「雪の夕暮」 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より
窓を開けてお前はいう。
「また雪が降り出して来ました。
この雪はきょう一日 今夜一晩降りつづいて、
いよいよ私たちを世の中から
遠く柔らかく隔てるでしょう」と。
遠く、そして柔らかく・・・・・・
ほんとうにお前のいうとおりだ。
もしも此の世を愛するなら、
その美をめで、その貴いものを尊ぶなら、
私たちはそれを手荒く扱ったり 弄(もてあそ)んだり
なれなれしくそれと戯れてはいけないのだ。
つねに柔らかく接して、別れを重ねて、
私たちの愛や讃美や信頼の心を
ながく新鮮に保たなければならない、
もしも自然や人生や芸術から
生きる毎日の深淵な意味を汲もうと願うなら。
お前はいう、
「もう向うの村も見えなくなりました。
こんなに積もってゆく大雪では
あの娘たちも今夜は遊びに来ないでしょう」と。
そして私はいう、
「今夜は久しぶりでシュティフターを読もう。
それともカロッサにしようか」と。
【自註】
「お前」というのは勿論私の妻の事で、彼女は時どきこんな思い入ったような殊勝な言葉も洩らすのである。
又別の時だが、「おばあちゃんのお墓の上で、春が三度目のリボンをひるがえしています」などとも言った。
おばあちゃんとはそれより四年前に死んだ私の母の事である。
私たち普通の人間は大抵この世の毎日の生活や目にする物に馴れっ子になって、心情の上でも木目荒く粗雑に生きている。
本当は常にいくらかの隔たりを保って人間や世界に接しながら、あたかも長い病いから癒えた者のような感謝の念と新鮮な気持ちとで生きてゆくべきではないだろうか。
馴れればういういしかった初心も失われ、真実や美にも鈍感になり、尊重すべき人生に対して、悪く言えば、「すれっしからし」になってしまう。
私たち夫婦はこういう心で、オーストラリアの作家シュティフターやドイツのハンス・カロッサの書いた物を戦前から尊び愛していた。
それ故か「遠く柔らかく」の一語が契機となって、時も折、誰も遊びに来ない雪降りの夜を、久しぶりに彼らの『さまざまな石』か『指導と信徒』でも一緒に読もうという気になったのである。
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すれっからし【擦れっ枯らし】
さまざまな経験をして、悪賢くなったり、
人柄が悪くなったりしていること。
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すれっからし【擦れっ枯らし】
さまざまな経験をして、悪賢くなったり、
人柄が悪くなったりしていること。
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