60年前に世界で初めてヨットで日本からアメリカ・サンフランシスコへの単独の太平洋横断に成功し、ことし83歳になった堀江謙一さんは当時とは逆のルートでヨットによる単独無寄港の太平洋横断に挑戦し、4日未明紀伊水道のゴールに到着しました。 口で言うのはたやすいですが世界最高齢で2か月かけて命がけのセーリング快挙達成です。
老いてなお壮健な堀江さんとは違って、こちらはいつ終わるとも知れないコロナ禍に フットワークのありようをすっかり変えられてしまったみたいですね。 ここがえらい違いです。
ちょっと墓参りに帰省どころか近郊への小旅行すら思い通りにはなりません。 やむなくここまでの旅の足跡をFace-Bookに投稿することにします。気の赴くままに旅の記録アルバムを見直すしかありません。
ぶらり歩いた全国47都道府県気ままな旅のアルバムは 現在 能登半島「輪島朝市」を手始めに 南下しています。
さて二十四節気では、「小満」の次は、穂の出る植物の種をまく頃の「芒種」(ぼうしゅ)となります。 期間は6月5日〜6月20日頃です。
芒種(ぼうしゅ)とは、稲や麦など穂の出る植物の種を蒔く頃のことで、稲の穂先にある針のような突起を、芒(のぎ)といいます。
この頃から、雨空が増えていきます。 関東地方は6月6日、7日と雨になりそうです。
芒種 初侯 6月5日〜6月9日頃
蟷螂生 かまきりしょうず
秋に生みつけられた卵から、かまきりが誕生する頃。
かまきりは農作物には手をつけず、害虫を捕まえてくれる、
私たちにとってありがたい存在です。
ホタルが暗闇に光を放ちながら、飛び交う頃。きれいな水辺に住んでいると思われがちですが、野原でも蒸れて腐りかけた草の下で、明かりを灯し始めます。
梅雨という言葉は、梅の実が熟す頃の雨という意味です。
黴(カビ)が生えやすい季節なので、「黴雨(ばいう)」と書くこともありました。
紫陽花は梅雨時を象徴する日本固有の花です。
「万葉集」にも名前が出てくるほど古くから知られています。鎌倉時代に園芸化され、江戸時代には一般的な庭園植物となりました。
鯵の中では最も美味とされる高級魚です。大きいものは、体長1mにも達し「オオカミ」と呼ばれています。刺身で食べられることが多いですが、塩焼き、酒蒸しにも合います。
初夏にとれるトマトを「冬春トマト」、夏から秋にとれるトマトを「夏秋トマト」と呼びます。太陽を浴びて真っ赤に育った、冬春トマトと夏秋トマトは糖度が高く、味が濃いのが特徴です。
六月の田植えの時期には、大阪の住吉大社で行われる御田植神事などをはじめ、全国各地で、今年の豊作を田の神様にお祈りする祭りが行われます。
旅に出ると 壮大な自然に触れるだけでなく各地の歴史とそれに思いがけない歴史を学ぶ。 歴史上の人物は行く先々でその土地の思いを反映され 神話や各地の伝説の中では人々の想いが新たなロマンを築き上げていく。
歴史は歴史学者たちが その時々に残された遺跡や文献などから得た推論を科学的に検証しながら解釈し、何らかの想いをこめて作り上げられているものであることを知ることになる。
① 卑弥呼も幼い頃 都から派遣され四国でその神がかり的なデビューをしたとの見方も残っている。
卑弥呼の四国デビュー説も 西暦240年ころ「祟神天皇」の時代に巫女として活躍した「倭迹迹日百襲姫こそ卑弥呼のことである」との見方である。 「倭迹迹日百襲姫」は幼少時四国(讃岐?)に遣わされ、神がかり的な功績を残し 四国を基点に大和(奈良)へ遷り、後に「卑弥呼」となったとの解釈である。
しかし一方で日本書紀の神功皇后記では、卑弥呼は大陸とも交渉した偉大な女王ということからか、卑弥呼とは神功皇后のことであると示唆しているようだ。
他にも卑弥呼は、239年に魏に使いを送っており、天照大御神の時代と卑弥呼が活躍していた時代がぴったりと重なることで神話化し、伝説化したのが天照大御神こそが卑弥呼であるとの見方もある。
さらに本居宣長 は「偽僣説」で卑弥呼は、神功皇后の名を騙った九州の女酋長とまで言い切っている。 それほど卑弥呼については諸説あり歴史学者の推理は果てしなく広がっていく。 さすが元祖日本の女王である。
邪馬台国の九州説あるいは畿内大和説 訪れた土地によって異なった神話や伝説があり、歴史上の人物は色々な土地で生活し活躍したことになっている。 卑弥呼についてだけでなく旅先では思わぬところで歴史を知り 時には夢溢れるロマンを学ぶ。
② 卑弥呼が倭国の最初の女王であるかに記録されていたのは 「魏志倭人伝」であった。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称をいう。
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられてきた。
この倭人伝に 当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。
倭人伝原文 : 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は、鬼道に事え(つかえ)衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡(朝鮮の中継点)を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。 正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。 「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
③正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。 再び卑弥呼の宗女(一族or宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
臺與(台与、とよ)(235年 - 没年不明)、あるいは壹與(壱与、いよ)は、日本の弥生時代3世紀に、『三国志 (歴史書)・魏志倭人伝』中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女である。
後継壹與は歴史上実存した誰になるのかは諸説あり 複数の歴史学者が推す5人の候補の中から特定するには至っていない。
本来歴史とは その地域あるいは国家間の争いで勝ち残ったものが自らの功績と名を後世に残したいとの意識がスタートだと考えている。
国の歴史に名を残し、国家の発展あるいは消滅までを見た場合、前者はその時代に勢いのある勝者が記し、後者は その国・あるいはその人物に打ち勝ったものが記す。と考えるのが概ね常識的な見解と思える。
三国時代の魏にとって倭人の国である邪馬台国については比較的事実に近い形で史書に残せたのであろうと思われる。ほとんど服従してきている倭国を必要以上に強国として記す必要もないので「魏志倭人伝」はある程度は信ぴょう性の高い歴史書になるというわけである。
④ わが国独自の史書である「古事記」 と 「日本書紀」 はどちらも 「天武天皇の編纂の命を受けて書かれた日本の史書」 であるが、「古事記」 は 「712年に成立した国内向け・紀伝体・日本漢文体の史書」 で3巻、 「日本書紀」 は 「720年に成立した国外向け・編年体・漢文の史書」30巻+系図1巻と そのサイズは大きく異なる。 まずは 巻数の違いと完成時期が大きく違うのである。
また、天皇について「古事記」では第33代の推古天皇、「日本書紀」では第41代の持統天皇までがエピソードの収録対象となっている。
「古事記」と「日本書紀」の編纂メンバーはそれぞれ全く違っている。前者は、驚異の記憶力の持ち主である稗田阿礼&エリート文官の太安万侶コンビによるもので、後者は皇族・官僚達によるものとされている。
舎人(とねり)の役職にあった稗田阿礼は、一度見聞きした物は絶対に忘れないという凄まじい記憶力の持ち主で、「帝記」「旧辞」を口述し、その内容を太安万侶が筆記した。「古事記」誕生の裏側には、異才2人の絶妙なコンビネーションが存在していたといえる。
「古事記」は、天皇家の歴史を中心に据えた壮大な物語として書かれており、天照大神の子孫が初代天皇である神武天皇とされ、「天皇による万世一系の統治の正当性を説いた書」という位置づけになっている。
いわば中央集権国家体制確立を目的とした、国内用のPR本といったところである。そいう意味では天皇は神格化しておく必要があった。
一方、「日本書紀」の編纂は舎人親王を中心とした6人の皇族、6人の豪族、他多数の人々が、長年に渡って手掛けている。
「日本書紀」は政府の公的記録や百済の書物、巷間の手記など、実に多彩な内容の資料をもとに、膨大な時間をかけて編纂されていた。まさに古代日本の威信を賭けた一大国家プロジェクトであり、対外用に日本の独立性を示すための書として仕上げられたものといえる。
この項 出典:「日本文化研究ブログ」および「ウイキペディア」などより抜粋
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邪馬台国の九州説あるいは畿内大和説 訪れた土地によって異なった神話や伝説があり、歴史上の人物は色々な土地で生活し活躍したことになっている。
卑弥呼についてだけでなく旅先では思わぬところで歴史を知り 時には夢溢れるロマンを学ぶ。天照大神や須佐王命(須佐之男命)は全国各地で登場し、各地の数多くの神社で信奉されている。
須佐之男命(スサノオノミコト)は天津神(高天原という天上界にいる神)でしたが、追放されて国津神(地上にいる神様)となった神様です。日本神話では、天照大神を天岩戸に閉じこもらせてしまった原因を作った野蛮な神でした。一方で八俣の大蛇を退治する英雄的な面も見せる神です。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」という日本初の和歌を詠んだとも言われています。駄々をこねる姿もあれば、英雄の面もあり、和歌を詠む面もあり非常にいろいろな面を持つ神様ですが、元が神話ですからやることなすこと面白い。
個人的は卑弥呼は四国でデビューした巫女であるとの記録は興味深い。 ついで その後継であった、臺與(台与、とよ)あるいは壹與(壱与)の読みに「いよ」が残っており 伊予の国とのつながりまで思いをはせると あれあれ 歴史ロマンはさらに広がっていくのである。
魏志倭人伝で嘘を書く必要性は魏には無かったでしょうから、知っていることをそのまま書いたと思われます。ただ地理的な問題は現在でもGoogleマップを使っても簡単にはたどり着けないことがあるので、それは大いにずれてもやむを得ないような気がします。最近、聖徳太子伝説に興味を持っています。実在すら疑う人がいるようですが、そうは思いたくないですね。太子が道後温泉に入られたのは伝説ではあって欲しくないです。数年前、あなたは四国出身なのにご存知ないのですかと言われ、恥ずかしい思いをしたのが、空海伝説です。これも興味深いことが沢山ありますね。また古代史に関するものを是非書いて下さい。
邪馬台国の所在地論争は、行程の解釈のみでは、邪馬台国の所在地は割り出せないというのが最近の見方になっているようですね。 中国の古書には方角の誤りが多いため、我々は方向修正・距離短縮などいかようにでも読み替え可能です。
『魏志倭人伝』の 記述をどう読み解くかですが、史実は当事者でない限り真実を語れないのが道理ゆえ これもロマンといえばロマン のちの世の人物たちには推理・推測しかできません。 こうなると決して真実にはたどり着けない歴史より神話の世界に足を踏み入れたほうが、性分に合っていそうな気がしています。 丼