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【滋賀・近江の先人第235回】飛鳥(あすか)時代の渡来系氏族の武人・朴市秦田来津(滋賀県愛荘町)

 朴市秦 田来津(えち の はた の たくつ)(生年不詳ー天智2年(663年))は、飛鳥時代の武将。氏は秦、朴市とも記される。姓は造。大花上・秦河勝の子とする系図がある。冠位は小山下。

出自
 渡来系氏族の秦氏の一族。近江国愛智郡に移り地名を冠して、「朴市秦」(えちはた)と名乗ったと考えられる。

 近江国愛智郡出身の豪族で天智朝における将軍。 百済再興のため渡海するが、白村江の戦いに敗れ戦死する。 [朴市秦氏] 渡来系氏族で秦氏の一族。

延暦年間(782年 - 806年)に依知秦公(えちはたのきみ)と記された木簡が発見されている。上蚊野古墳群(愛知郡秦荘町大字上蚊野)は依智(依知)秦氏の居住が色濃く認められる地にあり、古墳時代後期における渡来系氏族の居住が契機となって本格的な群集墳を造営したものと理解されている。
 滋賀県東浅井郡浅井町にある湯次山誓願寺には、田来津を秦河勝の子とし、その子孫を誓願寺開基了慶以下誓願寺21世了忍まで繋げる系図がある。

朴市秦田来津
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 天智天皇2年8月28日(663年10月5日)
別名 氏:秦、朴市
官位 小山下
主君 斉明天皇→天智天皇
氏族 朴市秦造
父母 父:秦河勝
兄弟 秦綱手、秦石勝、田来津、秦物主

経歴
大化元年(645年)古人大兄皇子を擁立し、蘇我田口川堀・物部朴井椎子・吉備笠垂・倭漢文麻呂と謀反を企てた。
後に許されたらしく、斉明天皇7年(661年)9月には大山下・狭井檳榔と共に兵士5000人を率いて、百済の王子・扶余豊璋を百済に衛送している(この時の冠位は小山下)。

翌天智天皇元年(662年)12月に豊璋と臣下の扶余福信は食糧事情を理由に州柔から避城への遷都を主張する。田来津は守りやすく攻めにくい州柔から平地で敵に近い避城への遷都を反対するが、結局遷都は断行された。
ところが、遷都間もない天智天皇2年(663年)2月に新羅人が百済南部の4郡を焼き討ちして徳安などの要地を奪取したため、田来津が懸念していた通り、新羅勢力から近過ぎる避城から州柔へ還都することになり、遷都は費用と労力の浪費と内部対立を残したものとなった。

天智天皇2年(663年)年3月に唐軍の侵攻から百済を救済するため、大和朝廷は前軍将軍・上毛野稚子以下27,000人の兵士を朝鮮半島に派遣したが、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いで唐の水軍に敗れ、百済救済は無に帰した。

朴市秦田来津は、斉明天皇7年百済(くだら)(朝鮮)の王子豊璋(ほうしょう)に従い、百済再興のため兵5000人を率いて渡海。将軍鬼室福信(きしつ-ふくしん)との対立もあって新羅に攻め込まれる。天智天皇2年8月28日白村江(はくそんこう)の戦いで戦死した。


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