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定点観察;
60を過ぎてニュージーランド・オークランドに語学留学した。
貧弱な会話力で、よく時々の外国での仕事を済ましてきたものと、その蛮勇は自嘲ものだ。
遠く中学時代から英語を習っているではないか、単語は十分じゃないか、ああ情けない。
このたどたどしさを少しはスムーズにしたい。
歳をくっていてもそれが動機だった。
6ヶ月間の学生である。やはり僕の年代は多くない。
100人の中に数名という割合だ。でも気にならない。
私は巧まず順応力が高いのである。
気楽風のおっちゃんなので、若い人たちも違和感なく近しく、いろいろ誘ってくれる。
イタリア人、フランス人、韓国人、カナダ人、ドイツ人、みな条件が同じなので壁がない。
当初はお上りさんよろしくで、あちこちの通りやカフェを回った。
よく歩いた。
朝7時にはカフェが開いている。朝食はいつもカフェである。
キョロキョロ歩きが2ヶ月ほど過ぎた頃から、
ある広めのカフェばかり行くようになった。
いつも同じ注文をするので顔も覚えられた。
このカフェの朝は混む。
いつも壁側の中程の席で、出入り知る客の動きを観察することが面白くなっていた。
出勤前の人たちの様子が見て取れる。
顔に見覚えのある常連客が何人も何組もいた。
それぞれのパターンも変わらない。
いつも珈琲をテイクアウトして職場に向かう人、
必ず書類に眼を通す人、いつも座り方が同じカップル、いつも誰かと声高に話す人、
今朝は機嫌が悪そうな人、服装や持ち物、店員との間の取り方、
どれも普段の表情が見えて興味深い。
移動の多い旅行にはない定点の面白さである。
旅先で日本語を良くするフラン人に、フランス人は外国人に冷たいと言ったら、
彼女はフランス人はフランス人にも冷たいのよと言った。
僕は目からウロコ・・の合点がいった。彼らは他者に幻想を抱かないのだと思う。
フランス人への印象に限らず、私たちは異国人の親切を暗に期待しすぎている。
「人は親切‥」は当然のことではない。
余所者が疎まれ、警戒される事は自然であって本態的な反応なのだ。
それが第一義だ。
日本人は親切だと言われ慣れていることの奢りか、訝しがる感覚が鈍化してないか。
どうも表面的な印象に幻想を持ちすぎて、誤認してしまうことが多そうだ。
人の柔らかさとか親切とは一体何だろう。
バングラディッシュで案内の現地人と2泊の遠出をした。
食事は町や村の食堂、トイレは見つかればどこでも入った。
広い食堂も時間によって満席に近い、一人スプーンで食べるのも目立つので、
手で挑戦するのだがいつも上手くいかない、彼らの見事な指使いには適わない。
当たり前なのだろうが、器は見事に拭われている。
食事後、彼らは使った指先をちょこっと洗うだけで済み、
僕は両手を洗うことになる。
村のトイレでは、目の前に空き缶がぶら下がっていて、大きめの缶に水がある。
紙を使うにしてもそれを捨てるところがない。
現地流にやりたいという好奇心もある。
だが、やはり水を上手く尻穴に運べない、的を外して広めに濡れてしまう。
汚れた自分のお尻に指が触れる事への抗いが邪魔になる。
このままだと缶の水がなくなってしまうゾと心配したりする。
しかし、このご当地流の尻洗いは、紙で拭うよりよほど理に適っている。
近頃は簡易なお尻シャワーの出現があって助かる。
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