5年ぶりに訪れたバリは楽園のままでした。私たちが気に入っている極端に限定された一角での定点観測の限りでは、拍子抜けするぐらい何も変っていませんでした。最後に訪れたのがアジア経済のバブル絶頂期96年のクリスマスだったので、その後の5年間はインドネシアにとって、屋台骨がかしぐほどの金融不安とアジアのどの国よりも深刻な政局不安に見舞われ、揺れに揺れた時期のはずでした。でもそんな薄っぺらな聞きかじりなど何の役にも立たないほど、実際のバリはゆったり、まったり、以前のままでした。
ニュージーランドとバリ。私にとっての2つの楽園はいずれも南半球という以外、一見何の共通点もなさそうな西洋VSアジアの構図ですが、これがどっこい、
「実は共通項だらけ・・・」
ということに、今回の滞在で気がつきました。
私にとってのバリの真髄は観光客で溢れる賑やかなビーチではなく、ひっそりと山間に息づく"芸術家の村"ウブドのことです。ですからNZとの比較と言ってもウブドというごく限定された一角の話となりますが、以下はそんな大胆不敵なみこと流"究極の楽園の定義"のいくつかです。
(※緑に包まれる山間のウブド)
豊かな緑:
NZもバリの山間部もいずれも緑豊かですが、適度に開墾され決して手付かずの大自然という訳ではないところが似ています。NZは見渡す限りの牧草地や植林、片やバリは棚田やヤシがびっしり・・という違いはありますが、緑の中に生活感があり人の気配やぬくもりが感じられるのです。人を拒むような厳しさよりも豊かで温和な風景が続き、何よりもその豊かさが究極のゆとりと心の開放につながっているように思います。
恵みの水:
私にとってNZの水の象徴は、神聖ささえ漂う純白のフカ滝ですが、バリの場合は至るところにしつらえられた小さな湧き水がその象徴です。香港人にとって絶対の価値観である風水において、水は富の象徴です。ですからオフィスの入り口だの店のレジの横だの、知らない人が見たら「?」というところに、モーターで水が回るようになった"人工湧き水セット"や"ミニ滝キット"がおもむろに置いてあったりします。
しかしバリの場合は本当の湧き水がほとんどで、その豊穣感や清涼感は電動仕掛けとは段違いです。これこそが本来の風水が意味するところなのでしょう。こんこんと湧き出る一条の流れ。見ているだけでも心が洗われていくようです。
神々の島:
バリの形容詞として最も良く使われる"神々の島"。文字通り朝起きてから夜寝るまで神の存在がそこここに溢れている暮らし。宗教の基本はインドから渡来したヒンドゥー教ですが、すっかり土着化しているので、バリの人たちは見たこともない象を神として崇めるのと同じように、生活の隅々に息づいている八百万の神を崇めています。元々が一神教ではない日本人にとっても、しめ縄のある巨木だの、神聖な石だのという発想は非常にしっくりくることでしょう。
NZにはいたるところに教会があって、表向きは西洋社会としてごく平均的なキリスト教が主体に見えますが、今はなきワンツリーヒルの名に残る松の木に寄せたキウイ達の想いは、愛着というものを越えた一種信仰に近いものだったように感じます。いずれにも圧倒的な自然の中での森羅万象への崇拝を感じます。神だけでなく、人も、動物も、あらゆる生きとし生けるものがとても身近かな環境なのでしょう。
創造する人たち:
これだけ自然に恵まれた人たちがそれを愛でる作品を作り出していくのは、ごく自然なことなのでしょう。独特の遠近法と色合いのバリ画からお土産屋でわんさか売られている木彫りやペイントされた木のネコまで、バリの人は本当にあらゆるものを手作りしてしまう天才です。そこには"物がないから仕方なく作る"というネガティブなイメージは一切なく、自然の素材をふんだんに使って自由自在にイメージを形にしていく洗練された贅沢が溢れています。
NZでも玄関のドア窓に素敵なステンドグラスがはまっていたり、ブリキの風見鶏が手入れされたガーデンの中でクルクル回っていたり、あちこちで匠の業を目にします。誰かの手で無から生じてきた物には知らず知らずのうちに見る者を惹きつけるチカラがあるようです。
自給自足の暮らし:
楽園の生活を維持していくためには、極度に外部依存することはできません。自分たちの価値観を守り、外からいろいろなモノやヒトが入ってきても、ビクともしない生活基盤を持ち続けるためにも、この点は譲れないでしょう。
バリが経済的に多くを観光客に依存していることは間違いありませんが、アジアのリゾート地で度々目にする痛々しいまでの媚をウブドではあまり見かけません。彼らの宗教心に裏打ちされた地に足の着いた生活のせいなのかもしれません。合唱舞踏劇ケチャ(ケチャックダンス)もウブドで見るものは水準が高いだけでなく、より魂に訴えてくるものがあります。
NZの自給自足度の高さは言うまでもないでしょう。グローバリズムの権化であるアメリカ企業の昨今のスキャンダルを見聞するにつけ、つい最近まで世界的に信じられていた自分の手に負えないほどの生活の広がりや、事業の裾野の拡大での無限の繁栄という夢が、今となってはなんと遠くに感じられることでしょう。ひっそりと、しかし、しっかりと生きることへの尊さを改めて感じています。
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編集後記「マヨネーズ」
バリ・デビューを飾った次男。旅行中は「ご飯があるかどうか」が彼にとっての最大の関心事で、これさえ満たされれば、
「いい"ころと"だね~("ところ"と言えない)」
ということになります。それに味噌汁は無理としてもスープがあって、できたらその中に炊き立てのご飯を入れられたら最高なのです。
その点でバリは満点に近い場所でした。朝のホテルのビュッフェにあるソトアヤム(春雨野菜入りチキンスープ)にご飯を入れてあげたら、
「朝からこんなの食べてもいいの?」
と目はキラキラ。一口食べたら、
「ママ、これラージャ?(永谷園のラーメン茶漬けのこと)」
と、もう極楽♪
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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
今になって読み返すと、イタいほどの内容(笑)、そして誤字💦 ブログに移行して残すかどうかかなりギリな1本 でも、まぁ、こんな時代もあったと。次男の"ころと”は懐かしい。
ニュージーランドとバリ。私にとっての2つの楽園はいずれも南半球という以外、一見何の共通点もなさそうな西洋VSアジアの構図ですが、これがどっこい、
「実は共通項だらけ・・・」
ということに、今回の滞在で気がつきました。
私にとってのバリの真髄は観光客で溢れる賑やかなビーチではなく、ひっそりと山間に息づく"芸術家の村"ウブドのことです。ですからNZとの比較と言ってもウブドというごく限定された一角の話となりますが、以下はそんな大胆不敵なみこと流"究極の楽園の定義"のいくつかです。
(※緑に包まれる山間のウブド)
豊かな緑:
NZもバリの山間部もいずれも緑豊かですが、適度に開墾され決して手付かずの大自然という訳ではないところが似ています。NZは見渡す限りの牧草地や植林、片やバリは棚田やヤシがびっしり・・という違いはありますが、緑の中に生活感があり人の気配やぬくもりが感じられるのです。人を拒むような厳しさよりも豊かで温和な風景が続き、何よりもその豊かさが究極のゆとりと心の開放につながっているように思います。
恵みの水:
私にとってNZの水の象徴は、神聖ささえ漂う純白のフカ滝ですが、バリの場合は至るところにしつらえられた小さな湧き水がその象徴です。香港人にとって絶対の価値観である風水において、水は富の象徴です。ですからオフィスの入り口だの店のレジの横だの、知らない人が見たら「?」というところに、モーターで水が回るようになった"人工湧き水セット"や"ミニ滝キット"がおもむろに置いてあったりします。
しかしバリの場合は本当の湧き水がほとんどで、その豊穣感や清涼感は電動仕掛けとは段違いです。これこそが本来の風水が意味するところなのでしょう。こんこんと湧き出る一条の流れ。見ているだけでも心が洗われていくようです。
神々の島:
バリの形容詞として最も良く使われる"神々の島"。文字通り朝起きてから夜寝るまで神の存在がそこここに溢れている暮らし。宗教の基本はインドから渡来したヒンドゥー教ですが、すっかり土着化しているので、バリの人たちは見たこともない象を神として崇めるのと同じように、生活の隅々に息づいている八百万の神を崇めています。元々が一神教ではない日本人にとっても、しめ縄のある巨木だの、神聖な石だのという発想は非常にしっくりくることでしょう。
NZにはいたるところに教会があって、表向きは西洋社会としてごく平均的なキリスト教が主体に見えますが、今はなきワンツリーヒルの名に残る松の木に寄せたキウイ達の想いは、愛着というものを越えた一種信仰に近いものだったように感じます。いずれにも圧倒的な自然の中での森羅万象への崇拝を感じます。神だけでなく、人も、動物も、あらゆる生きとし生けるものがとても身近かな環境なのでしょう。
創造する人たち:
これだけ自然に恵まれた人たちがそれを愛でる作品を作り出していくのは、ごく自然なことなのでしょう。独特の遠近法と色合いのバリ画からお土産屋でわんさか売られている木彫りやペイントされた木のネコまで、バリの人は本当にあらゆるものを手作りしてしまう天才です。そこには"物がないから仕方なく作る"というネガティブなイメージは一切なく、自然の素材をふんだんに使って自由自在にイメージを形にしていく洗練された贅沢が溢れています。
NZでも玄関のドア窓に素敵なステンドグラスがはまっていたり、ブリキの風見鶏が手入れされたガーデンの中でクルクル回っていたり、あちこちで匠の業を目にします。誰かの手で無から生じてきた物には知らず知らずのうちに見る者を惹きつけるチカラがあるようです。
自給自足の暮らし:
楽園の生活を維持していくためには、極度に外部依存することはできません。自分たちの価値観を守り、外からいろいろなモノやヒトが入ってきても、ビクともしない生活基盤を持ち続けるためにも、この点は譲れないでしょう。
バリが経済的に多くを観光客に依存していることは間違いありませんが、アジアのリゾート地で度々目にする痛々しいまでの媚をウブドではあまり見かけません。彼らの宗教心に裏打ちされた地に足の着いた生活のせいなのかもしれません。合唱舞踏劇ケチャ(ケチャックダンス)もウブドで見るものは水準が高いだけでなく、より魂に訴えてくるものがあります。
NZの自給自足度の高さは言うまでもないでしょう。グローバリズムの権化であるアメリカ企業の昨今のスキャンダルを見聞するにつけ、つい最近まで世界的に信じられていた自分の手に負えないほどの生活の広がりや、事業の裾野の拡大での無限の繁栄という夢が、今となってはなんと遠くに感じられることでしょう。ひっそりと、しかし、しっかりと生きることへの尊さを改めて感じています。
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編集後記「マヨネーズ」
バリ・デビューを飾った次男。旅行中は「ご飯があるかどうか」が彼にとっての最大の関心事で、これさえ満たされれば、
「いい"ころと"だね~("ところ"と言えない)」
ということになります。それに味噌汁は無理としてもスープがあって、できたらその中に炊き立てのご飯を入れられたら最高なのです。
その点でバリは満点に近い場所でした。朝のホテルのビュッフェにあるソトアヤム(春雨野菜入りチキンスープ)にご飯を入れてあげたら、
「朝からこんなの食べてもいいの?」
と目はキラキラ。一口食べたら、
「ママ、これラージャ?(永谷園のラーメン茶漬けのこと)」
と、もう極楽♪
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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
今になって読み返すと、イタいほどの内容(笑)、そして誤字💦 ブログに移行して残すかどうかかなりギリな1本 でも、まぁ、こんな時代もあったと。次男の"ころと”は懐かしい。