「さあ、今日こそ喋ってもらうわよ!どこに行ってたの?2時間半も戻ってこないでどこで何をしてたか、正直に答えなさい!!」Mさんが目を吊り上げて私を詰問する。周囲には、他の看護師さん達も集まっている。「非常階段でトレーニングしてました」私がおずおずと言うと「そういうのを無駄な努力って言うの!まったく体力が少しでも戻るとロクな事を考えなくなるものだけど、まだ貴方は立派な病人です!大人しくベッドかここのソファーで読書でもしてなさい!!」他の看護師さん達も「無理はダメ!」「焦らなくても大丈夫、病棟に居る限りは安静第一!!」そう言って私を諫める。そこへMさんが止めの一言「明日からは、しばらく病棟からの外出には保護者を付ける!首に縄でも付けとかなきゃ安心できませんから」あー、しばらく監視されるのかー・・・。私はうなだれるしかなかった。
「焦りは、常に、悪い結果しか生まない」
当時の私には、この言葉の意味が理解できていなかった。まだまだ先は長く「体力回復」のための運動など「もっての外」だと言うのに、私は焦ってしまったのだ。急性期を脱出しようやく「水面」に顔が出せた中間期。点滴ラインも外され、導尿の管も抜かれ、自分の足で自由に病院内を闊歩出来る状態にまで回復はした。本来であれば「ここでもう一度深呼吸して体を休ませるべき」なのだが、私は「退院後にすぐさま復帰」がチラついてしまい、墜ちた体力を維持しようと焦って運動を始めてしまったのだ。非常階段を駆け上がり駆け下る。こうした事が返って「体力を削ぐ」とも知らずに。今回はそれが明るみになり、Mさん始め看護師さん達にお目玉を喰らうハメになった次第。
精神科病棟と言う「場所」は、病棟内で全ての生活が「完結」できるようになっている。病棟外へ行けるのは「オマケ」のようなものだ。事実、私が入院生活を送っていた時代には、病棟内に「喫煙スペース」まであったのだ。今では「受動喫煙防止」の観点から病院内そのものが「禁煙」だが、私が入院生活を送っていた頃は、まだ「規制」も緩く個々人の症状に合わせて喫煙も許されていた時代であった。Mさんとは、時間があれば「話し込む」事が多かった。と言うよりも「Mさんが意図的に話す時間を設けていた」と言った方が正しいかも知れない。とにかく私は「人一倍手の掛かる患者」であったからだ。冒頭のお目玉もそうだが、とにかく「先へ先へ」と気持ちばかりが先走る。故にMさん達看護師さん一連は、何とかして私の暴走を止めようと「話しかけて」いわゆる錨で固定しようとしてくれていたわけである。恐らく「看護師長命令」で「フラフラと出かけない様に捕まえていなさい!」とお達しが出ていたのだろう。朝の検温に関しては特に「念入りに探りを入れる」様に話が長くなった。しかも、病室でやると同室の患者さんに迷惑だからと言う理由で「私だけホールに呼び出されての検温」になった。そうなると手の空いている看護師さんや研修医・病棟医も寄って来るようになり「採血の練習台」にされたこともしばしばあった。
大学病院なので「医学部の学生さん」も実習に病棟に入るし、看護学校の学生さんも実習にやって来る。そうした「実習生」達の「練習台」に指名され続けたのも「安静にさせる」一つの手段であった。一番恥ずかしかったのは「清拭」の練習台にされたときだろうか。8名の看護実習生に囲まれ、Mさん達が清拭の手本を見せた後に、実習生たちが体を拭いてくれるのだが、10名の「女性たち」に入れ替わり立ち代わり拭かれるのだから、こっちも「もう、勘弁して」と言いたくなったものだ。無論、検温や身の回りの世話も実習に組み込まれているから、息つく暇もない。学生さん達の相手にしても、毎週2名、午前と午後に1名づつ「話し相手」を1か月間やった。世間話から病気や入院生活全般、将来に進む診療科についてまで、色々な話をして過ごしたが、これも「釘付け」作戦の一部であった事は言うまでもない。とにかく「あらゆる手段」を病棟側は使って、私に妙な焦りを抱かせない様に「細心の注意」を払ったのである。こうした策は、やがて功を奏し、私を落ち着かせる事になり、一件落着となるのだが、同時に「ある女性患者」との出会いのきっかけともなった。彼女の名前は「まいちゃん」。もう、旅立って10年は経つがいまだに携帯の連絡先は削除していない。「今度、どっかへ行こうよ」と言ってくる様な気がしてならないのだ。彼女の旅立ちは突然で、自らの意思で逝ってしまったのだが、いまだに私の心に焼き付いている彼女の存在は、恐らくこれからも消えることは無いだろう。もし、彼女が生きていたら、家族ぐるみで付き合っていたに違いない。鮮烈な記憶を残した彼女との出会い。それは、いつの日か記すことにしよう。
「焦りは、常に、悪い結果しか生まない」
当時の私には、この言葉の意味が理解できていなかった。まだまだ先は長く「体力回復」のための運動など「もっての外」だと言うのに、私は焦ってしまったのだ。急性期を脱出しようやく「水面」に顔が出せた中間期。点滴ラインも外され、導尿の管も抜かれ、自分の足で自由に病院内を闊歩出来る状態にまで回復はした。本来であれば「ここでもう一度深呼吸して体を休ませるべき」なのだが、私は「退院後にすぐさま復帰」がチラついてしまい、墜ちた体力を維持しようと焦って運動を始めてしまったのだ。非常階段を駆け上がり駆け下る。こうした事が返って「体力を削ぐ」とも知らずに。今回はそれが明るみになり、Mさん始め看護師さん達にお目玉を喰らうハメになった次第。
精神科病棟と言う「場所」は、病棟内で全ての生活が「完結」できるようになっている。病棟外へ行けるのは「オマケ」のようなものだ。事実、私が入院生活を送っていた時代には、病棟内に「喫煙スペース」まであったのだ。今では「受動喫煙防止」の観点から病院内そのものが「禁煙」だが、私が入院生活を送っていた頃は、まだ「規制」も緩く個々人の症状に合わせて喫煙も許されていた時代であった。Mさんとは、時間があれば「話し込む」事が多かった。と言うよりも「Mさんが意図的に話す時間を設けていた」と言った方が正しいかも知れない。とにかく私は「人一倍手の掛かる患者」であったからだ。冒頭のお目玉もそうだが、とにかく「先へ先へ」と気持ちばかりが先走る。故にMさん達看護師さん一連は、何とかして私の暴走を止めようと「話しかけて」いわゆる錨で固定しようとしてくれていたわけである。恐らく「看護師長命令」で「フラフラと出かけない様に捕まえていなさい!」とお達しが出ていたのだろう。朝の検温に関しては特に「念入りに探りを入れる」様に話が長くなった。しかも、病室でやると同室の患者さんに迷惑だからと言う理由で「私だけホールに呼び出されての検温」になった。そうなると手の空いている看護師さんや研修医・病棟医も寄って来るようになり「採血の練習台」にされたこともしばしばあった。
大学病院なので「医学部の学生さん」も実習に病棟に入るし、看護学校の学生さんも実習にやって来る。そうした「実習生」達の「練習台」に指名され続けたのも「安静にさせる」一つの手段であった。一番恥ずかしかったのは「清拭」の練習台にされたときだろうか。8名の看護実習生に囲まれ、Mさん達が清拭の手本を見せた後に、実習生たちが体を拭いてくれるのだが、10名の「女性たち」に入れ替わり立ち代わり拭かれるのだから、こっちも「もう、勘弁して」と言いたくなったものだ。無論、検温や身の回りの世話も実習に組み込まれているから、息つく暇もない。学生さん達の相手にしても、毎週2名、午前と午後に1名づつ「話し相手」を1か月間やった。世間話から病気や入院生活全般、将来に進む診療科についてまで、色々な話をして過ごしたが、これも「釘付け」作戦の一部であった事は言うまでもない。とにかく「あらゆる手段」を病棟側は使って、私に妙な焦りを抱かせない様に「細心の注意」を払ったのである。こうした策は、やがて功を奏し、私を落ち着かせる事になり、一件落着となるのだが、同時に「ある女性患者」との出会いのきっかけともなった。彼女の名前は「まいちゃん」。もう、旅立って10年は経つがいまだに携帯の連絡先は削除していない。「今度、どっかへ行こうよ」と言ってくる様な気がしてならないのだ。彼女の旅立ちは突然で、自らの意思で逝ってしまったのだが、いまだに私の心に焼き付いている彼女の存在は、恐らくこれからも消えることは無いだろう。もし、彼女が生きていたら、家族ぐるみで付き合っていたに違いない。鮮烈な記憶を残した彼女との出会い。それは、いつの日か記すことにしよう。
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