今回の企画の「尾崎喜八 アラカルト20詩」とは別ですが、
『心豊かに生きる或る秋の朝』が感じ取れる、
とても好きな「秋の詩」ですので、「自註 富士見高原詩集の中」の中から、取り上げます。
*詩と「自註」の間に、私の好きなピアノ曲を付加しました。よろしければ、今宵、聴きながら、詩をお読みいただければ幸いです。
或る晴れた秋の朝の歌
又しても高原の秋が来る。
雲のうつくしい九月の空。
風は晴れやかなひろがりに
オーベルニュの歌をうたっている。
すがすがしい日光が庭にある。
早くも桜のわくらばが散る。
莚(むしろ)や唐箕(とうみ)を出すがいい、
ライ麦の穂をきょうは打とう。
名も無く貧しく美しく生きる
ただびとである事をおまえも喜べ。
しかし今私が森で拾った一枚のかけすの羽根、
この思い羽の思いもかけぬ碧さこそ
私たちにけさの秋の富ではないか。
やがて野山がおもむろに黄ばむだろう、
夕ぐれ早く冬の星座が昇るだろう。
そうすると私に詩の心がいよいよ澄み、
おまえは遠い幼い孫娘のために
白いちいさい靴下を
胡桃(くるみ)いろのあかりの下で編むだろう。
【自註】
フランスの作曲家カントルーブが収集し編曲した民謡集『オーヴェルニュの歌』を私は以前から好きだった。オーヴェルニュというのはフランス中南部の火山ピュイ・ド・ドーム、モン・ドール、カンタルなどを中心とする高くて広い一大山地帯の総称で、日本の地理学の古老辻村博士はこの地方を「フランス中央高台」と呼んで殊のほか愛された。
私はそのオーヴェルニュに古くから伝わっている数多い民謡の中でも、哀調を帯びてしかも剛健な幾つかの羊飼いの歌を特に好きだった。毎年自然が漸く秋の色に変って来る頃、私はまずこの歌を心に浮かべて山や高原への憧れを募らせたものである。
そして今やその高原に居を定めて、文学の仕事のかたわら馬鈴薯や豆やライ麦など、ささやかな畑仕事もやっている私たち夫婦だった。
無名でも貧しくてもそんな生活を正しとして心豊かに生きている或る秋の朝、森の中で一枚のカケスの羽根を拾ったのである。「思い羽の思いもかけぬ碧さこそ」の思い羽とは、一般に鳥類の尾の両脇に装飾のように顕著な色をしている羽根の事で、ここでは実相を描くと同時に掛け言葉の役割も果たさせている。
「遠い幼い孫娘」というのは、上諏訪の病院で生まれてしばらくここの私達のところで育てられていた美砂子の事だが、その頃はまだ二歳で東京の両親のもとへ帰っていた。また第三聨の「名も無く貧しく美しく」の句は、この詩が出来てから約十年後、切に望まれて或る映画の題名にもなった。
※自註とは
喜八自身が自分の詩に註釈を施し、或はそれの出来たいわれを述べ、
又はそれに付随する心境めいたものを告白して、読者の鑑賞や理解への一助とする試み。
【ご参考】高原のミュージアム
http://huwaku3028.com/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/085d2c76eb36ab5ef68acfbc589579f7.pdf
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