“坂の上の雲”

登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が
輝いていてもいなくても、また坂を登っていきます。

金井五郎さんと云う人

2025-03-06 | 四方山話

久し振りの四方山話です。

Toshiのブログのブックマークにも入れている「秀岳荘」は、北海道の登山好きはもとより、キャンプやカヌー、マウンテンバイクといったアウトドア志向者なら誰でも知っている北海道の山のお店ですね

さて、その秀岳荘のことは一度お話ししたいと思いながら、今まで一度も取り上げたことはありませんでした。

話したかったこと、それはToshiは「秀岳荘ファン」ということです。

何故好きなのか?

それは店員さんがそろいも揃って皆僕の肌に合うからです。

つまり、接客対応が気に入っているということです

どのような対応か?

幾つかあるのだけれど..

売らんがための勧め方をしない

店員自らがアウトドア好きである

知ったかぶりをしない(知らないことは、知っている店員に繋いでくれる)

何だか分からないけど、マニュアル店員じゃない

良い意味で「上司の顔が見えない」(これをしたら上司に叱られるなんて考えて仕事をしていない)

バカ丁寧でない

と、こんなところでしょうか。

中にはこのようなことが肌に合わないお客さんも居るのかもしれませんが、そんなことはToshi個人としては小島よしおです

で、どうして秀岳荘に勤める店員さんがそろいも揃ってそのように「いい空気感を持っているのか」を自分の想像の引き出しから抜き取ってみると、それは創業者である金井五郎という人の「山を思う心」が今に受け継がれているからでは?というのが僕の答えです

はい、ということで、その秀岳荘の創業者で、あの坂本直行さんとも同じ時代を生きた金井五郎さんについて書かれている本をMotoさんからお借りしたので皆さんにもご紹介します

1999年7月に発行された貴重な『北海道山岳』からGoogleレンズで抜き取らせてもらいました。

(文章が長いので秀岳荘に興味のない方は離脱して下さい)

北海道の山好きはやっぱり秀岳荘

 

金井五郎さんと云う人 [滝本幸生]

札幌に秀岳荘という山専門の用具店があることを知ったのは、僕が先輩のSさんに連れられて、ウペペサンケ山の雪中露営に出掛けることになったあたりのことであろう。

冬山へ行くための用具や衣類など一つも無かった僕は、 帯広の山好きな人に教えられて、初めて札幌に秀岳荘といういい店があることを知った。

当時帯広に住んでいた僕は、早速札幌への出張の機会を見つけて、初めて秀岳荘の、あの懐かしいチロル風の呼鈴のあるドアを開けたのだった。昭和三十四年、僕はまだ二十代前半のことである。

何ともいえない「いい雰囲気」が充満している店内をキョロキョロしている時、金井さんがひょっこり用具棚の間から顔を出して「それサブザックです」と僕に声をかけてくれたのが最初の出合いであった。

何やら買込んで、清算をすると金井さんはソロバンを持って「これだけおまけしておきます」といって、一割だか端数だかを引いてくれた。それ以来、金井さんは何時もそうだった。「おまけしておきます」と必ず云った。そして秀岳荘とネームの入った小物入れを、これも必ず付けてくれた。

金井さんとは、そうして知り合いになったのだが、その後、仲間たちと帯広エーデルワイス山岳会をつくった折の発会式には、山のように、例の小物入れを送っていただいたりして、僕の鼻が少し高かったりした。

金井さんは日本山岳会とどの様な(どの程度の)係わりを持っていたのか、僕は知らない。

僕は昭和四十年に、深田久弥さんの紹介で山岳会へ入会させていただいたのだが、会のことは何もやっていないので、金井さんが会で、どんな活躍をされていたのかは知らないが、しかし、秀岳荘=金井五郎=山好きとなれば、やはり周囲が放ってはおかないであろう。山岳会の連絡事務所が、ずっと秀岳荘内に置かれていたというから、目一杯金井さんに迷惑を掛けていたに違いない。雑誌や会報の広告、イベントの協力と、みんな金井さんに甘えた。

何時も僕の頭の中には秀岳荘のことがあった。何かあれば秀岳荘なのである。金井五郎さんなのである。山党の心の中は金井五郎で一杯であった。何であろうか。不思議なことである。

しかしそれは簡単なことだ。金井さんが山そのものであったからだ。何時でも僕等を温かく受け入れてくれた。曲がったことは絶対受け入れないが、そうでなければ、少しのことには目をつぶって受け止めてくれた。温かくて安心していれた人なのだ。

こんなことがあった。

昭和四十二年に僕は中華民国の玉山へ行った。その折に持っていった秀岳荘のペナントを頂上で棚引かせ、背景に秀峰東山を入れた写真を撮った。それをパネルにしてお土直に持参した。金井さんはその時、そのパネルにちらっと目をやって「ホツ」と云って、後は何も言わずに数枚の紙幣を僕の手に握らせたのだった。

その後、何度秀岳荘を訪れたか知らないが、ついぞ一度もそのパネルを見ることはできなかった。何処か奥の事務のとるところへでも飾ってあるのかと思って見まわしても無い。金井さんはそういうことが嫌いなのである。僕は何とつまらぬことをしたものと、ずっと心の隅に引っ掛かていた。「つまらぬことをいたしました」と謝ることもなく、そのパネルのことはそのままになってしまった。 清廉の人-なのである。

その後、金井さんとは年賀状のやりとりくらいで、特に親しくお付き合いをしていたわけではなかった。

ある年から僕は、山と渓谷に「北の山」と題して、北の山のできるだけ一山一山の歴史や記録を短くまとめたものを連載していた。三年近くの連載になったが、その間、とても好評ですよと励ましてくれたのは山溪編集長の為国さん。そして一通の書状をくれたのは金井五郎さんであった。 例の太い大きい字体の達筆で「北の山は名文ですね。毎号楽しみにしています。頑張ってお続けください」と。

金井さんはひょこっとそんな事をする人なのである。かつて集金旅行の途中に、帯広に立ち寄ってくれた金井さんは、僕がエーデルワイス山岳会の会報か、あるいは地元紙かに寄せた拙文に目を留めてくれて「この通りですね。いい文章ですね」と云ってくれたことを、なぜか何時も心の片隅にあって、忘れられない出来事としていたのであるが、 前述のハガキを貰ったときも、やはり金井さんだと、いたく心に染みた。何時も何処かで心に掛けていただいているといった感じなのである

平成二年、僕は室蘭勤務となり、海岸町の官庁の集まっているオフィスにいた。

ある日突然金井さんの訪問を受けてびっくりした。お逢いできた嬉しさに、僕はそのくだりを地元紙のコラムに書いた。

「札幌秀岳荘」の主人

金井さんのお名前をご存知の方は少ないと思う。札幌秀岳荘といえば、山好きの人なら知っているかも知れない。金井さんはその秀岳荘のご主人である。もっとも今は悠悠自適で、経営の方は息子さんの代であるが。

その金井さんがひょっこり勤務先へ見えられた。僕はあいにく不在であったが、机の上にポッンと置いてあった名刺を見て、懐かしさで胸が一杯になった。久し振りの邂逅になるし、何より清廉な人柄が岳人の憧れになっていた人だから。

金井さんは北大の電停前に金井テントとして身を起こし、北大山岳部と共に成長して本格的な山道具の専門店へと変貌を遂げた。あまり山の道具の揃っていない時代を地方で過ごしていた僕等は、札幌へ出ると秀岳荘へ寄って目新しい用具を手に入れた。オーバーシューズや手袋、それにサブザックにヤッケ。僕等の身の廻りはすべて秀岳荘のもので固められていた。何の変哲もない小物入れなどは秀岳荘のマークが入っているだけで嬉しく、 ザックやヤッケと共にいまだに愛用品になっている。

金井さんは金の無い山男たちに、どんどん掛け売りをした。出世払いという人もいたかもしれない。そして一年に一度集金旅行に出掛けるのである。回収不能がよくあるようだったが、それでも金井さんは掛け売りをやめなかった。

自宅へ電話を入れると、洞爺へ保養に行っているという。勤務先を訪ねてくれたのも、その地からドライブがてらに室蘭まで足を延ばしてくれたものであった。すぐに飛んで行ったことは云うまでもない。頭はすっかり白髪になっていたが、小柄だが確りした体軀と身のこなしは、八十歳を越した今でも少しも変わってはいない。金井さんはヒョンヒョンと身軽に奥さんを車椅子に乗せて現れたのである。

今は何処へ行くにも家内と一緒だから大変です。一分たりと目を離すことができませんから、と云われる。奥さんはお口が不自由のようであったがニコニコといい笑顔ですっかり金井さんに頼りきっている。これのへそくりが突然出てきてびっくりしましたと金井さん。何か記念になるものをと考え、皆が寄れるヒュッテを向洞爺に建てましたとおっしゃった。そのヒュッテには一文字奥さんの名前が入っている。まったく昔と何もかも少しも変わっていないなあと僕は別れ際に金井さんの手を強く握った。

この文章はすぐに金井さんの手元に入った。記事を読んだ方が金井さんに知らせたものだった。その時金井さんは、その方に「滝本さんは古い友人です」と云ったというのである。決してそんなことではないのに、金井さんは何時もその様に人の心を傷付けないのだ。

それから金井さんは頻繁に事務所へ寄ってくれた。手紙もくれた。僕も手紙を待ち書いた。お逢いできる楽しみといったらなかった。

これからのことは、金井さんの最晩年のことを書くことになるが、天国の金井さんにお赦しをいただこう。お手紙の一部を掲載させていただくのもお赦しをいただこう。それは一番金井さんを良く知った数年間だったから。

平成三年二月

前略- それはそれとして、一度にどっさり読物を頂いて参っています。今まではどうせ先が短いのだからと、 昼食のときにも一杯やって、午后は一・二時間昼寝をしていましたが、今度はそんなことをしてはいられなくなり、あれを読みこれを読み、先日本屋から買ってきた『本多勝一の研究』も、まだ半分と読んでいないのです。更に「坂本直行伝」まで頂き、いやはやてんやわんやです。どれも早く目を通したく、夜中にも思いつくと起きて静かなスタンドの灯りで読んだりしています。

-中略- 私はこの頃年のせいか、若いやる気のある人を見ると「あなたは出来る。やれば出来る、やりなさい、やりなさい」とけしかけることがよくあります。光湖莊で新年会をやった時も、飲んでは何度もすぐ隣の大西牧場の大西さんにそう云いました。直行さんと私は三つ違いです。私はもう直行さんより二・三年長生きしました。

そろそろです。-後略-

これは洞爺へお伺いしたときのお礼のお手紙だと思う。 僕はなぜか金井さんに沢山の本を読んでいただきたいと思って、拙著なども含めてどっさり届けた。金井さんはそれがとても嬉しかったと見えて、その後のお手紙の中には、 何時もそのことが書いてあった。光湖荘とあるのは、前述のへそくりで建てたというヒュッテの名称である。奥様のお名前はみつ(光)子。

平成三年夏

前略- 先日は頂いた写真だけでも充分ご好意を感じておりますのに、更に引き伸ばしのアルバムまで頂いてお礼の申し上げようもありません。

「直行小伝」は一気に読ませていただきました。私の知らない直行さんの部分がはっきりとして、私の抱いていた直行像が更に鮮明になりました。もし滝本さんが、全体像を書かれる機会があるのでしたら、いくらか参考になるお話も出来るかも知れません。そんな機会がありましたら、私にとっても楽しい時間だと期待しております。

-中略-「北の山の栄光と悲劇」は心を躍らせて読んでおります。滝本さんの北の山の紹介は、単なるガイドブックではなく、全編これ詩ですね。他のガイドブックと全く異質のものです。-中略- 間もなく消えてなくなる私に、大きな感激を与えて下さったことに心からお礼申し上げます。またお逢いする日を楽しみにしております。

-後略-

「直行小伝」は、昭和六十一年に「日高の風」と題して山と渓谷に四回に亘って連載したものである。 金井さんは、坂本直行さんとは長い長いお付き合いで、刎頸の友であったと思う。僕が『北の山の栄光と悲劇』の中に直行さんのことを書いたくだりがあり、それを基にして「日高の風」を書いた。そのコピーを読んでいただいたものだが、金井さんに取材をしなかったことは、大いなる手落ちであった。結局、お話をきく機会を永遠に失してしまった。

この年には、日記調のものをいただいた。こんな日記を書いてみたので読んでください、と云ったものだが、これは日記というより、僕に対する手紙になっている。奥様のご病気のこともあり、心が千千(ちぢ)に乱れている。金井さんの愛妻ぶりは、とても言葉では云い表せない。淋しく悲しいとあった。

平成四年になって、金井さんは手術をされた。ストーマとパウチの生活をしていますと手紙にはあった。北区の開成病院に母の薬を買いにいっていた女房が、待合で金井五郎さん、と呼ばれる声を訊いて、何か訊いたことのある名前だとハッとして目を上げると、その金井さんはヒョンヒョンと例の軽い足どりで薬をとりに歩いていったという。 暫くして手術を終えた金井さんから一通の手紙が届いた。

御無沙汰をお詫びします。七月三日に札幌山岳会の四十周年記念祝賀会が催されます。私からの通知をしました。

小須田さん、金子さんは旧知の間柄ですから、多分乾杯の音頭位は覚悟しています。私もその時、滝本さんの 「北の山の栄光と悲劇」の中の札幌山岳会について書かれた次の点にふれて一言云いたいと思います。

札幌山岳会は、札幌山岳クラブから飛び出した熱血漢によって作られた事。日高山脈未踏の中の岳の初登頂を北大山岳部と競い合ったこと。厳冬期の利尻山に二名の犠牲を払いながら果敢に挑戦したことなどです。

札幌山岳会の出発と金井テントから秀岳荘への出発は、 やや時を同じくしています。なつかしい顔ぶれが揃っていると思います。又いつか滝本さんとお会い出来る日を楽しみにしています。家内が入院して寝たきりなものですから私の生活は乱れています。朝から一杯呑んでごらんのような書きざまです。多謝。

音信はこのあたりで途切れたように思う。平成五年は、 僕を長い公務員生活に別れを告げた年で、何かと多忙にうち過ぎ、何度かお店へ顔を出した程度で、また勤務地も函館になったこともあって、遂に突然の訃報に接することとなった。

何とも清廉な瑞々しい気持ちを何時までも、いや何時も湛え、若者のような気鋭と溢れるようなロマンチシズムを持ち合わせていた金井さん。

最晩年の数年間ではあったが、こんなに人と接するのが楽しく嬉しく心をヴイヴィットにして下さった金井さん。 本当にお礼を云うのは僕の方です。有り難うございました。

 

 

ここまで読み進んだ方は、もう立派な“秀ちゃん”ファンですよ


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