この文章は、本日掲載の「その後の祖母のこと」という文章の続編です。
その後祖母の容態は徐々に悪くなっていったようだ。病院は国東市民病院のまま。確かにここだと叔母の家からもすぐ近く、見舞い、看病にも行きやすく、何か急なことがあっても対応しやすい。6月になってから、母親から連絡があり、いよいよ祖母も危ないのではないかということで、他の親族にも祖母のことを知らせたらしい。また、4月に僕が一度見舞いに行ったことを知らない親族は、僕にも知らせるように言ってきたらしく、大分にまた見舞いに行くことになった。
祖母の病気は、末期すい臓がんだけれどももう広範囲に転移しているらしい。6月2日に僕は午後の飛行機で大分に向かう。三女の叔母の出迎え。滞在中は、母親と関西の叔母は四女の叔母方、僕は三女の叔母方に滞在する。見舞いに行くと祖母は4月のときに比べずいぶん弱っているようで、4月のときは起き上がったり、もう少し流暢に話ができたのに、もう今では寝たきりで、よく聞き取れないような話しをするようになっている。それでも叔母の話だと5月の終わりに比べると少し持ち直したようだという。
何とか元気になってくれればいいと祈るような気持ちであった。少しは話ができた。やはり僕の健康と就職の心配をしている。気がかりなのだろう。僕は休みを取って見舞いに来たと告げた。弱々しく力のなさそうな祖母。
翌3日は、僕は一度午前中に見舞いに行くが、母親が言うには、昼間は医者、看護婦が頻繁に来て、診察、入浴、身の回りの世話をするらしく、夕方以降来た方がいいとのこと。看護婦さんなどがすごく良くしてくれるそうだ。僕は寝不足気味で、関西の次女の長男(僕から見ると従兄弟)が日帰りで見舞いに来るそうだ。あわただしいようなので僕は病室を去り、安岐の川沿いを少し歩き三女の叔母宅に戻る。
叔母の家に着くと、関西の次女の長男(従兄弟)が三女の叔母宅に来ていて、ちょうどこれから病院の祖母宅に向かうところだった。従兄弟とは今回チラッと顔を合わせただけだったが、26~29年ぶりくらいに顔を合わせるような気がする。ずいぶんと久しぶり。今回は話もしなかったが、子どもが生まれたばかりで、中京地区の某私立大学で講師をしているらしい。元気でがんばっているのだろう。あとで調べたら、大学の研究室の本人のホームページが見つかった。
僕はこの日から夜だけ祖母の見舞いに行くことにした。それ以外はただ叔母の家にいた。読書でもしようかと本を数冊持っていったが、とても集中できるような状況ではなく、ほとんど読まなかった。祖母のほうは、昼間僕の母親が看病し、夜は三女の叔母が看病する。昼間時々、次女の叔母も看病に来る。四女の叔母は仕事をしているので、朝夕に母親の送りとどけをする時と土日に病室に来る。
僕は6時半ころからだいたい8時前くらいまでいて、叔母の家に戻る。叔母はそのまま病院に残り看病という形であった。実際には微妙に違うときもあるようだが、だいたいこんな形だったようだ。見舞いが多いと祖母も疲れるようで、あまりきちんとしゃべることができない。でも日によっては割りとおしゃべりがスムーズにできるときもある。そんな状態を見ると厳しいのは承知しているが、何とか持ちこたえそうな気もしてくる。
三女の叔母の長男(これも従兄弟)も見舞いに来る。祖母を励ましていた。祖母もこのころには自分の病状はもうほぼわかっていただろう。厳しい状況であることも。僕もそうだが、他の親族の発言を見ても、ついうっかりなのだと思うが、祖母の死を想定したような発言が出てくる。そばに祖母がいるような状況でそんな話をする。もうやむ得ないというか、そんな気持ちになる。近いうちに死ぬのは確定だが、何とか少しでも持ちこたえてほしい、というような気持ちが支配的になっているのだろう。みんなも病状について祖母に隠そうという意識が低下しているように思える。
6日くらいになり、祖母が持ち直しはじめたようで、いつまで僕らが大分に滞在するかという問題になってきた。関西の叔母と僕の母親は交代で母親の面倒を見ようということになった。
僕は東京に戻ることを考え始めたのは、周囲の人間の不自然なまでの僕に対する行き過ぎた干渉である。たとえば母親は僕に対し大分にいる間も出歩くように言う。僕が太っていて健康が心配であり、ダイエットが必要という。毎日続けることが続けることが重要だと。だからウォーキングをやれという。ある部分それはもっともな意見であろう。しかし自分は大分に祖母の見舞いに来ているのだ。もう長くはないだろうといわれている祖母の見舞いに来ているのだ。ところがあれこれ言われ一日に一時間半しか会えず、ウォーキングをやれといわれている。何しに大分まで来ているのか。親など周囲の対応にも反発を感じ始めていた。僕はこのまま大分にいても一日1時間半しか会えず、祖母の病状もなんだかもう少し持ちこたえそうにも思えたので、一度東京に戻ることに決めた。
母親もそれとは別にやはり同じ8日に関東に戻ることにしたようだ。
僕は8日午前にまた病室に行き、祖母に挨拶をした。「また会いに来るから、元気で」。祖母も手を振っていた。
叔母の車でJRの杵築駅へ。叔母はしつこく母親と僕が仲直りするように勧めるが、叔母は僕の母親をわかっていないし、わかろうとしていない。僕と親が仲が悪いのは、祖母のせいではない。何度言ってもわからないらしい。わかろうとしていない。やはり僕と親や親族をつなぎとめていたのが、祖母。その祖母が死ぬということは、つまりどういうことなのか、うちの親や親族はわからないらしい。
うちの親や親族もおかしなもの。もう祖母に何度も会ったから満足だろう、などと言い出す。そんなものか。僕にとって身内で最も近い存在の祖母に何度も会ったから満足なら、親や叔母なども何度も会ったからもう十分だろう。
祖母は何かと悪者にされやすいところがある。祖母の性格上の欠点もあるが、それだけではない。親族が、祖母の気持ちを必ずしも正確に受け止めていないのに、「おばあちゃんが言ったから」、「おばあちゃんの気持ちを考えろ」などと他人の問題に関して勝手に祖母の気持ちを利用することもある。祖母に一方で問題行動をするように仕向け、他方でその祖母の行動をたしなめるような親族もいた。祖母の問題行為の背後には黒幕がいたのに、そいつは悪者にされず、祖母だけ悪く言われたり。弱そうなやつを悪者に仕立て上げ、本物の悪は平然と生きていく。祖母は実際以上に悪く言われ過ぎている一方、それを利用して優遇されているやつもいる。
正直なところすごく寂しい気持ちで特急、新幹線を乗り継ぎ、東京に戻った。
祖母のことについては続編として「祖母の葬式」というタイトルでこのあと文章を掲載します。