丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

112. 「かぎやぁ~」「たまやぁ~」

2008-07-27 09:44:06 | 閑話

                            112. 「かぎやぁ~」「たまやぁ~」

 26日も岐阜県の多治見で最高気温39・0度など、各地で猛暑日となりました。 日本列島は関東以西で厳しい暑さが続いています。

 各地で猛暑日を記録する中、夏の夜の風物詩に触れんものと 立川の納涼花火大会へ出かけました。

 会場は国営昭和記念公園 みんなの原っぱ。 夜空を焦がす光の饗宴は打ち上げ開始後1時間15分続きました。やはり夏の夜は花火が一番の清涼剤。打ち上げ数 5,000発は 痛快この上なしでした。

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  東京西部では立川の納涼花火大会打ち上げ数5千発。東部では隅田川納涼花火大会の総打ち上げ数2万発 特にフィナーレのスターマインの規模はたった5分でなんと4千発連続して打ち上げられたそうです。

 夜空を焦がす大輪の花に、はしゃぐ子供たちの歓声が楽しく、気持ちよいのも年のせいなんでしょね。

  その夜 隣で見ていた大学生らしい数人連れのひとりが「玉屋って何?」ほらきたと思ったら、幸いにその仲間の一人が「玉屋・鍵屋は江戸時代の花火職人の屋号だよ」正確に答えていたのでホッとしたのもつかの間「さすがクイズ王」の一言に、「ウーム」

 確かに今どき玉屋・鍵屋を知らなくても 何の不都合も無いのだが..。



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 隅田川(江戸)の花火を発展させた立て役者といえば、「鍵屋」「玉屋」の二大花火師である。 江戸時代の天保年間、花火師「鍵屋」と「玉屋」は両国橋を挟んで花火の競演で庶民を楽しませ 江戸と花火の歴史に名を残している。今からおよそ250-200年ほど前のことである。 
 
 初代鍵屋は、大和の国は篠原(奈良県吉野郡)の出身で、名を弥兵衛という。志を立て故郷の篠原村をあとにし、道中、花火を見せては旅費を稼ぎ、遠州浜松を経て江戸に入った。日本橋横山町に店を構え、花火を売り出すようになるのは万治2年(1659)のことであった。

 

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  『日本橋区史』には、「江戸に烟火業者起りしは万治年間のことにして、当時はもっぱら幕府の御用達を勤めしのみ」とあり、また、万治2年の頃には「花火師鍵屋弥兵衛御本丸御用達となる」とある。江戸に出てきて花火を売り出した年に、早くも将軍が上覧する花火を上納するほどに急成長したということになる。
 
 当時、弥兵衛が得意としていたのは、葦の管に火薬を練った玉を詰め、管から火の玉の飛び出る花火で、現在の玩具花火の5連発や7連発、いわゆる「乱玉」の初歩のようなものだった。以来、代々鍵屋弥兵衛を襲名するようになり、6代目鍵屋の代からは両国の川開き花火を担当。川開き花火が隆盛になるとともにその名を高めていった。

 文化7年(1810)鍵屋の腕の良い番頭清七(『鍵屋伝書』)には新八とある)が暖簾を分けてもらい両国広小路吉川町に分家する。鍵屋は鍵屋稲荷を守護神としていた。その祠の前の狐の一方が鍵を、一方が擬宝珠(ぎぼし)の玉を持っていた。鍵屋は清七を分家させるときに、この玉を与えた。

 

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 そのため清七は玉屋を名乗り、名前も市郎兵衛と改めた。『鍵屋伝書』には玉屋煙火の儀は元来7世鍵屋弥兵衛に召使罷在候新八と申者、煙火製造熟練の上自ら両国広小路に開店致しその家号を玉屋と称し、其後両国川開之節も私店同様煙火打揚来り・・・」とある。  
 
 
橋の上、玉や玉やの声ばかり
   なぜに鍵やといわぬ情けなし

 鍵屋・玉屋の時代になって、両国の川開き花火は、両国橋をはさんで上流を玉屋が下流を鍵屋が受け持つようになった。玉屋の人気は鍵屋をしのぐほど高かった。

 この頃から浮世絵の画題としても花火が多く登場するようになるが、もっぱら描かれているのは玉屋であり、このことからも玉屋のほうに人気があったことが察せられる。花火技術も優れていたのだろう。 その証として、「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情けなし」といった歌も残っている。

 天保14年(1843)4月17日玉屋は失火によって全焼、町並を半丁ほども類焼させてしまった。当時、出火は重罪であり、しかも将軍家慶が日光へ参拝に出かける前日であったため、玉屋は江戸払いの罪を科せられ、追放処分となってしまった。 江戸庶民の絶大な人気を集めた玉屋も一代限りでその家名を断絶したのである。

 出典:すみだ学習ガーデン : 
 http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA005/S005-04.htm

*鍵屋のその後
 鍵屋はその後も両国の花火を引き受け、12代鍵屋弥兵衛が昭和40年に天野道夫氏に、鍵屋の暖簾を譲るまで、世襲的に暖簾を守った。現在は天野氏が継いで「宗家花火鍵屋」(東京都江戸川区)を名のっている。

*玉屋のその後
 一方江戸を追われた玉屋は現在八千代市の中島氏が戦後市川の方から玉屋の暖簾を買って花火店を経営されている。初代の直系ではないが暖簾だけは、次々引き継がれ守られているようだ。(花火千一夜より抜粋)


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 結局、鍵屋・玉屋の時代は、32年間で幕を閉じた。が、玉屋の名は江戸庶民の間に語り継がれ其の後の花火大会でも江戸っ子達は「かぎやぁ~」「たまやぁ~」と歓声を上げて見物した。

 現代では「ワー」とか「オー」という歓声に変わり「かぎやぁ~、たまやぁ~」と叫ぶ人は「空気読めない」場違いな人と思われる。


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http://kj2k3.at.webry.info/
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2 コメント

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玉屋と鍵屋 (あこ)
2008-07-27 10:26:10
玉屋と鍵屋を学びました。
ありがとうございます。
1600年代、大和の国篠原出身、弥兵衛さんの志が
今も生きているとは、墨田川の夜の大花火大会は
粋きですね~
毎年、弥兵衛さんの魂を打ち上げている。
オリンピックの灯火と似ている。
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玉屋・鍵屋のその後 ()
2008-07-28 11:21:50
*鍵屋のその後
 鍵屋はその後も両国の花火を引き受け、12代鍵屋弥兵衛が昭和40年に天野道夫氏に、鍵屋の暖簾を譲るまで、世襲的に暖簾を守った。現在は天野氏が継いで「宗家花火鍵屋」(東京都江戸川区)を名のっている。

*玉屋のその後
 一方江戸を追われた玉屋は現在八千代市の中島氏が戦後市川の方から玉屋の暖簾を買って花火店を経営されている。初代の直系ではないが暖簾だけは、次々引き継がれ守られているようだ。
(花火千一夜より抜粋)
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