Attached to Nothing, Connected to Everything.
何にも執着せず、すべてとつながる。
先日のZOOMでNozomiさんから聞いた言葉だ。
何にも執着せず、すべてとつながるというのは、考えようによっては二律背反に聞こえる。 何にも執着しないのなら、孤高となり、すべてとつながらなんじゃないか。
すべてとつながっているということは、全てに執着しているということになりはしないか?
しかしこの言葉によって、私の中で今までモヤモヤしていた何ものかが、すっきりし始めた。
○ 執着しないということ Attached to Nothing
非二元や仏教や奇跡講座は、すべてこの世は幻想、夢であるというところで一致している。 奇跡講座の言い方をすれば、この世は我々の誤創造だという。 ヒンドゥー教では、この世に再び輪廻転生しないように祈る。
その概念が背景になって無執着という言葉が生まれた 。 この世に執着しない、または この世のあらゆるものに巻き込まれないようにと教えられる 。
我々が瞑想をするのも、我々がこの世のあらゆるものに巻き込まれないために行うものだ 。 でもそれって、この世に執着しないということは、この世を楽しんではならない、エンジョイしてはならないということなの? この世に執着しないということは、何かにアツくなっちゃいけないってことなの? フルコミットしない、希薄な人生にならないの?
ところが 実際、この世の中は あまりにも美しい。 あまりにも楽しい。 あまりにも感動的だ 。 食べ物だっておいしいではないか。 どうして柿はあんなにおいしいの? 自分の子供においしいものを食べさせてやりたいでしょうが。 子供がそれを食べた時の幸せな顔は忘れられないでしょう? 素敵な音楽を聴いたら、心がウキウキするでしょう。
素晴らしい絵画を見たら感動するでしょ。 今、札幌の雪山に指す太陽の光はなんと美しいことか。 凍えるような外から、家に入ってあったかいストーブに手をかざすことの快感! この世に執着していけないというのなら、我々の生活のほとんどがつまらなくなってしまう。
これに対して、奇跡講座のワプニック先生は明快な回答を与えてくれる。
JACIM ケネス・ワプニック博士の「象徴としての美」
https://www.youtube.com/watch?v=QGQv6QZj59Y
まず、このコースは「世界は幻想である」と、はっきりと述べています。 さらに、人々や物事や物質との間での私たちの特別な関係はすべて私たちが、神の愛でない何かに依存することを必要としているということの一側面だということも、明確にされています。 そうした特別な関係はすべて、その対象が何であれ、私たちが世界の中の物事に対して抱いている愛着です。 それらは常に、私たちを分離の夢の中に根付かせるものです。 それらは、「幸せな夢」ではありません。 つまり、私たちをいつか夢から完全に抜け出させることになる「幸せな赦しの夢」ではありません。
それは、こういうことです:
外には何も存在していないと理解するなら、そして、すべてが、内的状況の投影なのだと理解するなら、つまり、『奇跡講座』が、すべては「内的状況の外的映像」だと述べている通り、外側には何も存在していないというのなら、外に存在していると私たちが思っているどんなものも、心が下した決断を象徴するものということになります。 「罪ある神の子でいるか」、それとも、「無罪の神の子でいるか」という決断です。 「自分の教師や友」として、自我を選ぶか、イエスまたは聖霊を選ぶかという決断です。
そして、この世界のあらゆるものが、その決断の反映となります。 ですから、人が素晴らしい大自然の中で何らかの美しい体験をするなら、『奇跡講座』の中には、それを楽しんではいけないとか、感動したり感銘を受けたりしてはいけないなどといった文言は一つもありませんが、ただし、あなたが認識すべきことがあります。 それが、先ほど述べた通り、両方の良いところを享受することを可能にするものなのですが、それは、「自分が外側に経験しているものは、自分の心の中に存在する内的状況の投影または延長である」と認識することです。
換言すれば、もし私が美しい芸術作品を見たり、素晴らしい音楽作品を聞いたり、大自然の美しさに触れたりして、感動するとき 、·それが反映しているのは、私が「正しい心」の観点から美しさを選択しているということだと、認識するということです。
私の「正しい心」の観点からの選択により、私の中で、「神の愛を引き出して表層に浮上させる何か」を選択している、ということです。 それは、イエスを私の教師として選択したことの美しさであり、彼の愛を経験することの美しさです。
それこそが、まさに美しいのです。 けれども、私は自分が肉体だと思っていますから、私の心はその美しさを受けとめ、それを外に延長させ、そうして私は自分の周りに美しさを見ることになります。 そして私は、「外側にあるかに見える何かによって、自分が感動する」ということが起こるようにしているわけです。 もし、私がそのようにしないなら、そのとき常に起こることは、私は外界の何かに依存するようになるということです。
もし今日、自分の好きな音楽を聴けなかったら、どうなるでしよう?もし、山歩きや、美しい森林の散策という素敵な一日を計画していたのに、雨が降ったら、どうなるでしよう?あるいは、ひどい嵐がやってきて、外にでられなかったら、どうなるでしよう?もし、内側にあるこの素晴らしく美しい感覚を得るために、外側の何かに依存することを自分に容認するなら、困ったことになります。
なぜなら、それは単に、特別な関係をもうーつ作り出すという結果になるだけだからです。 けれども、もし、外側の自然の美しさや芸術的な美しさを、内側にある美しさを思い出すために使って、そして、その美しさと一体感を抱くなら、私は、その美しさを、バラ園の中を歩いていようと、雑草畑の中を歩いていようと、感じることができます。 その日の天気によって、外に出て自然の中で素晴らしい一日をを楽しむことになろうと、家の中で一日を過ごすことになろうと、私は依然として、その美の感覚を内側に感じていることになります。 そういう意味では、私たちはこの世界の美しさを必要としています。 (ただし、私たちが「この世界の美」と判断するもの、という意味です。
言うまでもなく、その「美しさ」というのは完全に相対的なものです。(あなたにとって美しいものが、私にとっても美しいとは限りません。 私を芸術的に感動させるものが、あなたを感動させることはないかもしれません。)
しかし、私たち全員において同じものは、あの内的な美しさです。 そして、何であれ、その内的な美しさを象徴するもの、それが大切なものなのです。 私はその象徴を、内的な美しさを思い出すためのよすがとして用います。
そして、私が、この世界をその美しさを思い出すために使い、その美しさと同一化することができるなら、世界全体が美しいものとなります。 それは私の肉眼が認識するような美しさではありませんが、胸を弾ませ、歓びをもたらすような美しさです。
繰り返しますが、これは、この世界の中に自分を幸せにしたり感動させたりするものを見出してはいけないと言っているのではありません。 そうではなく、それを、真のインスピレーション、幸福の真の源、内なる真の美しさへと戻っていく方法として使うべきだということなのです。
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願わくは花の下にて春死なん
その如月の望月のころ …西行法師
桜と月を徹底的に愛した西行法師は、結局、桜と月に執着していたのではなく、桜と月を象徴として、西行法師の心の中にある幸福の源、内的な真の美しさへと戻っていく=死ぬ ということを意味していたのかもしれない。
そうすると、「執着しない」ということがどういうことかがわかってくる。 般若心経で唱えるところの、この世のカタチ、音、香り、味、そして受想行識、つまり苦楽の感覚、イメージ、意思、認識するもの、目に見えている世界から意識する感覚にいたるまで、それらの全てに執着しないというのは、幸福の源、内的な真の美しさ、神はそこに実体はなく、我々の心の中にあるからだ。
○ すべてにつながるということ Connected to Everything
それでは「すべてにつながる」ということはどうだろう。
奇跡講座には、「幸せな夢」Text-18-5-1という表現が出てくる。 これはどういうことだろう? ずっと、そう考えていた 。 その答えのヒントがこの言葉、「すべてにつながる」に隠されていると直感した。
私は この「すべてとつながる」という言葉を聞いたとき、道元の「一切衆生悉有仏性」という言葉を思い出した 。 この一切衆生悉有仏性という言葉は本来、仏教では、すべての生き物に仏性がある 、つまりすべての生き物が仏になる可能性がある、またはその種を宿しているという意味として使われていた 。
しかし道元は これを大胆に解釈しなおす。
「一切が衆生なり、悉有が仏性なり」
衆生が悉有(全宇宙・全存在)であり、その全宇宙こそ「仏性」である。
私たちは仏性の中で呼吸し、仏性の中で生活していることになる。 それは、仏こそ万物を生かしている命であり、山川草木全てがそのまま仏の命のあらわれであるということになる。 山川草木全てがそのまま仏の命のあらわれであるならば、我々はこの世界を賛美せずにいられようか。 これは仏性である全宇宙の中に我々がその一部として存在するという意味ではなく、空海が即身成仏と言ったように、我々がそのまま仏なのだということを意味している。
これはアッシジの聖フランシスコが、「ブラザーサン、シスタームーン」と言ったことにもつながる。 彼にとって、小鳥も犬も牛も兄弟であった。 ラマナ・マハルシは一頭の牛をとても大切にした。
この考えは 道元だけのものではない 。 空海も 同じようなことを言っている 。 空海にとっても曼荼羅が示すとおり、この世界はすべて大日如来の手の中にある。 それは胎蔵曼荼羅の最下院と呼ばれているところに描かれているように、地獄の亡者、死体をかじっている餓鬼の姿も例外ではない。 仏陀は仏陀だと分からない形で人々を教え導いているという。 全ては大日如来の化身である。
そして空海は秘密曼荼羅十住心論の第九段階として、「すべてはひとつにまとまり、ひとつの中にすべてが生かされており、 すべての存在に価値と意味があるという大肯定の段階、「一即全・全即一・全一」の世界観を提示する。
全体は組み合わさり、刻々と変化している。 ここに固定的な自性、エゴは実在できない。 この極無自性心という境地こそが、「すべてとつながる、Connected to Everything」ことなのだろう。
仏教においても、奇跡講座においても、この世は夢であり幻想であることは変わりがない。 しかし空海においては極無自性心の境地になることにより、道元においては一切衆生悉有仏性を知ることにより、この世界が転換される。 色即是空、空即是色となる。
奇跡講座で言えば、これが「幸せな夢」にあたる。
なぜ「幸せな夢」がすべての存在に価値と意味があるという大肯定につながるのか?
それは下記の文章に書かれてある。
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実相世界も、依然として一つの夢に過ぎません。 ただし、登場する人影たちは変わっています。 それらは、裏切りをするような偶像とは見なされていません。 その夢の中では、誰も他の何かの代わりに使われることはなく、心が抱く想念と心が見るものと間に挿入されることもありません。 誰であれ、自分ではない何らかのものとして用いられることはありません。 子供じみたものは全て片づけているからです。 そして、かつては裁きの夢だったものが、今や全てが喜びである夢に変化しました。 それがその夢の持っている目的だからです。 時間はほどんど終わっているので、夢の中に入ってくる形態は、今や裁きではなく愛の中で兄弟として知覚されます。 …Text-chapter-29-9-7
あなたの夢の代わりに神が与えてくれた夢を受け入れなさい。 夢を見ている者がひとたび認識されたなら、夢を変化させるのは難しいことではありません。
聖霊の中で休息し、あなたが死を恐れながら見ていた夢を、聖霊の優しい夢と取り替えてもらいなさい。 聖霊は赦しの夢を運んできます。 その夢の中では、選択するべきものは、誰が殺人者で誰が犠牲者かといったことではありません。 その夢の中には、殺害者も死も存在しません。 あなたの目はまだ閉じられたままとはいえ、罪悪の夢はあなたの視界から次第に消えていきます。 微笑みが訪れてあなたの寝顔を明るくします。 それらは幸福な夢なので、今や眠りは安らかです。 …Text-chapter-27-7-14
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私にとっての上記の文章は、(この世が夢でありながら、)「あなたが死を恐れながら見ていた夢を、聖霊の優しい夢と取り替えてもらいなさい。 」とあるように、夢の変換が行われたということを意味している。 この時、この世を厭うのではなく、世捨て人になるのでもなく、自分だけが悟りを得て、救われ、至福を得るのでもなく、すべての(この世のもの)とつながって、幸せな夢を見るということなのだ。
この変換が、 Attached to Nothing, Connected to Everything. 「何にも執着しない」から、「すべてとつながる。 」の意味だと思う。 なぜすべてとつながることができるのか? それはすべての存在は「内的状況の外的映像」であるからだ。
この時、色即是空が空即是色に変換される。 この世の現象のすべてに実体がない(夢である)ことを明らかにしながら、それが変換され、すべての存在に価値と意味があるという大肯定につながっていく。
これは十牛図で言えば、九、返本還源(へんぽんげんげん)、さらに十、入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)にあたる。
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