世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

人は消える

2017-07-13 | 蒙昧にたどり着く

📌

無名の死

私たちは、記録された歴史として人間世界の過去を幾らか知っている。

だが、記録されていない過去はその何千倍もあるだろう。

侵略史には惨憺たるものがある。

害虫のごとくに駆逐されてしまった民族もある。

 

一人一人の絶叫も、大雑把な数字の束として、

数行の記述で歴史に残るだけである。

いつの時代も自分たちの軌跡の全てを知ることができない。

記録に記された主役たちが歴史上の人物として、

記憶されるだけである。

 

📌

自らの独善を宣って、人を殺して殺して、自分は天寿を全うする者もいる。

書店に並んだ歴史書にどう記述されようが、

どんな社会観を提示されようと、

どの歴史も殺戮のあとに塗り替えらている。

 

📌

時間のかなたで、無数の人々が生き、朽ちた経過を知る方法はない。

笑いも悲嘆も楽しさも、不安や苦悩を、

ましてや無残な惨劇に遭った無辜の人々の

悔しさも知ることがない。生きて、人は消えるのである。

勇気も恥辱も、善行も卑怯も、清新も汚濁も、賢察も

愚行も渦巻いていたはずだ。

ある時代の文明に属して、ある時間だけ存在する。

その短さも知ってはいる。

 

📌

密林で、海で、砂漠で、見知らぬ果てで、健やかだった生き物が、

まもなく老いて、消えていく。

何億年経っても消えた個体が蘇ることはない。

等しくたった1度きりの生命だ。

新たに別の個体が遺伝子を受け継ぐ。

生物としての使命は際限なく繰り返されて行く。

ここでも、見果てぬところでも。

 

📌

動物は敵を怖れているが、

死を怖れてもいないし、知ってもいないだろう。

人だけが死 を語る。

死は、自分で見届けられない唯一の自分自身である。

朽ちた自分の身体を自分で始末できない。

萎れたおチンコを見られても怒ることができない。

できるものなら、死んだ自分の体を自分で洗って、

土の中に始末して自分を終わりたい。

 

📌

誰であれ、自分の死に様を観察できない。

わずかな灰となってしまった自分を知ることがない。

自分という肉体が地球上から完全に抹消されることが、

理解出来ない。

まだ生きている人たちの記憶にしばらくの間、

物語として残るだけである。

他人の死は、伝記、物語として思いを巡らすにとどまる

そう、自分以外の死は、感傷や、観察の対象になる

 


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