喜多 誠一(きた せいいち、1886年(明治19年) - 1947年(昭和22年)は、明治-昭和時代前期の陸軍軍人。陸士19期・陸大31期。最終階級は陸軍大将、栄典は正三位勲一等功四級。滋賀県出身。
滋賀県は歴代4人の大将を輩出している。喜多は支那通の現場型の軍人として従軍していた。
中村 覚(なかむら さとる): 安政元年(1854年) -大正14年(1925年)。陸軍大将。
三須 宗太郎(みす そうたろう): 安政2年(1855年) - 大正10年(1921年)。海軍大将。
磯村 年(いそむら とし): 明治5年(1872年) - 昭和36年(1961年)。陸軍大将。
喜多 誠一(きた せいいち): 明治19年(1886年) - 昭和22年(1947年)。陸軍大将。
***************************
喜多誠一は、滋賀県人、喜多三郎の長男として生まれる。
滋賀二中(現・滋賀県立膳所高等学校)を経て、
1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、
1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。
1920年(大正9年)2月、歩兵第68連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、歩兵第19連隊大隊長などを歴任。
1925年(大正14年)5月、参謀本部員に就任し、陸軍省軍務局課員、支那駐在、欧州出張、参謀本部員、参謀本部付(南京駐在)などを経て、
1931年(昭和6年)8月8日、歩兵大佐に進級し歩兵第37連隊長に就任。
1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍情報参謀となり、参謀本部付(支那出張)、関東軍参謀(第2課長)、参謀本部支那課長などを歴任し、
1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級して支那公使館付武官となった。
1937年(昭和12年)8月、天津特務機関長に就任。中国通として第二次上海事変発生時に、蒋介石総統と事件拡大回避の交渉をするも物別れとなる。その後、北支那方面軍特務部長として、中華民国臨時政府の最高顧問として政権を指導した。
1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に進級し興亜院華北連絡部長官となる。
1940年(昭和15年)3月、第14師団長に親補され、第6軍司令官、第12軍司令官などを経て、
1944年(昭和19年)9月、満州国敦化に司令部を置く第1方面軍司令官に就任。
1945年3月、陸軍大将に親任され、終戦を迎えた。
戦後はシベリアに抑留され、1947年にハバロフスク近郊のホール野戦病院にて没。享年62歳。
<Wikipedia引用>