世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

ダレている

2022-04-09 | 従いていけるか

📌

1960年代のはじめ、デモによる社会活動が頻繁にあった。

なかでも学生のデモが一番激しかった。

私はいわゆるノンポリ学生であったが、何度かデモ隊の中にいた。

日本社会の隅々まで、社会成熟の途中経過の真っ只中にあるという空気だった。

学生たちは希望が大きい分、不条理に敏感だった。

大戦の残像を踏まえて、政治動向や権力の怖さにデモの強さで反応した。

いま思えば”革命”を叫びながら、その理念と現実の違いは未知であったし、

幻想であることも気づけなかった。

だがアジテーションに呼応するエネルギーは十分にあった。

なにか動くことが義務と思えた。

 

振り返って、あのころ訴えた事柄で実を結んだものはない。

激高した運動はやがて変容して、偏狭で過激な一団を産み落として終息した。

あれから何十年経って、日本社会は先進国、経済大国と見られるようになった。

人々の関心事も社会の様相も、連帯感がうすれるほど多様になった。

 

そして今、かつての成功体験が色あせて、経済もすっかり停滞している。

次のステップが何なのか、誰にも見えていない状況なんだと思う。

鋭い人もそうでない人も、皆がダレている状態に思える。

 

日本社会はどれをとってもtoo little too late でしか進んでいない、と思ってしまう。

他国の先見の後追いがお家芸になっていて、日本からの発信を世界に期待されてない。

日本の共同社会の原型は村社会である。内にあっても外にあっても、

周りの動きを見定めて、恐る恐る腰を上げる習性から抜け出せない。

悪い習性とばかりは言えないが、発信力は極めて劣ることになってしまう。

 

IT技術が世界の情勢を猛スピードで変革している。

自分に対してさえ発信できてないほど、私も鈍感になっているのではないか。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 集団の残酷 | トップ | 野望と侵略 »

コメントを投稿