新潟久紀ブログ版retrospective

病院局総務課13「H23.3.11東日本大震災(その1)」編

●H23.3.11東日本大震災(その1)

 病院局総務課での勤務3年目も終わる平成23年3月。組合交渉も一月前に妥結し、当初予算の発表も終え、2月議会もヤマ場を越えた頃合いの我々の関心事と言えば、例年3月半ばに発表される人事異動の内示くらいのものであったが、私は総務課長補佐になって1年目であり、これまで2年での異動が通例となっていた課長が転出するだろうということを考えると、来年は残留と端から覚悟していたので、私の心は穏やかなものであった。
 平成23年3月9日。県庁14階の廊下を歩いている時に凄いグラつきに襲われた。同じフロアの執務室に戻ると皆がテレビの速報を観ていて、三陸沖を震源とする最大震度5弱の地震であり、津波注意報が発表されていた。後から思えば、何故この時に2日後に発生する東日本大震災を予見できなかったのか、国家的に悔やまれるのではないだろうか。私は、大震災当日の後に地震予知研究というものほど空しくてあてに出来ないものだと心底思ったものだ。巨額の予算と労力、時間は何のためのものだったのかと。
 平成23年3月11日の午後2時46分。いつものように比較的静かだった県庁14階の執務室は前触れもなく大きく横揺れを始めた。今までに経験した地震の揺れとは明らかに異なる大きさと横揺れ幅が長い波であり、最初は地震以外の何か大きな衝撃波ではないかとさえ感じた。10年前の9.11事件で高層ビルに旅客機が飛び込む様さえ脳裏に浮かんだのだ。しかし、大きな横揺れのうねりが数分以上続く中で、まぎれもなく大地震だと確信できた。この時、2日前の三陸沖の地震を思い出し、ああ、今度は新潟に近い日本海側での大地震であり、それゆえにこれほどの揺れになるのだなと推測したものだ。
 それにしても県庁14階の高さでの揺れというのは凄いもので、仕事机の引出しが軒並み飛び出してきて、バランスを失った机が足元に倒れ掛りそうになるのを大揺れの中でなんとか持ちこたえたり、ゼロックス機器などは所定の一から数メートルも動き、書棚の一部も横転するなど執務室内は一気に乱雑な状況になった。
 随分長く揺れを感じた数分余りの後、テレビの速報で太平洋側の三陸沖と知り、遥か離れた新潟でさえこの揺れなのだから、宮城や福島、岩手はとんでもないことになっているのではと背筋を寒くした。震度7という新潟中越地震と同程度の揺れというのを後から知ることになるが、全く異なるのは沖合の地震ということによる津波の発生だ。テレビでは太平洋上空にスクランブルしたヘリからの空撮で一筋の白い波の線が陸地に向けてなんの躊躇もなく進んでくる映像を流していた。なんという残酷さであろうか。到達すれば甚大な被害と多数の死者が出ることが避けられないことが明らかな巨大津波が押し寄せる様を、全国民が為すすべもなく見ているしかできないというのだ。ここまで自然災害の前での人の無力さをリアルタイムで思い知らされた経験はなかった。

(「病院局総務課13「H23.3.11東日本大震災(その1)」編」終わり。「病院局総務課14「H23.3.11東日本大震災(その2)」編」に続きます。)
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