この文章は少し前のことを書いた文章。4月27日から僕は大分に行った。そのときのこと。
その少し前4月16日(14日?)に大分県の国東市(今年3月まで東国東郡の安岐町)に住む祖母から電話があった。久しぶりに電話で話をした。風邪で熱があったそうだがもう良くなったといっていた。年齢が93歳ということもあり、不安にも感じるが、元気になったのだろうと安心した。
ところがその直後、千葉県に住む母親から連絡があった。祖母が入院した。病名は末期すい臓がんだということ。びっくりした。母親は一足先に大分に向かった。僕は若干の私用を済ませ、少し遅れて大分へ向かった。祖母の子どもは4人。もともと5人きょうだいだったが一人早逝。現在は4人で全員女性。長女が僕の母親で千葉県在住。次女は関西在住。三女、四女が大分県国東市の安岐地区在住。先祖の家督を相続しているのは三女夫婦。最近では祖母もずっと三女夫婦と暮らしていた。
同じ国東市旧安岐地区の朝来というところが、僕の育ったところであり、祖母が長く生活したところでもあり、僕の母親ら四姉妹の生家でもある。その家は今では三女夫婦が農作業のために時々立ち寄る程度で、日ごろは無住になっている。
祖母の病気のことは4人の姉妹で話をして、祖母や僕たち孫の世代には一切伝えないことにしたらしい。知らせると祖母が落ち込んで病状に良くないだろうという配慮、孫が次々と見舞いに来て祖母が自分の病状に気づくのではないか、知らせないほうがいいだろうと考えたらしい。祖母の病気については四人の姉妹だけの秘密にして、その亭主たちは知っているだろうが、僕たち孫の世代には知らせないということで話がまとまったらしい。
だけれども僕は子どものころから祖母に育てられた。高校を卒業するまでほとんど祖母に育てられた。僕が誰よりも祖母を慕っていることは母親も知っている。母親はこっそり他の姉妹には知らせず、僕にだけ教えてくれたらしい。そして僕は母親に話を一部合わせ、叔母や他の親族に会わずに祖母の病気見舞いに行くことになった。
三女夫婦の家のほうが病院に近く便利なのだけれども、ちょうど三女夫婦の娘(僕から見るといとこ)に子どもが生まれたばかりで、ばたばたしている。もちろん三女夫婦の娘も祖母の病気は知らない。母親は四女の家に泊まる。次女も大分では四女の家に泊まっていたが、次女も息子(僕から見るといとこ)に子どもができたということで関西に戻っていった。
当初の予定では5月のゴールデンウィーク中まで大分に滞在し、一度東京に戻ることを考えていた。ゴールデンウィーク中ということで、宿泊など予定が立てにくい。それに他の叔母やいとこには知られないように見舞いに行くということで、僕はホテルか旅館に宿泊することになった。最初に一泊目が思うようにホテルが決まらず、大分市内の駅に近いところに宿泊。ここはもう何度も利用したビジネスホテルほがらか。夜は府内食堂で食事。
翌日28日朝早く大分空港行き特急バスに乗る。国東市の安岐地区は大分空港のあるところで、空港を利用しない場合でも、このバスが便利。祖母の入院している病院は以前、東国東広域病院といったが、今年3月に市制施行に伴い、国東市民病院となっていた。空港からバス停で三つくらい戻ると国東市民病院につく。
携帯電話で母親に連絡を取る。母親の話だと祖母は余命1ヶ月だそうだ。病室に行く。祖母はここのところ食欲がなく、点滴ばかりだという事で弱っているようだ。また腹痛が続いているらしい。昨年11月に別府で会って以来、久しぶり。ずっとそばにいると疲れてしまうらしい。ロビーや休憩室に行ったり、また病室へ戻ったり繰り返し、少しずつ祖母と話をする。
祖母は何より、僕がまだ就職していないということに対し、あまりよく思っていないらしい。見舞いになんか来なくても良いからさっさと再就職先を決めて、それで安心させてもらいたいらしい。しばらく大分に滞在するつもりだったが、早く東京に戻って再就職をするように勧められる。母親も完全看護の病院でもあり、ずっといても祖母が疲れて眠ってしまうので、ロビーや休憩室に行く時間が長くなるらしい。関西の次女もまた大分に来るらしいということで、母親も予定を切り上げて早めに一度千葉県松戸市に戻ることにしたようだ。
僕も仕方なく従うことにした。僕はその日国東市の大分空港ホテルの宿泊予約をしてあったのでそこに行く。広い部屋だった。近くにコンビニファミリーマートもある。ここら辺は僕が国東高校の生徒だったころ2年の夏以降、毎日バスで通学した道路。通学の半分は自転車だったけれど。望海苑やいこいの村はすでにあったが当時まだ大分空港ホテルはなかった。初めての宿泊。
翌日病院に行こうとしたら、母親から連絡。三女の叔母夫婦が病院に寄るらしい。その時間を避けて病院に行くことにした。病院に着くと食堂に行く。なかなか良い感じの食堂。それから病室へ行き、また話をする。昨日よりは少し元気そうだが、相変わらず腹痛が治まらないらしい。ずっと祖母に心配をさせ、世話を焼かせ続けたのに僕は何もしてあげられない。
昼過ぎ母親はちょっと買い物に行く。僕は病室の祖母のところに行く。祖母の話し声が聞こえる。母親がもう病室に戻ったのかと思い、うっかり話しかけたら三女だった。他の人間に知られないようにということだったのに、よりによって三女の叔母とばったり顔をあわせてしまった。叔母とは外で少し話した。母親に聞いていた話とかなり違う面がある。
もともとうちの親族の話というのは、本人に直接話を聞くのと間接的に話を聞くのでは、大きな違いがあることが珍しくない。しかもそれを利用している部分があるから、うちの親族とは付き合いにくい。母親は適当に話しをあわせておけば良いというが、あまりにも事前に聞いていた話と事情が異なる。話をあわせられない。ばればれになってしまった。叔母は家に帰っていった。
しばらくすると母親が戻ってきたが、母親はすごく怒り出した。適当に話しをあわせておけば良い、これでは自分が叔母たち(母から見て妹)から悪く言われていしまうと嘆く。確かに母親は僕に気を遣ってこっそり教えてくれたのだから、立場上まずいのだろう。でもこちらにしても今回の話は不自然なところ、どう見ても整合性がないのに整合性があるとされているところ、どこまで話をあわせてあり、どこから話をあわせていないのか、すでに混同されて事実誤認になり、話としておかしい部分が出てきている。それでいて話をあわせろ、適当にあわせておけば良いといわれても対応に苦慮する。
母親と言い合いになったが、難しい部分もある。叔母たちもそれぞれに言い分があって勝手なことを言っている。話はめちゃくちゃになる。祖母のことを気にしつつも、何もできない無力感。祖母の部屋に行く。窓際の部屋で海が見える。大分空港に着陸する飛行機も見える。目の前は小学校。景色のいい部屋である。具合は悪いのだろうが、普通には会話できる。ずっと長くいると疲れるらしい。しばらく話をして、祖母がトイレに立つとき、少し早めに僕は部屋を出て、病院の前のバス停のベンチに座る。
もう祖母に会えないのかな。僕は多くの人間にでたらめな噂を流し続けられている。誤魔化そうとし、自分の行動を正当化しようとする人間もいるかもしれないが、攻撃の頻度がものすごく多い。親ですら僕のことを信用せず、語呂合わせや駄洒落を当てはめようとする。他の親族も僕に対する信用はない。僕も相手を嫌う。そんな中で唯一僕の発言や心情を信用してくれているのが、祖母である。もちろん十分信用しているわけではなく、祖母も母親や他の親族よりの姿勢を示すことも多い。
それでも半分は祖母は僕を信用してくれているらしい。いわば世界でたった一人の理解者である。その祖母があと一ヶ月の命。こんなことなら、もっとやっておくべきことがあった。ここ数年僕は祖母とゆっくり話しをすることができなかった。叔母の家にいると叔母が一緒にいることも多く、母親がいると母親が一緒にいることが多く、祖母とゆっくり二人で話をすることは少なかった。もっといっぱい話をしておけばよかった。話したいこともあったのに、ほとんど話せなかった。ここ数年ずっとそうだった。人生とはある面こういうものなのだろうが、無念である。
僕はホテルに戻る。母親からは携帯に電話があるが、もう話がおかしくなっている。僕が29日に東京に戻るつもりで話をしている。僕は30日に戻るといってあった。母親も自分自身の思惑もあり話がどんどん変わっていく。それにあわせていたら、むやみにホテルをキャンセルばかりになるだろう。相手の判断に任せればよいのだ。僕はせっかく国東まで来たのだから、一日だけ街をぶらっとしようと考えていた。そのあと僕の携帯電話が故障した。
ホテルから海のほうに出る。ごみがある。でも少ない。僕が小学生のころ安岐の五馬の松原という海岸に行くとごみが大量に打ち上げられていて、野球のボールもいくつも見つかるので拾って回ったことがあった。それに比べるとここはごみが少ない。海に突き出た堤防は鳥の糞で汚いので行かない。小原というところの清流川の横を通る。橋を渡り海岸のほうへ。僕は国東高校卒だけれども、このあたりに来るのは初めて。ちょうど国東中学校の向こう側の海岸を通るが、海岸から見上げるようなところにお墓がたくさんある。ここら辺は海岸にお墓が多い。
途中でしばらく海を眺めていた。祖母のこと、話として変なところもある。病気が間違いであってほしい気もする。深い脱力感。漁港のところからマルショクに行く。ここは僕が高校生のときにすでにあった。店の一角にうどん屋があった。手前の百龍というラーメン屋に入る。少し位置が違うように思うが、この店は僕が高校生のときもあった。でも一度も利用したことがなかった。高校時代、同級生はあまり美味しくないといっていた。でも今回食べたら結構良い。素朴な美味しさがとても良い。
マルショクのお惣菜売り場で買い物。裏の川沿いのところで景色を見ながら食事。通りがかる人が気さくに「こんにちは」と声をかけてくる。田舎はこういうことは珍しくないが、僕は見覚えがない。知っている人だろうか。僕の高校時代の同級生にしてももう20年以上あっていないから、今見ても紹介されないとわからないだろう。
自転車競技の格好をしている人もいるがこれはなんだろう。東京でも時々見かける。競輪をやるなということか、別にやる予定はない。マルショクに戻り、白い餡のタイヤキやお菓子を買う。警察の近くのバス停にいたら、初老のおじいさんが話しかけてくる。顔つきを見るとなんとなく見覚えがある。誰だろう。もしかして知っている人か。よくわからなかった。バスでホテルに戻る。
なんだかぐったりしてしまった。翌日30日東京に戻ることにした。JRの利用。うっかり7時ごろホテルを出てしまった。バスがあるだろうと思ったら、次のバスは8時過ぎで1時間バス停で待つ。通りがかる人が挨拶をしてくれる。田舎では確かに普通だけれども、知っている人なのかな。平日だとJR杵築行きのバスがあるけれども日曜日でない。日曜は特にバスの本数が少ない。大分行きに乗り杵築バスターミナルで降りる。途中、国東市民病院の前を通る。
杵築バスターミナルで降りる。ここは祖母に何度も連れて行ってもらった街。僕は子どものころ特に幼稚園から小学校低学年まで病弱で、病院通いが多かった。ここの杵築中央病院に連れられてきた。歯医者は広岡歯科医院。病院にはいる道のちょっと先にあったお好み焼きやたこ焼きの店、バスターミナルの中にもたこ焼きの店があった。結構好きでした。寿屋やずっと以前にあったマルヤの飲食店、祖母に連れて行ってもらったことを良く覚えています。
バスターミナルも以前はもっと大きく、裏側にスーパーがあった時期もある。大分交通のバスだって僕が子どものころ特急だけでなく急行があった。杵築も変わったようでいて、変わっていない部分も多い。祖母との思い出と重なる部分が多い。その部分については、他の人は誰も知らない。
JR杵築駅行きのバスに乗る。国東観光バスという。据場、新道、宗近を経由していくバス。宗近は今は亡き祖父の姉に当たる人が住んでいた。白い服の若い男が乗っている。僕を知っているのかな。僕のほうはわからない。JRの駅に着く。ここの駅も思い出深い駅。何度も利用した。幼稚園のころ関西に住む叔母がのところに祖母と一緒に行ったときこの駅から寝台列車で関西へ向かった。車窓から見える色とりどりのネオンサインが印象的だった。
大学入試で関東に僕が来たとき、すでに親は松戸市に移り住んでいたが、僕はそこに向かった。当時関西の次女の叔母が具合が悪く、祖母が家事の手伝いにその叔母の家に行くことになった。祖母は自分の娘の出産や病気のとき、手伝いにしばしば行っていた。JR杵築駅から僕と祖母は同じ特急に乗り、小倉で新幹線に乗り換える。祖母は京都で降り、僕は東京に向かった。大学入試で僕は学習院と法政に合格、学習院に入学。祖母はとても喜んでくれたようだ。ずいぶん前の話になるな。杵築駅で切符を買う。臨時の特急があるということでそれで早めに帰ることにした。30日夜には東京の自宅に戻っていました。
僕に対するする四方八方からの嫌がらせ、とどまるところを知らないようです。相変わらずのデマ、付きまとい、語呂合わせや駄洒落を当てはめる行為、暗示にかかりやすいのでっち上げ、二者択一や消去法、絶対評価、相対評価の悪用、反対のことばかり言うの決め付け、プライバシーの侵害などの嫌がらせは相変わらずすさまじく続いているようです。さらに続いて、祖母がらみのおちょくりも増えてきました。プライバシーの侵害という立場からは知らなかったでは済まされないでしょう。許す必要もないでしょう。
携帯電話は故障していましたが、新品と交換になりました。祖母にせめて喜んでもらうのは、早めに再就職するしかないのですが、一社面接に行って不可。周囲の嫌がらせも相変わらずすさまじく、自分自身の気持ちをもすっかり滅入り、とりあえず再就職活動は延期することにしました。再就職活動は今年11月以降、場合によっては来年です。
祖母がすごく心配しているらしく、仕方なく三女の叔母が僕がもう就職が決まったと言ったそうです。祖母はどうしているだろう。本来なら僕自身が祖母に就職が決まった報告をしないといけないのに。このままだと生前、報告するのは無理だし、ウソの報告をするのも三女の叔母などに祖母にどう説明したか聞かないといけない。三女の叔母に連絡するのも事情があって直接は無理そう。もう何もできない。結局祖母が生きているうちは、僕は祖母に何も恩返しはできなかった。何も良い報告はできなかった。
ただ世間は理由はどうあれ実情はどうあれ僕を悪者にしたがっている。せめて墓前にでもきちんとした報告をしたいが、僕に対する嫌がらせのすさまじさを見ると、どうなるかわからない。人の心は本当に汚い。
祖母のことについては続編として「その後の祖母のこと」というタイトルでこのあと文章を掲載します。