもあるのですが、こちらもマカロニと魚がまったくもってマッチしていないのです。
私は最初のころ、ロシア料理が口に合わずに、いったい何を食べればいいのだろうと路頭に迷い、ストレスになりかけました。今は自炊も覚え、あとは食堂で飲むスープはまあまあイケルことに気づき、お昼はスープとパンを食べることにしています。スープで有名なのは、『ボルシチ』ですね。あのビーツで染まったピンク色をしたスープの上に真っ白なサワークリームが載っているものです。けれどこれは実はロシアの料理ではなく、発祥はウクライナの地なのです。いつかポルトガル料理を一緒に食べた友人が、「ポルトガル料理があまり世界に知られていないのは理由があるハズなのだ」言った言葉が印象的でしたが、これとまったく同じでロシア料理がまったく世界に知られる代表料理がないというのは、理由があるハズなのです。それは、つまり、美味しくないからです。万人の舌をウナラセナイられないからなのです。

ロシアの食事事情

2013年02月05日 | 日記
 いつかロシアの食事の悪口を書こうと思っていたのですが、とうとう書いてしまいましょう。
 私は普段は、朝ごはんは家で簡単なパンとハムを焼いたのとりんごとヨーグルトと牛乳で簡単に済ませ、お昼は学校の食堂で食べます。夜は授業があるのでタッパーに食堂のごはんを詰めてもらい持ち帰ります。
学校の食堂は、先生方から生徒まで大勢が利用するので、常時、メインの肉や魚は2種類、サラダ1~2種類、主食のお米かマカロニかカーシャと呼ばれる粟のようなものを甘く柔らかく煮たもの、スープ、そしてピロシキを含むパンがあります。このように書くととても豪華でバラエティに富むとっても素敵な料理の品々に聞こえますが、事実はまったく逆なのです。
 ロシア料理は、たしかに、種類は豊富なのです。肉や魚や野菜を使い、バラエティ豊かにその食材を組み合わせています。けれどそのどれもが美味しい組み合わせで、正しい味付けとは思われないのです。私はこの2か月、食堂で食べ続けていますが、いまだに「これは本当に美味しい!」と思うようなロシア料理に出会ったことがありません。イタリア料理なら一日目で「これは美味しい!」と毎晩でも舌鼓をうちたくなるような料理だらけですが、悲しいことに我が処ロシアではそうはいきません。
 一度、食堂でゼリーのようなゼラチン状のトロンとした塊の上にサワークリームが載っているものがあり、当然素通りしようとしたら、同僚の先生から、美味しいから食べてみなさい、という声がかかりました。私は内心、美味しいとは思えないと思いましたが、仕方なくそれを取り自分のテーブル持っていきました。どうやら魚をゼリー状にしたようなものらしいということはわかったのですが、味は判然とせず、予想通りとても美味とは思えませんでした。
 写真はボルシチにも使われる赤いビーツという野菜!?のサラダ。上にサワークリームが載っていてそのまた上はチーズです。私が残さず食べれる数少ないロシア料理のひとつです。

チェコへの追い風

2013年02月05日 | 日記

 ロシアでの初日本語教師期間が丸2か月を過ぎました。あと2週間で、ビザ切り替えのため、チェコへバカンスへ行けます。3ケ月の就業ビザの切り替えのため、一度ロシア国外への退去を余儀なくされ、そのおかげで文字通り一週間のお休みinチェコとなるわけです。昔日の友、ドイツに住むナヨミも駆けつけてくれ、二人でドイツのドレスデン、そのあとボレスワビエツの食器を買い求めにポーランドへ入る予定です。この日程を決めるのもロシア側との日々重なる交渉、攻防戦が繰り広げられ、大変でしたが、ここでは書くまいbyチェーホフ、何事も予定調和に行かないのがロシアである、と言っておきましょう。
 やはり、仕事を離れ旅行に行けるというのは、どこにいても嬉しいものですね。最近はクラスの多さにも忙殺され、泣きたくなるくらい疲れた日が続いていました。目の前のことに気圧されると初心を失ってしまうのですね。余裕を失って、自分の恵まれた環境を振り返り確かめることも、楽しむ心もどこかにポンと置いていってしまいました。
 チェコへ行ったらリフレッシュして、そしてまたペルミ行きが決まったときにがんばろうと思った気持ちを思い出し、仕事に励もうと思います。
それまではただひたすらチェコ行きを指折り数えようと思います(●´ω`●)☆