limited express NANKI-1号の独り言

折々の話題や国内外の出来事・自身の過去について、語り綴ります。
たまに、写真も掲載中。本日、天気晴朗ナレドモ波高シ

ミスター DB ㉚

2018年08月16日 12時58分34秒 | 日記
「今日も暑いな・・・」大学病院の正面玄関で、アイスを食べながら空を見上げた。8月の中旬、入道雲があちこちに出ている。そういえば、私が入院生活を送った年も「猛暑」だった。病棟は「完全空調」が効いているので、世間一般が「どれだけ暑いか?」を知る術はこうした「散歩の時間」で確かめるしかない。だが、あまり病棟を留守にすると、Mさんのお小言が待っている。隔絶された世界で「治療」に専念しているのだから、仕方がないと言えばそれまでだが、季節感ぐらいは感じ取りたいと思うのは誰しもそうではないだろうか?さて、そろそろ帰るとしよう。

「オッス!」突然肩を叩かれて振り向くと、つい最近退院したEさんが居た。「どうしました?また出ちゃいました?」と私が聞くと「そうなの。実家に居ても落ち着かなくてさぁ、クスリ飲んでも収まらないから、今日は来ちゃいました。特急使ってね・・・」Eさんは2児のママさんだが、不安神経症と摂食障害で入退院を繰り返している。実家が県庁所在地にあり、お子さん共々「避難生活」を余儀なくされていた。ご主人が居るのは埼玉県の熊谷市。今、帰ったら「灼熱地獄」も加わり絶対に熱中症でダウンするだろう。「点滴は?」と聞くと「とりあえずねー、クスリ出し直してもらって帰ろうかと思ったら、アンタが居たから。まだ、先は長そうだね?お盆は帰った?」と言うので「帰れる訳ないでしょ!缶詰ですよ」と言ってEさんと玄関のベンチへ座った。「世間は暑いから、ダンナも涼しくなるまで帰って来るなって言うけど、アタシがこのザマじゃ帰れっこないしね。何とか落ち着いて、通える病院を探さないとなんにもなりゃしないわ!」Eさんのボヤキが炸裂した。「別の病院へ行っても、また1からやり直しでしょ!いっその事、ダンナを転勤させちゃおうかな?今更、埼玉へ帰るのもヤダし。子供が保育園に入る前にケリをつけたいのよね!」本音も炸裂だー。「当面どうするんですか?」と聞いて見ると「通えるうちは、ここに来るしかないね・・・。私へのまともなケアが出来る所はここしかないし、埼玉から通うなんてのは絶対に無理だから、少しでも良くなっておかないと離婚されそうだし、でもさぁー最悪アンタに引き取ってもらうのも手ではあるね!うん!その手で考えてもみよう!!」勝手に私を「駆け込み寺」にしようとするEさん。まだ何も承知してませんよー。解決してませんよー。1人で先行しないで下さいよー。私にそんな能力を求めないでくださーい。心の中で叫びつつ、私は彼女の置かれた立場の危うさに不安を感じていた。私達患者の約半数は社会復帰が望めるが、袋小路に迷い込んだEさんの様に常に不安を抱えて入退院を繰り返す人も少なくは無いのだ。もどかしいが、医師ではない私に「彼女を救う手」は持ち合わせていないのが現実だ。私は自販機でコーヒーを買ってEさんに差し出しながら言った。「時間と手間がかかるのはしょうがないけど、中に(病棟)に居た頃よりはマシでしょう?食事も含めて?」彼女は空を見上げてから「そうだね。好きなものを食べられて、時間も自由だって事はいいね。逆に不便なのは不安になっちゃった時だね。誰かが来てくれる訳じゃないし、点滴も注射もすぐには出来ない事だし。少しは我慢強くなったのかな?私?それって随分進歩したって事だよね?」「それは大変な進歩ですよ!」私は半ば笑いながら言った。Eさんと私は「眠れない友達」だった。どっちが先に寝れるかを競っていた時期に、真っ暗なホールでこんな風に小声で話し込んでいたのを思い出すと、今のEさんは遥か先を歩いている様に感じる。そう彼女に話すと、彼女も笑い出した。「巡回をかいくぐって喋ってたものね、あれを考えると普通に眠れるのがどれだけ幸せかが分かる。ここでも進歩してるね私は!」話は尽きなかったが、電車の時刻が迫っていた。「ごめん。長話して。今日は楽しかった!みんなに元気だって言っといて!アンタも早く出てらっしゃい!自由は素敵だよ。また、来るから。今度は病棟にお見舞いに行く。じゃあ、またね!」ちょうど滑り込んで来たタクシーに乗ってEさんは駅へと向かって行った。今度こそ「病棟」へ帰らないとマズイ。案の定、廊下の真ん中でMさんに逮捕されて、連れ戻されるハメになった。

その後、Eさんは約束通り、お見舞いに来てくれた。おしゃべりが止まらず、半日ぐらい話し込んでいったのを覚えている。そしてクリスマスの前に彼女から手紙が来た。埼玉へ戻り、何とか新しい主治医とも上手くやっているとの事だった。それから彼女とは音信不通だが、この空の下で元気でいてくれていると思う。何故かそう確信出来るのが不思議だが。

ミスター DB ㉙

2018年08月08日 15時16分47秒 | 日記
「ドブ親父」のレッテルを貼られて、同僚からも鼻つまみモノと化していたDBだったが、ヤツにもついに風が吹き始めようとしていた。きっかけは「同僚達からの直訴」だった。Y副社長は、DBからの哀訴は黙殺し続けたが、流石に社員からの「声」までは無視できなかった。「出入りの業者からも、あの悪臭親父は何とかならないのか?と言われています。現場としても、会社のイメージダウンになっては困ります!」「DBはわざと不潔にして会社に迷惑を吹っ掛けようとしています!」日に日にY副社長の元へ届けられる「苦情」は増えて行った。こうなると、如何にY副社長としても「黙殺」する事は不可能。DBを「配置転換」せざるを得ない状況に陥った。

Y副社長の目算では、私が退院して復職を果たし「免疫」を持つまでの間、DBを横浜に釘付けにするか、国外に赴任させ「地元」へは返さない腹積もりであったようだが、まだ私は大学病院へ入院して半年。治療も道半ばであった。少なくとも後、1年半はDBを「拘束」する必要がある。だが、DBの「汚親父化」による抵抗は完全なる「想定外」であったし、足元の社員からの「批判」をも黙殺するのは得策ではなかった。Y副社長は策を変更せざるを得なかった。だが、DBに「自由」を与えるのは危険すぎる。人事は難航したが、何とか「適切なポスト」を探し当てる事になった。

ある日、DBがパソコンの前で切れている時にY副社長から「呼び出し」がかかった。しかも「即刻、シャワーを浴びて着替えて来るように」との厳命付きでだ。DBは「俺は雑巾か?!」と叫びながら寮へ向かい、着替えてY副社長の元へ出頭した。開口一番、Y副社長は「君は品質管理の責任者を務めたことがあるな。明日から、対外品質管理の責任者として本社で勤務する事を厳命する。大変ではあるが宜しく頼む」とDBに命じたのである。DBは「お受けいたします」と頭を下げながらほくそ笑んだ。遂に責任ある「地位」を得たのだ。DBはY副社長から辞令を受け取り、踊るような足取りで本社屋を歩いて行った。だが、相手はY副社長だ。甘いと思われた人事には「巧妙なワナ」が仕掛けられていた。

「対外品質管理課」とは、製品の生産を委託しているベンダーと製品を使って頂いているユーザー企業に対して、品質全般の責任を負う部門である。1か月の内、本社デスクで仕事をしているのは4分の1ほど。残りの4分の3は全て「出張」である。当然「海外」も含まれるし、丸まる1か月出かけたまま帰らない事も稀ではない部署だ。個人のデスクはあるが人影は常になく、管理を担当する女性社員が2人居るだけ。課員同士の連絡は基本メール、電話は急ぎの場合のみだ。ノートパソコンを常に持ち歩き、国内外を駆け回るのが仕事である。そんな部署だとは夢にも思っていないDBは、翌日部屋へやって来るなり肝を潰した。広い課室には女性社員が2人だけ、部下が居ないのだ。怪訝そうな顔つきで女性社員へ「着任」を告げると「話は聞いています。私達2人以外は全員出張中です。今日は、ご自分のパソコンの設定をお願いします。デスク用と出張用の2台です。設定が終わりましたら、メールで着任のあいさつを皆さんへ送信してください。課長も明日から西宮市への出張になりますから、資料へ目を通しておいて下さい。クレーム対応とベンダーへの指導になりますから」と言われ、見るのも悍ましい「ノートパソコン」が置かれたデスクへ案内された。DBは凍り付いたように椅子へ座り、おずおずとパソコンの電源を入れた。前任者からの引継ぎ文書を見ながら「やられた!」と口走った。Y副社長が管理部門への異動を口にした時に「おかしい」と気付くべきだったのだ。これでは、東奔西走の日々を延々と送ることになるだけで、配流と変わらない。しかも、己のもっとも苦手なパソコンを使いこなさなくては、仕事にならないのだ。そして、早々と明日から外回りが入っている。恐る恐る「全員が顔を揃えるのはいつか?」と聞くと「年末年始ぐらいですよ」と言う言葉が返って来た。品質管理部へあいさつに出向いた際も「あそこは空き巣課と呼ばれているが、会社の顔である重要な部署だ。取りまとめるのは大変だが、宜しく頼む。Y副社長も君の手腕に期待されておる」と部長に釘をブスブスと打たれる始末。DBは「顔も知らない部下達」を束ねて行かねばならないと言う「難題」を押し付けられたのだ。「まだ、倉庫でくたばって居た方がよかった」悄然と廊下で呟いても誰も助けてはくれない。DBは新たな「地獄」へと放り込まれたのだった。

翌日、五里霧中のまま西宮へ移動するDBが、新横浜駅のホームで目撃されている。これより後、渡り鳥のように「国内外」を放浪する生活をDBは送った。元々薄かった頭の毛は「バーコード」と化し、腹は膨らみ「筋肉質」だった身体は見目も無残な親父体形へと変貌していった。根無し草の様な生活は「覇気」を奪うには十分な効果があった。私の追跡・捕縛も叶わないまま、月日だけが過ぎて行った。その間に、私は退院し復職を果たし「ミスターJ」から免疫を施されることができたのである。Y副社長の巧妙なワナに墜ちたDBは、私の療養生活に何も手出しが出来ずに定年を迎えるのだが、定年後に「再雇用」に応じて工場へと戻って来る。だが、その時までには、なお紆余曲折を経る事になる。

ミスター DB ㉘

2018年08月01日 10時46分05秒 | 日記
週末になると、症状の安定している患者には「外泊」が許可されるのだが、私の場合は基本的に「不許可」になる事が多かった。素行不良患者である私に「外泊」を許せばどうなるか分からないからだ。もっとも、それ以前に「家に帰りたい」と言う気持ちが無かったのである。身の回りのモノは必要なだけ持ち込んであったし、完全空調が効いていた病棟から「一時帰宅」するのは、身体に大きな負担をかける事になりかねなかった。担当医や主治医の先生達も、私の「両親」と話をする中で「自宅でのケア」が不可能なのは察していた様だ。普通、子供が入院すれば両親は「面会」へ来るものだが、ウチの親は「呼び出されないと来ない」人種だった。最後まで親は「私の病気」について理解することは無かった。「預けて置きゃどうにかするだろう」と言う投げやりな認識しか持てなかったのだ。逆に考えれば、親がしゃしゃり出て「治療の妨げ」になるよりはマシであり、放置されていたからこそ「復活」出来たとも言えるし、集中して治療が進められたからこそ、1年で退院できたとも言える。自分と「真摯に向き合った」のはこの時が初めてだったと思う。

人には「相性」と言うものがある。看護師さんと患者の間にも「相性」はある。私は基本的に「嫌悪」は感じないのだが、一人だけどうしても「相性」の合わない看護師さんが居た。精神科病棟に勤務する看護師さんは「ベテラン」もしくは「ICU」での経験のある人達が配属されていた。人生経験豊富もしくは、修羅場をくぐった猛者でなくては精神科病棟では通用しないからだ。若い美人の看護師さんがまず配属されるのは、内科や外科・老年科になる。そうした看護師さん達に会いたければ、別の病棟の入り口付近を観察していればいい。産婦人科病棟などは「美人の宝庫」と呼ばれていたが、男性が入るには余程の勇気がいるし「不審者」として摘まみだされるのがオチだ。後の話になるが、私は産婦人科病棟に入る機会を得た事がある。家内が大学病院で出産したため、堂々と足を踏み入れられたのである。噂通り「美人の宝庫」であった。ただ、空気は緊張をはらみ、常に切迫した時間に支配されていた。とても入院中に忍び込める場所ではなかったし、間違いなく「不審者」として摘まみだされていたと思う。
閑話休題。本線へ戻ろう。毎朝、6時前に目覚めた私には「確認事項」があった。ホールの片隅、ナースステーション脇のボードに描かれた「検温担当者」を調べに行くのだ。2チームに分かれての検温になるのだが「その日の自分の担当者が誰か?」を把握しておかないと、お目玉を喰らうか、長話になるか、笑って終わるか、フリーズするかが決まるのである。朝から気持ちよく過ごすためにも、事前の調査は必須事項であった。「うーん、今日は最悪」折悪くその日の担当看護師さんはKさんと言う若手の方。女性患者さん達には評判はいいが、男性陣にとっては「難敵」なお方だった。目覚めてから15分余り、今日が「厄日」だと判明し、ガックリとして病室へ戻るとは・・・。最悪じゃー。Kさんは、病棟内では若手ではあったが、優秀な方で患者に代わって担当医や主治医に「意見する」ほどの力量があり、女性患者さん達の「代弁者」として信頼を得ていた。ただ、男性患者に聞くと「何か冷たい」「何も聞いてくれない」「人当たりキツイよね」と言う評価が圧倒的に多かった。Kさん自身は「そんなつもり」は欠片も無かったと思うのだが、男女での「温度差」があったのは事実だ。特に素行不良患者である私には「殊更に機械的」であった。その日も必要最低限の会話しかせずに、検温を終えた。手際はいいし、注射や点滴も上手い。だが、男性には「毅然として付け入るスキを与えない」それが彼女のスタイルであった。彼女に検温をして貰う確率はかなりマレであり、普段も「分け隔てなく」患者さんに接してはいた。頼み事をするのにナースステーションへ行っても、嫌な顔はしなかった。1度だけだが、彼女を驚かせた事がある。病室の脇にあるロッカーの扉の建付けが悪くなり、ネジを締め付けるのにドライバーが必要になった時だ。ナースステーションに居たKさんに「すいません。ドライバー貸してもらえます?」と言うと「ドライバーって何に使うの?」と怪訝な顔で問い返された。理由を説明し、現場も彼女に確認してもらい「自分で直せそう」と言うと「本当に?修繕に来てもらったら?」と半信半疑の眼差しで問い返された。ともかく「やるだけやってみたい」と懇願し、ドライバーを探してもらって、いざ「修理」開始!緩んだ木ねじを締め付けて、調整ネジで建付けを直す。組み立て式のローボードを造るのとやる事は大差ない。10分ほどの作業で事は済んだ。「嘘、直ったの!すごい!」彼女が目をまん丸くして驚いていた。「初めてよ、自分で直しちゃった人」「普通に考えれば難しい修理じゃありませんよ」と私が言うと、彼女は「どんな仕事していたの?それとも趣味?いずれにせよ貴方普通じゃないわ!」と言うので「普通の病人ではありませんけど・・・」と切り返すと「ついでと言ったら怒るかも知れないけれど、同じようなのが予備の中にあるんだけど、それも直せるかな?修繕には依頼しているんだけど、明後日から使う予定があるの。お願いできそうかな?」と珍しく依頼を持ちかけられた。「いいですよ」と応じて、病棟の片隅に置かれているロッカーセットを調べてみた。症状は自分が使っているロッカーと同じだったので、慎重に木ネジを締めて調整ネジを回す。やはり10分くらいで作業完了。ドライバーを返しつつ「直りましたよ」と彼女に言った。建付けを確認した彼女は珍しく「ありがとうございます」と頭を下げた。「師長さんが心配してたから、多分喜んでもらえると思う。意外とやるね。今度から貴方に専属で直してもらいましょうかしら?」初めて満面の笑みを浮かべる彼女を見た瞬間だった。
それから、彼女の「検温」は少しだけ「優しく」なった。「ちゃんと眠れた?」「昨日の夕食どうだった?相変わらず不味いよね?」などと言葉をかけてくれるようになったし、「先生捕まらないなら、私から申し送りしておくわ」と取次もしてくれるようになった。まあ、ようやく「認められた」と言うところだろうか?私の退院を見送った彼女は、結婚をして1度大学病院を離れた後に、外来の看護師として復職をしている。1回だけ「元気そうじゃん」と声を掛けられたが、程なくして私の外来受診先が別のクリニックに替わったため、その後の消息は不明である。彼女もHさんやMさん同様忘れがたい存在だが、鉄壁の奥に潜む「患者さんへの熱い思い」を知るまでは、ただただ恐れるだけであった。でも、Kさんの「治って欲しい」と言う真剣な願いは垣間見ることが出来た。今の私があるのは彼女達「優秀な看護師」の助けなくしてはありえない。