還暦コンブのひとりごと

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今どきの入院事情

2024-10-31 00:24:28 | 日々思うこと

父は全国で名の知れた総合病院に入院していた。

2回目の入院の1日目の夕方に主治医から電話がかかってきた。

「実はお父さんが治療を継続できないかもしれない理由があって」と。

 

なんだろう?そんなに悪い病気なのかな?と姉とフリーズ。

色々な手続きでまだ院内に残っていたので直接Drと話をすることに。

詳しくは書けないが、点滴の針がなかなか入らず何度も刺しなおされた

結果、父が看護師さんに嫌味交じりに怒鳴ったとのこと。

それを病院では「暴言」=「言葉の暴力」ハラスメントとなるのだと。

看護師の心に傷がつくことはNGなのだと、こんなことでは問題にならない

病院も多いのだがここではダメなのだと先生はとても言いづらそうに

「次に暴言があった時には退院してもらうことに・・・」

 

私たちは奈落の底に突き落とされた気分になった。

なぜなら暴言は父の普段からの癖でもあったからだ。

妻に対しても娘に対しても孫に対しても

もう少し優しい言葉をかけられないのかと言いながら

私たちはそれに慣れてしまっていた。

 

そもそも昭和一桁台の男性はこういう頑固一徹な人が多い。

ケアマネの時も何度怒鳴られたか分からないくらいだ。

でもその人の本質が分かっていれば無駄に傷つくこともなく

はいはいって聞き流すことができた。

頑固で扱いにくいものの自分に厳しく一本筋が通っているのが

典型的なこの世代の男性たちだったからだ。

父もまさにそうで、本人に悪気がないことはわかっているが

こちらの機嫌によっては大喧嘩することもあった。

 

とりあえず病室に戻り娘から一生のお願いを父にした。

きついことを言われたら心に傷がつく看護師さんもいると

だから腹が立ったら私に怒鳴っていいからどうかこらえてと。

 

その約束を父は退院まで守ってくれた。

私たちは毎日父のもとに通い、看護師さんには平謝りの日々だったが

毎日通ったからこそ、その病院の特異なところに気づいてきたのだ。

 

看護師さんたちは病棟に結構な数配属されていたが、そのほとんどが

なぜか廊下で黙々とパソコンを打っていた。

電子カルテ化し、申し送りや記録の入力が必要なことはわかる。

ただ、奇妙だったのが廊下を患者さんが歩いていても声掛けがない。

普通、〇〇さんどこへ行くの?とかリハビリ頑張ってねとか

家族が面会に来たら挨拶したり声をかけたり

少なくとも私が病棟で仕事をしていた頃はそうゆうやり取りが

普通にあったのでいつ行ってもシーンとした病棟が奇妙に感じた。

 

まるで彼氏とカフェにいるのにスマホを見ている彼女のような

無駄にコミュニケーションを取ろうとしない今どき世代?

そうか、この人たちからしたら昭和一桁世代は既に過去の遺物・・・

パワハラやモラハラで強制退院させられる時代なんだと。

 

古いのかもしれないが、私は少なくとも介護職をずっと続けてきた

人間で、高齢者と関わるなかでアンガーマネジメントというのも学び

身体が不自由になることによって起こる怒りや暴言も受け止め

本人に寄り添うことが介護のプロとしての務めだと、自然に

聞き流し受け流し寄り添うことを続けてきた。

 

何より相手は死と隣り合わせの弱った病気の人間なのだ。

 

そういった人間力というか対応力というか、そもそも看護師なら

そのあたりはエキスパートであることが必要ではないだろうか?

 

最初は父親の口の悪さにやれやれと思っていた姉と私も

扱いづらい人間になったら老後は入院もさせてもらえなくなるねと

自分たちの将来を案じた。

 

 

 

 

 

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延命について考える

2024-10-29 11:04:20 | 日々思うこと

父の治療を主治医と相談していく中で確実に見えてきたこと。

口から食べ物や水を飲みこむことが出来なくなった高齢者に

点滴はしない方が良い。

 

病院側は治療するのが仕事だから入院している以上何らかの方法により

命を長らえる使命がある。

近年延命のための胃ろうを選ぶ家族は減っているので、とりあえずの

期間は首の下にポートというものを設置して行う中心静脈栄養を

勧められるのが多いのではないだろうか。

普通の点滴の針では十分な栄養が入れられないので太い血管を確保して

しばらくの間はそれだけで生きていられるそうだ。

 

父の場合も腕の血管に針を刺すのが困難になってきたのでそれを勧められた。

一緒に説明を聞きにいった義理兄は「先生のおっしゃる通りにしてもらったら

いい」と言ったが姉と私は言葉がでなかった。

今後ベッドから起き上がり歩けるようになる可能性がゼロであるのに

栄養を入れられてベッド生活を長らえることが父にとって幸せなのか?

 

昔、療養型病棟で看護助手として働いていたことがある。

当時は身体介護のやり方を身に着けていくことに必死だった私は

療養型病棟でたくさんの管に繋がれている患者さんを見ても

どこか別世界の人たちのような気がしていた。

自分が高齢になってこのような状況で生かされるのは嫌だなとか

人間の生命力ってものすごく強いんだなとか

そんな風に他人事のように感じていた。

 

今思えば点滴を入れられることによって自然に老衰で死ねない

状況を作られていたのだと、彼らは声すら出なかったけど涙を

流す人は多かった。

きっと置かれた状況があまりにも辛かったのだ。

 

調べてみたら末梢の点滴だけでも、ほとんど栄養がなく水分だけでも

数週間は身体の細胞がエネルギーを作り出し生きられるそうだ。

 

さて、父の場合は主治医が度々私たちの意思を確認してくれたことで

「なにもしない」という方法を選んだ。

中心静脈栄養は抜かれては困るので手をくくるなどの身体拘束を行う

場合がある。末梢点滴も本人が外そうとするのでミトンなどで指の

動きを止める拘束を行っていた。

お見舞いに行っても一生懸命ミトンを外そうと腕に力を入れて目で

これを取ってくれと必死に訴えている父を見てきた。

口から物が食べられなくなると同時に声も出なくなっていた。

 

点滴を続けてもらうことが父にとって苦しみでしかないことに気づいた。

そこで「なにもしないでください」という結論が姉と私で固まった。

帰りの車の中で姉とはひとことも喋らなかった。

お互いに父の命綱を自分たちの言葉で切ってしまったことに

罪悪感を抱えていたからだ。

 

その後4日もかからず父は枯れていくように亡くなった。

痰の吸引も水分を身体に入れなくなったら痰すら出なくなった。

病院に無理を言って寝台車で父を実家に連れて帰り1週間ほど看取りを

行うつもりだったが翌朝父は静かに旅立った。

下顎呼吸をしていたので口は開いたままだったが眉間にしわもよらず

穏やかな表情で息を引き取ったのだ。

 

もちろん私たち姉妹は子供も独立し私は仕事を辞め時間があったから

3か月間のあいだ父の最後に寄り添うことができた。

お仕事をしていたり子育て中だったりどうしても療養型病院に預けて

いるしか出来ないご家族も多いのだろう。

コロナを言い訳にして未だに面会も制限をかけている病院も多いが

せめて頻繁に会いに行ってあげて様子をみてほしい。

 

SPO2が下がったからと言って酸素吸入をされるのも楽ではない。

痰の吸引も辛いものだが体が脱水症状になると痰も出なくなる。

やはり体は自然に任せてあげるのが一番ではないかと思った。

 

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父親の看取り

2024-10-29 00:12:20 | 日々思うこと

今月20日早朝、父が亡くなった。

来月で90になるが筋肉質でしわもなく私たち姉妹は

まだまだ数年は元気に暮らしてくれると信じていた。

 

今年の2月に母を見送った時も3年弱施設にお世話になってたから

週2は必ず通っていた父も、一緒には住んでいなかったから

まだ気持ち的には大丈夫だろう・・・

なんて勝手に思い込もうとしていた。

 

でも病気になるまでの父は結構前向きで、同期会に参加したり

孫たちと食事に行ったり母の仏壇にせっせとお花を買ってきては

供え、車であちこち出かけたり近くのスーパー銭湯に通ったり

ひとり暮らしを楽しんでいるようにも見えた。

 

ところが妻を亡くすということはそんな簡単に乗り越えられる

ものじゃなかったんだと病気になってから知った。

 

だいたいの男性は妻を亡くして半年~1年くらいで後を追うと

お坊さんも苦笑いしていた。

それまで元気だった人も体調を崩して入院がちになったり

鬱になったり、認知症になってしまったりという例は私もずっと

見てきていたはずなのに、なんで父だけ例外にしてしまったのか。

 

なぜか私も姉も父が弱っていくことを受け止められなかった。

かかりつけ医に毎日点滴に通っていた時も、「お父さんももういいお年

だから余命1か月くらいかもしれない」と言われた時も心の中で憤慨した。

まさか~こんな自立してるのにありえない、すぐに元気になるよねって。

 

年に1回くらい肺に水がたまり炎症を起こして入院していたが

入院中もLINEのやり取りを楽しみ、元気に退院してきたから

今回もそのパターンだろうと・・・

 

でも、今回はそうじゃなかった。

最初の入院で点滴漬けでベッドに安静にさせられてから転がるように

足の筋力が低下した。それと同時に感情の起伏も激しくなり

怒っているか泣いているかになってしまった。

かかりつけ医にも入院中の主治医にも原因が分からなかった謎の炎症

数値ばかりが異常に高いけど白血球は正常という謎の病。

父はもともと身体が丈夫で体力もあったから持ちこたえていたけれど

普通の高齢者なら即入院になるような炎症をずっと抱え、元気に過ごして

いるように見えていただけだった。

家に行くといつも寝ていたのは実はしんどかったからなのかもしれない。

 

父自身もなんとなくしんどいのは歳のせいだと思っていたんだろう。

いつからか歩くスピードが遅くなっていた。

息が切れるわけじゃないから「もっと歩かないと足弱るよ!」なんて

声掛けして、本当に知らないというのは罪なことだ。

 

2度目の入院をする前あたりに父と姉と私で過ごした夜があった。

父が1度だけ「ふたりともここで一緒に暮らそう」と言った。

よほど心細かったのか、姉と顔を見合わせ返答に困った。

例えば癌の末期で緩和ケアを受けているとか、期間限定とかなら

夫に了解をもらいそれこそ1か月同居は全然アリだった。

だけどまだまだそんな時期ではないと思い込んでいたから

昼間毎日通うよでお茶を濁した。

仕事を辞めていて一番良かったのがこれが出来たことだ。

 

それから短い間に色んな困難なことがあり、姉と二人心を痛めながら

振り返るとその1か月後には逝ってしまった。

たった3か月の介護生活だった。

 

親孝行できたと捉えて良いのだろうか。

あまりにも置かれた状況が辛すぎて父は妄想の世界と現実を

行き来しながら最後は妄想の世界から帰ってこなかった。

それが救いであると言えばある。

 

世間から見れば十分大往生なんだろうな。。

 

 

 

 

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