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民主社会や自由社会を尊重し、目指す国々は、
独裁者や強権政治を唾棄すべき政治体制として嫌悪している。
だが反して、大戦後の70年の世界各地の様相は、
それが世界各地が臨む共通項ではないのかもしれないと思えてならない。
むしろ独裁的な体制を望んでいる社会が多くあるのではないのかと。
その国の政治文化の歴史から脱皮できずに、
むしろ強権社会を許容する市民意識が潜在している、もしくはそんなものという諦観か。
でなければ、社会の規律性を急速に求めすぎる過程で、手軽に強権が出現する。
確かに民主的な政治運営は強権政治より、手間も時間もかかる。
そこに社会形成の価値の蓄積があるのだが・・、
一部の支配層は、それを丁寧すぎる社会運営として嫌っている。
だから、状況優位にある者たちが、社会の前面に出て強行策を取り始める。
彼らは更に強い立場を堅持せんとして、独善的な支配体制を日毎に強化し、
国民は徹底して管理され、何事も強要され、或いは排除される。
どの強権体制も絵に描いたように同じである。
しかもこうした体制はなかなか解体しない。
選挙制度が存在していてもコントロールされ、
むしろ芝居がかった補強剤に貶められている。
地盤を固めた独裁的な強権者は、程なくして時代錯誤な妄想を広言し始める。
敵でもないものを敵として暗示し始める。常套手段である。
支配者の個人的野望や誤謬が、そのままその国の目的に化けていく。
報道や表現の自由を封鎖された国民の大半は、彼の目的に誘導されていく。
大規模な殺戮さえ、巧みな口実に乗せられて、彼の功績に変じる。
大規模な集団催眠の姿だ。歴史はそれを何度も経験している。
社会構築の姿は、
未来にかけても民主的な仕上げの段階には至ることがないのだろうか。
大戦後80年ほどの国際政治の時間を経ても、国家間の体制対立は少しも減らない。
強権な政治体制を生む舞台が世界の至るところにあって、
暴政を好む強権者が容易く出現している。そして、そこに殺戮がついてまわる。
ウクライナ侵攻のロシアをみて、
国家というものが露骨な侵略者に容易に変身するものだと、嫌でも思い起こさせられた。
剥き出しの独占欲で口実見つけては、それをやはり正義に見立てている。
中国をみて、一党独裁はやはり徹底した人権抑制に至るものだと、認識を強くする。
漢族ならずば国民にあらずとばかりの中国の状況は極めて非情である。
長い期間の徹底した言論統制に国民も同化してしまい、支配層の運営を楽にしている。
強権国家は、別の強権国家を仲間として、開かれた世界に挑みかかる。
他者を頑なに受け入れない偏狭な宗教集団と違いがない。
世界のものさしは、強いか弱いか、それだけなのか。
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