丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

682. 「今夜の我が家の晩ご飯」

2025-01-29 22:26:49 | 我が家の晩御飯
1月29日(水)

午前7時晴 気温:2.7℃ 正午11℃ 日中最高12℃の予報です
今日の日の出は06:44 日の入 17:06

今日は日差しが届き、昼間は温もりを感じられそうです。
空気が乾燥するので火の取り扱いにご用心。

◇◆◇ 「明治初期日本の人口は」 ◇◆◇

人口調査記念日 1872(明治5)年の1月29日、日本初の全国戸籍調査が行われました。当時の人口は男1679万6158人、女1631万4667人で合計3311万825人でした。(出典:WEBサイト「今日は何の日~毎日が記念日~」)


◇◆◇ 閑話休題 「富国強兵」「地租改正」「殖産興業」 ◇◆◇

 
 さて 江戸幕府から政権を引き継いた明治政府は、不平等条約など負の遺産も引き継ぎました。これらを改善するには文明化・近代化を進める必要があり、そのために富国強兵が必要でした。国の経済を発展させその資産で軍事力を増強させる政治思想です。一般的に富国強兵というと明治時代に政府が主導して行ったものを指します。
 富国強兵は明治政府だけのものではなく、古今東西さまざまな国で行われています。もともと富国強兵という言葉が生まれたのは春秋・戦国時代の中国です。当時諸子百家から人材を登用したり、騎兵などの新兵器を導入することを富国強兵と呼んだのがこの言葉の始まりです。
 富国強兵を目指すためにはまず税収を増やす必要があります。明治政府はそれまでの税制を大幅に変更して不安定な税収を安定化させました。 江戸時代の税収は土地で生産された米に対して一定割合の税をかけるというものでした。しかしこれでは不作の年には収入が減ります。また土地によって税率はバラバラでそれらを統一する必要もありました。そのため明治政府は土地に対して税金をかけることにし、1873年(明治6年)に地租改正法を制定、地価の3%を金で納めるように決めました。
 土地の価格がかなり高く定められたこともあって、実際は江戸時代よりも負担は増えました。また例え不作になろうと毎年同じ額を納めなければならないのも負担が増す原因になったのです。そのため全国で地租改正反対一揆が続発しました。政府は当時多発していた士族反乱と連携するのをおそれ、1880年(明治13年)に税率を3%から2.5%に減額しました。
 このように民衆側からすると悪い面が目立つ地租改正ですが収穫高を増やせば自分の取り分が増えるので労働意欲が増すというよい面もありました。また江戸時代、田畑で育てる作物は藩から指定されたものに限られていましたがこの制限もなくなったため、自分たちの判断でお金になる作物を育てるという選択ができるようにもなりました。
 殖産興業とは機械制工業や資本主義の育成、鉄道網など社会基盤の整備により国の近代化を進めた諸政策をいいます。殖産興業の元祖は島津斉彬が主導した集成館事業です。この当時佐賀藩など「強兵」の部分を強化した藩はいくつかありましたが、「富国」にも力を入れたのは薩摩藩だけです。製鉄・造船・紡績などの工業化に幅広く力を入れました。
 富国強兵が行われた結果、日本の経済力は大幅に伸びました。また軍の近代化も進み、大国の清やロシアと戦争をして勝利を収めることができました。
 また明治政府にとって悲願だった不平等条約の改正も成し遂げられました。1894年の日英通商航海条約により領事裁判権を、1911年の日米通商航海条約により関税自主権をそれぞれ取り戻すことができたのです。
 これにより真の独立国として欧米列強諸国と対等な立場に立つことになりました。しかしこれは列強諸国と同様の植民帝国建設を目指すことにもなり、昭和の戦争へつながっていく原因になったのです。
(出典: WEBサイト Rekisiru・日本史より ) 


◇◆◇ 「今夜の我が家の晩ご飯」 ◇◆◇
 

鶏肉チーズとトマトソース煮にパスタでグラタン 
椎茸・かいわれ・蒟蒻・人参・豆腐の煮浸し
 
ブロッコリーと卵の野菜サラダ   北海道コーンスープ 

餅麦入り胚芽米に昆布佃煮・沢庵・梅干し  デザート:みかん
 
今日も良い一日をお過ごしいただけますように。
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