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否定と超越 ケネス・ワプニック Ph.D.

2025-02-14 11:03:22 | 奇跡講座

否定と超越 ケネス・ワプニック Ph.D.

Denial versus Detachment
Youtube

https://www.youtube.com/watch?v=olbRz5vry70&t=3s

 

今朝は、非常に重要なテーマ、そしてある意味では『奇跡講座』の学習者が実践や自身の経験に関して抱く多くの疑問の中核にあるテーマについてお話します。

それは、エゴを否定しているのか、それとも、エゴから 超越(detached)しているのかをどう見分けるか、ということです。

私たちは皆、エゴが聖霊の声によく似ていることを知っています。人々は内なる声を聞き、「イエス様や聖霊からの声だ」と思うのですが、結局はより批判的になり、ますます Sonship (神の子意識) から離れてしまうのです。

講座では何度も、エゴは幻想であり、何も起こらなかった、と言われています。そのため、人々は自分の体、痛み、他者の苦しみ、世界の状況など、ネガティブなことにネガティブな反応を示すことがよくあり、「まあ、すべて幻想だから」と言って、平然と自分の用事を済ませてしまうのです。

これは往々にして、否定のように感じられます。なぜなら、彼らは講座がしないようにと教えていること、特に『祈りの歌』で語られていることをしていないからです。それは「誤りを現実にしない」ことです。恐ろしいものを見たときに、すぐに『奇跡講座』の紋切り型の言葉で覆い隠し、たいていはワークブックから何かを引用して「これは幻想だから、気にしなくてもいい」と言うのです。

極端な場合、これは人間関係において非常に痛ましいことになります。誰かが肉体的に苦しんでいるのに、「何に動揺しているの?これはすべて幻想だよ」と言って、非常に無神経で冷淡になり、冒頭で述べたように、非常に分離的になってしまうのです。

イエスはエゴは幻想だと言うだけでなく、それを見なければならないとも言っています。そして、彼と一緒にそれを見ることによってのみ、エゴは消え去るのです。それが、非常に重要で微妙な線引きなのです。 私は学習者がエゴの幻想的な性質だけに焦点を当てて、イエスがそれを見なければならないと言っている講座の部分に焦点を当てていないように思います。

私がよく引用するワークブックの赦しに関する一節に、「赦しは、静かに何もしない。ただ見て、待ち、判断しない」とあります。「見て、判断しない(裁かない)」のです。おそらく、最も明確で直接的な説明は、第11章のエゴの力学セクションの冒頭にあります。イエスはそこで文字通り、彼と一緒にエゴを見なければならないと言っています。

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「赦しは静かに、何もせず、ただ見つめ、待ち、判断しない。(裁かない)」

"Forgiveness is still and quietly does nothing. 
It merely looks, and waits, and judges not." 

W.Ⅱ.1.4-5
一方赦しはじっと静かにしていて何もしない。 実相のどの側面も害することはせず、自らが好む外観へと捻じ曲げようともしない。ただ見て待つのみであり判断はしない。 赦そうとしないものは価値判断をせずにはいられない。 赦すことができずにいる自分を正当化してしまうからである。 しかし自分自身を赦そうとするものは必ずありのままの真理を歓迎することを学ぶことになる。 
だからあなたは何もせずにいなさい。そして何をなすべきかは聖霊による赦しを通して教えてもらいなさい。 聖霊はあなたの導き手、救済者、保護者であり、強い希望を抱き、あなたが最後には成功を収めると確信している。 聖霊はすでにあなたを赦している。それが神から聖霊に与えられた機能だからである。 今度はあなたが聖霊の働きを共有し、聖霊が救ったものを赦さなければならない。 聖霊は彼の無罪性を見ており、神の子である彼を讃えている。 

T.11.Ⅴ.1
幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。 見ないでいることにより幻想が保護されているからである。 幻想が危険なはずはないのだから、幻想から尻込みする必要はない。 私たち2人は自我の思考体系をもっと詳しく見る準備ができている。 なぜなら、私達がともにいれば、それを一掃できるランプがあるからである。 そしてあなた自身も自分はそれを望まないと気づいているので準備ができているはずである。 これを行うにあたり、私たちは極めて冷静でいよう。 私たちはただ正直に真理を探しているだけだからである。 これらしばらくの間、自我の「力動論」が私達が学ぶレッスンとなる。 というのもあなた自身がそれを実在のものとしたので、その向こうが見えるようになるためにはまず最初にそれを見なければならないからである。 私たちは一緒にこの誤りを静かに取り消し、その後それを越えたところに真理を見ることになる。 
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彼は「一緒に、エゴを一掃するランプを持とう」と言い、これをしなければならないと言っています。実際、これは、なぜエゴが幻想であるにもかかわらず、講座でエゴについて多くの時間を費やしているのかに対する、彼の弁明のように見えます。そして、第1段落の最後は、その説明になっています。彼は基本的に、これは幻想であっても、最初にそれを見なければならない、なぜならあなたがそれを現実にしているからであり、見て、初めて、その先を見ることができる、と言っているのです。

ですから、イエスと一緒にエゴを見ることが非常に重要なのですが、それはただエゴを見て、「ああ、これはひどい、これが私のエゴだ」と言うのではなく、なぜそれを選んだのかを理解するということです。結局のところ、エゴは常に決断なのです。エゴの感情、思考、感覚はすべて決断です。怒りは決断です。空腹は決断です。

死ぬことも決断です。生まれることも決断です。憂鬱になること、不安になること、混乱することもすべて決断です。そして講座で繰り返し説明されているように、これらは目的を持っています。私は怒り、憂鬱、不安、病気になることを選びます。これらすべてを、エゴを選んだ私の心から気をそらすために選ぶのです。なぜなら、エゴを選んだ私の心、いわゆる意思決定者と再びつながると、私はエゴに反対するからです。

そして、もし私がエゴに反対するなら、私は消えてしまうでしょう。ですから、私たち個人の自己を維持するために、私たちはエゴを選んだことを忘れます。そして、私自身や他の人々、あるいは世界全体でエゴ的なことを経験している人として、「これはすべて幻想だ、気にすることはない」と安易に言うのです。「なぜニュースを見る必要があるの? ニュースで恐ろしいことや暴力、拷問を見ると、心が汚される」と言うのですが、自分がそれを現実にしていることに気づいていません。

そして、あなたはそれを閉ざしてしまいます。その時点で、あなたは自分の心にアクセスして再び選択することができなくなります。ですから、イエスがこの講座で私たちに懇願しているのは、彼と一緒にエゴを見ることです。そして、彼と一緒にそれを見るとき、彼は私たちがエゴを選んだこと、なぜエゴを選んだのか、そして最も重要なことに、私たちの選択の代償、つまり影響を理解するのを助けてくれます。

そして、私たちがエゴを選ぶことの影響は、常に何らかの形で苦痛、心理的または肉体的な苦痛の表れとなります。ですから彼は、私たちがどれほど惨めであるかを知ってほしいのです。第14章の「幸福な学習者*」のセクションで彼が述べているように、聖霊は私たちがどれほど惨めであるかを知る必要があるのです。

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*訳注:T.14.Ⅱ.1:1-3
聖霊は幸せな学習者を必要としている。 聖霊の使命は幸せな学習者の中で幸せに達成される。 ひたすら不幸に献身しているあなたはまず最初に自分が惨めであり、幸せではないと認識しなければならない。聖霊はこの対称性なくしては教えることができない。 というのもあなたは不幸こそが幸福だと信じているからである。 
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さもなければ、私たちは彼の喜びを選ぶ動機を持たないでしょう。ですから、エゴを見るということは、エゴを見て、それをイエスを先生として選んだときに得られる平和と対比させるということです。ですから、真の 超越(detachment) は、イエスと一緒にエゴを見て、なぜそれを選んだのかを理解し、「これは狂っている、もうこんなことはしたくない」と言うときに起こります。

私は葛藤の代わりに平和を選びたい。私は恐怖の代わりに愛を選びたい。私は憎しみの代わりに赦しを選びたい。ですから、判断することなく見ることが、私たちを真に超越( detached)させるのです。恐ろしくて二度と見たくない、と言う否定に入るのではなく。

どうか、イエス様、聖霊様、これを私から取り去ってください。それは、物事を彼や聖霊に委ねるという意味での間違った考え方です。物事を委ねるという意味での正しい考え方とは、赦しの灯火、エゴに光を当てる赦しのランプでそれを見て、「もうこれを選ぶ必要はない」と言うことです。

その変化、その正しい選択の中に、神の平和が見出されます。そしてそれこそが、私たちに何の影響も与えないと本当に知っている世界からの超越(detachment) なのです。



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