9年前の1993年にNZ南島のテアナウに泊まった時のこと。湖畔のモーテルで夕食の準備に取りかかろうとキッチンに立つと、横の壁にかなり大きなラジオが埋め込まれているのに気づきました。布張りの丸い大きなスピーカーが一つ付いていていました。ラジオといえば、子どもの頃ですらトランジスタだったので、実際に見るのは初めてでも、映画の中などで目にしたことがある妙に懐かしいもの物でした。試しにつまみを回してスイッチを入れると、流れてきたのはビートルズナンバー。
「いったい今はいつなんだろう?」
時代が60年代で止まってしまったかのようでした。
今でもその時のことを覚えているのは、モノラルから流れてくるビートルズを聞き、暮れなずむ湖を見ながらスパゲティを茹でているという状況が「悪くない」と思えたからです。静かで、穏やかな時間。懐かしい音楽に暖かな部屋。私の思い描くニュージーランド生活の原風景の一つがそこにあったような気がします。当時はそこまで深く意識していませんでしたが、観光客にとってはミルフォードサウンド行きへの通過点でしかないテアナウがいつまでも忘れられないのは、この一片の記憶があるからです。(あそこで見た土ボタルの幻想的な美しさも忘れられませんが)
生きていくのにそんなにたくさんの物はいらない。それよりも愛しい人が傍にいて、大勢でなくていいから心を許せる友人が何人かいて、自分の心に正直に、他人を傷つけず、争わず、さりげなく生きていけたらいいと思います。必要以上に自分の生活の幅を広げないことは、その隅々にまで責任を持つという意味です。そのためには背伸びをせず、見栄を張らず、かといって不要な謙遜もしないことでしょう。所詮これらは事実に反することで、いずれ立ち行かなくなり、偽りの上乗せをしていくか、支えきれなくなって馬脚を表し、他人に迷惑をかけ信頼を失ってしまう類のものだと思います。
有名な話ですが、ある男がヤシの木陰で昼寝をしている男に聞きました。「なぜ働かないのか」と。
木陰の男は聞きました。
「なぜ働かなくてはいけないのか。」
男は答えました。
「金持ちになるためさ。」
木陰の男はまた聞きました。
「なぜ金持ちにならなくてはいけないのか。」
男は答えました。
「金持ちになって働かなくてもいいようになるためさ。」
もちろん木陰の男はそのまま昼寝を続けました。
これは極端な例かもしれません。でも最初の男のように転ばぬ先の杖的発想を続けて行けば、年金という自動的に入ってくるお金を手にするまで心が休まる時はないかもしれません。小金がたまれば今度はそれが減っていくのに耐えられず、年金もいつ破綻するかわからないと思い始めれば、それこそ一生不安がつきまとうことでしょう。もちろん生きていくのにお金は必要です。養わなくてはいけない家族がいればなおさらです。そのためには誰でも効率良く稼ぎ、有給休暇でビーチに寝転んでいても口座には給料が振り込まれていて欲しいと思うことでしょう。私もずっとそうでした。
しかし、この発想で行くとある線からは必要以上の物やお金を求めだしてしまうのも、また事実ではないでしょうか。どうせ泊るなら五つ星のホテルにしよう。せっかくだからブランド物を買おう、と。しかし、その欲望の連鎖を断ち切って自分の身の丈にあったものを見つけ、その維持に必要なものだけを求めて生きていくことはできないものなのでしょうか。消費文化の中で、大切な何かを失っていくような喪失感に囚われた時、ふと思い出したのが、あのテアナウのひと時でした。古いラジオから流れ出す、過ぎ去った時代。人類と地球のバランスが今よりもう少し良かったであろう時代。
NZに行きさえすれば全ての問題が解決するなど、微塵も思っていません。誰でも、どこにあっても生活と幸せは自分で紡いでいくものだと思うので、住む場所で何もかもが変わるとは思いません。でも向かい風の中を逆らって行ったり、追い風に無理に乗るよりも、そよ風の中をマイペースで行ける方がいいとは思います。そんな風が夕暮れのワンツリーヒルに、嵐のあとのカイコウラに、ティマルのただ広いだけで何もない公園に吹いていました。
「何かを始めてみよう!」
思いをそっと押してくれたのは、そんな風でした。
より豊富に、より高級に、より便利にと変わっていくことが、幸せにつながると信じられていた20世紀。でもその追求への代価も少なくなかったのではないかと思います。世界にはさまざまな生活があり、20世紀の暮らしをこれからも、またはこれから初めて謳歌しようとする人たちの方がはるかに大多数なのもよくわかります。でも独り立ち止まり、吹いてくるかすかな風を読んで帆を上げてみようと思います。21世紀という新たな海へ。
=============
「マヨネーズ」 先日、日本に帰国したときのこと。近所のスーパーでビックリ。3月16日配信の「Bモードで行こう!」で取り上げたリプトンの「レディグレイ」が、な~~んとドッサリ。ロンドンに行かなくても、NZに行かなくてもこんなところで買いたい放題(笑) 説明も日本語でこまごまと。パッケージは少し違っていましたが中身は一緒。
私が日本にいたころは、紅茶と言えばまずダージリン。そしてアールグレイ、その横にオレンジペコというのがお決まりだったのに、その不動の地位からオレンジペコを追い落とし、ダージリンとアールグレイの横に鎮座している「レディグレイ」、なかなか侮れません。
「いったい今はいつなんだろう?」
時代が60年代で止まってしまったかのようでした。
今でもその時のことを覚えているのは、モノラルから流れてくるビートルズを聞き、暮れなずむ湖を見ながらスパゲティを茹でているという状況が「悪くない」と思えたからです。静かで、穏やかな時間。懐かしい音楽に暖かな部屋。私の思い描くニュージーランド生活の原風景の一つがそこにあったような気がします。当時はそこまで深く意識していませんでしたが、観光客にとってはミルフォードサウンド行きへの通過点でしかないテアナウがいつまでも忘れられないのは、この一片の記憶があるからです。(あそこで見た土ボタルの幻想的な美しさも忘れられませんが)
生きていくのにそんなにたくさんの物はいらない。それよりも愛しい人が傍にいて、大勢でなくていいから心を許せる友人が何人かいて、自分の心に正直に、他人を傷つけず、争わず、さりげなく生きていけたらいいと思います。必要以上に自分の生活の幅を広げないことは、その隅々にまで責任を持つという意味です。そのためには背伸びをせず、見栄を張らず、かといって不要な謙遜もしないことでしょう。所詮これらは事実に反することで、いずれ立ち行かなくなり、偽りの上乗せをしていくか、支えきれなくなって馬脚を表し、他人に迷惑をかけ信頼を失ってしまう類のものだと思います。
有名な話ですが、ある男がヤシの木陰で昼寝をしている男に聞きました。「なぜ働かないのか」と。
木陰の男は聞きました。
「なぜ働かなくてはいけないのか。」
男は答えました。
「金持ちになるためさ。」
木陰の男はまた聞きました。
「なぜ金持ちにならなくてはいけないのか。」
男は答えました。
「金持ちになって働かなくてもいいようになるためさ。」
もちろん木陰の男はそのまま昼寝を続けました。
これは極端な例かもしれません。でも最初の男のように転ばぬ先の杖的発想を続けて行けば、年金という自動的に入ってくるお金を手にするまで心が休まる時はないかもしれません。小金がたまれば今度はそれが減っていくのに耐えられず、年金もいつ破綻するかわからないと思い始めれば、それこそ一生不安がつきまとうことでしょう。もちろん生きていくのにお金は必要です。養わなくてはいけない家族がいればなおさらです。そのためには誰でも効率良く稼ぎ、有給休暇でビーチに寝転んでいても口座には給料が振り込まれていて欲しいと思うことでしょう。私もずっとそうでした。
しかし、この発想で行くとある線からは必要以上の物やお金を求めだしてしまうのも、また事実ではないでしょうか。どうせ泊るなら五つ星のホテルにしよう。せっかくだからブランド物を買おう、と。しかし、その欲望の連鎖を断ち切って自分の身の丈にあったものを見つけ、その維持に必要なものだけを求めて生きていくことはできないものなのでしょうか。消費文化の中で、大切な何かを失っていくような喪失感に囚われた時、ふと思い出したのが、あのテアナウのひと時でした。古いラジオから流れ出す、過ぎ去った時代。人類と地球のバランスが今よりもう少し良かったであろう時代。
NZに行きさえすれば全ての問題が解決するなど、微塵も思っていません。誰でも、どこにあっても生活と幸せは自分で紡いでいくものだと思うので、住む場所で何もかもが変わるとは思いません。でも向かい風の中を逆らって行ったり、追い風に無理に乗るよりも、そよ風の中をマイペースで行ける方がいいとは思います。そんな風が夕暮れのワンツリーヒルに、嵐のあとのカイコウラに、ティマルのただ広いだけで何もない公園に吹いていました。
「何かを始めてみよう!」
思いをそっと押してくれたのは、そんな風でした。
より豊富に、より高級に、より便利にと変わっていくことが、幸せにつながると信じられていた20世紀。でもその追求への代価も少なくなかったのではないかと思います。世界にはさまざまな生活があり、20世紀の暮らしをこれからも、またはこれから初めて謳歌しようとする人たちの方がはるかに大多数なのもよくわかります。でも独り立ち止まり、吹いてくるかすかな風を読んで帆を上げてみようと思います。21世紀という新たな海へ。
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「マヨネーズ」 先日、日本に帰国したときのこと。近所のスーパーでビックリ。3月16日配信の「Bモードで行こう!」で取り上げたリプトンの「レディグレイ」が、な~~んとドッサリ。ロンドンに行かなくても、NZに行かなくてもこんなところで買いたい放題(笑) 説明も日本語でこまごまと。パッケージは少し違っていましたが中身は一緒。
私が日本にいたころは、紅茶と言えばまずダージリン。そしてアールグレイ、その横にオレンジペコというのがお決まりだったのに、その不動の地位からオレンジペコを追い落とし、ダージリンとアールグレイの横に鎮座している「レディグレイ」、なかなか侮れません。