もう4月が終わります。多くの大学では,この連休期間中の間に履修届けを提出させるというところが多いかと思いますが,ここ数年,大学で大きな変化が出てきており,教務課を悩まさせている問題があるそうです。
それは,「履修要綱が読めない」とか「意味が分からない」学生が急増しているとのことです。
日本語っていうか,国語の試験突破してきたはずじゃあ
ニュースソースが行方不明ですが,今,大学生の国語力低下が非常に問題になっており,国立大学の6%,私立大学の12%程度の学生が「中学生程度の国語力」しかなく,中には「20%近くの学生が中学生程度」となっている大学もあるそうです。
その結果,履修届けの際に,あまりに初歩的な質問が出て困るとのことです。例えば,「怠惰」や「まめに」などの言葉の意味すら分からないなどというものです。当然,教授が書いた履修内容の意味がまったく分からず,「で,この先生,何教えてくれるの?」と質問してくる学生が増えているとのことです。
もちろん,履修届けだけの問題にとどまらず,授業でも大きな問題となっているようです。例えば,英語の授業では,「often」の意味を「しばしば」といっても,「しばしばってどういう意味?」と聞かれる上,「よくあること」などと答えると,逆に英作文のときに「しばしば」は「よくあること」ということから「good there」などと訳してしまい,当然意味不明な英語となってしまうという状態になるそうです。
これはあくまでも例ですが,実際は本当に「教科書の意味が分からない」という学生が多いみたいです。ここでいう「教科書の意味」とは,講義の内容ではなく,「普通の日本語」のことです。
これを「ゆとり教育の弊害」という言葉で片付けてしまうのは簡単なのことです。しかし,ことは深刻です。この調子では,近い将来「日本語の分からない社会人」が日本中にあふれてくることになります。そうなると,コミュニケーションができるのか,平たく言うと「商談ができるのか」疑問が出てきます。そして,もっというと,国際的な取引になると,いよいよ「意味不明な外国語」での取引となり,やがては「Japanとの取引は,いつも意味不明。だから取引はNoね」などといわれかねないのではないでしょうか。
以前,私は「やっぱり国語算数理科社会」の記事の中で,「小学校では英語教育よりもまず国語など基礎学力の強化を」を主張しました。もちろん,小学校での英語教育を全否定するつもりはまったくありません。有用性は十分に認められるでしょう。
ただ,やはり「自分の伝えたいことを相手に正しく伝える」というのがコミュニケーションの基本ですから,その基本ツールたる日本語を正しく扱えるようにすることがまずは重要であるといえるでしょう。
私自身,正しい日本語が使えているわけではありません。家庭内で正しい日本語を使っている方もかなり減ってきているのではないでしょうか。とすると,最後のよりどころは「学校」しかありません。
今こそ,日本語教育の充実,これを本気で考えるべきでしょう。さもないと,数十年後,日本では日本語ではなく,数人にしか通じないような「意味不明な方言」が横行してしまうことになりかねません。
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http://ameblo.jp/kokkeibon/entry-10032337053.html
それは,「履修要綱が読めない」とか「意味が分からない」学生が急増しているとのことです。
日本語っていうか,国語の試験突破してきたはずじゃあ
ニュースソースが行方不明ですが,今,大学生の国語力低下が非常に問題になっており,国立大学の6%,私立大学の12%程度の学生が「中学生程度の国語力」しかなく,中には「20%近くの学生が中学生程度」となっている大学もあるそうです。
その結果,履修届けの際に,あまりに初歩的な質問が出て困るとのことです。例えば,「怠惰」や「まめに」などの言葉の意味すら分からないなどというものです。当然,教授が書いた履修内容の意味がまったく分からず,「で,この先生,何教えてくれるの?」と質問してくる学生が増えているとのことです。
もちろん,履修届けだけの問題にとどまらず,授業でも大きな問題となっているようです。例えば,英語の授業では,「often」の意味を「しばしば」といっても,「しばしばってどういう意味?」と聞かれる上,「よくあること」などと答えると,逆に英作文のときに「しばしば」は「よくあること」ということから「good there」などと訳してしまい,当然意味不明な英語となってしまうという状態になるそうです。
これはあくまでも例ですが,実際は本当に「教科書の意味が分からない」という学生が多いみたいです。ここでいう「教科書の意味」とは,講義の内容ではなく,「普通の日本語」のことです。
これを「ゆとり教育の弊害」という言葉で片付けてしまうのは簡単なのことです。しかし,ことは深刻です。この調子では,近い将来「日本語の分からない社会人」が日本中にあふれてくることになります。そうなると,コミュニケーションができるのか,平たく言うと「商談ができるのか」疑問が出てきます。そして,もっというと,国際的な取引になると,いよいよ「意味不明な外国語」での取引となり,やがては「Japanとの取引は,いつも意味不明。だから取引はNoね」などといわれかねないのではないでしょうか。
以前,私は「やっぱり国語算数理科社会」の記事の中で,「小学校では英語教育よりもまず国語など基礎学力の強化を」を主張しました。もちろん,小学校での英語教育を全否定するつもりはまったくありません。有用性は十分に認められるでしょう。
ただ,やはり「自分の伝えたいことを相手に正しく伝える」というのがコミュニケーションの基本ですから,その基本ツールたる日本語を正しく扱えるようにすることがまずは重要であるといえるでしょう。
私自身,正しい日本語が使えているわけではありません。家庭内で正しい日本語を使っている方もかなり減ってきているのではないでしょうか。とすると,最後のよりどころは「学校」しかありません。
今こそ,日本語教育の充実,これを本気で考えるべきでしょう。さもないと,数十年後,日本では日本語ではなく,数人にしか通じないような「意味不明な方言」が横行してしまうことになりかねません。
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http://ameblo.jp/kokkeibon/entry-10032337053.html
http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070430/gkk070430000.htm
国語だけなら大学生どころか20代の後半の方でもかなり言葉を知りません。正直、仕事の話をしていて意味をわかってもらえてないこともしばしば。
さらに、私の職場は某大学工学部の売店ですが、コピー機を使えない学生がいたりします。難しい使い方ではなく「どうすれば使えるのか?」がわからない。「工学部だったらそれくらい直感でわかってくれー」、と思うのですけど、どうもそういう次元の話ではないみたいです。
大学生にもなるのに「コピー機なんて見たことねえ」って生活をしてきたなんて考えられますか? でもそれが現実にあるんですよ。
思うに、人工的に作られた公園で遊び、ルールの決まったスポーツしかやったことがないとか、何でも買い与えられて育てられ、「あれは危険だからダメ」とか、「汚いからさわらないように」とかで、非常に限られた範囲のことしかやってない人間が量産されているようです。
結果、言葉がわからないだけではなく、経験値も非常に低く、イレギュラーなことにはまったく対応できないという非常に幅が狭い人生を送らされてきているんだと感じます。
ものづくり大国ニッポンの先が思いやられます。
でもまあ我々だってお年寄りから「ものを知らんのう、最近の若い者は」と言われて育っているので、そんなものなのかもしれませんが。
いずれにせよ、自らが率先して調べたりしない限り、学校も教えなくてもいいのではないのでしょうか?少子化と言われていても、中退の履歴は彼らにツケとして反映されていきますし、それも嫌なら聞くことです。
つまるところ、彼らの今後は「聞く」か「辞める」かの二択と思います。
ニュースソースありがとうございました。産経ですね。そこだけ探してませんでした(^_^;)。
さて,最近思うのは,「こいつらテレパシーで会話してるのか」ということです。電車の中でうるさく話す学生(これはこれで空気読め,っていいたいのですが)の会話を聞いていると,全くかみ合っていません。しかし,当事者間ではどうやら会話が成立しているみたいなのです。
いったい,お互い何を分かり合えたのか,本当に疑問ですが,しょせん他人の会話なので,私も本気で聞いているわけではありません。したがって,ひょっとしたらちゃんとキーワードは言っているのかもしれません。
それにしても,・・っていうことが多いため,ひょっとしたら「テレパシー?」と感じたわけです。
そうだとしたら,ものすごく進化した人間なのですがねえ(笑)。
あとは,おっしゃるとおり,「量産型人間」が増えているのは確かです。命令がないと動けない人が多いです。正直,私の世代もそのような人は多く,私自身も実はその部類に属するのかなあ,って感じることもあります。
いかんいかん,自分で考える訓練をしよう!
今の小中学校の学習塾の先生方が悩んでいるのは,「すぐに結論を知りたがる子供が多い」ということのようです。
つまり,問題を考えることをせず,また調べることをしないで,「で,答えは?」と聞いてくるらしいです。
「自分で調べろ」というと,「この塾,勉強教えてくれない」と親から苦情が来るという非常におかしな状態にあるみたいです。
分からなければ自分で調べる,というのが基本かなあ,っておもいます。
一方で,ネット社会なので,結構自分でネットを使って調べる人も多いと思います。ただ,それもよくよく見ると,掲示板に「**知っている人,教えて」みたいな感じで掲載している場合が多いですね。これも厳密には「調べる」には含まれないでしょうね。
確かに,現代国語や古典はそれなりに点数取れるのですがねえ。
「英語の点数がとれても話せない日本人」と実は結構同じ問題点があるのかもしれませんね。
誤字については,私自身,あまり人のことをいえる状態ではないのですが(^_^;),それにしても,テレビや本などいわゆる「プロ」の文書などでも誤字が多い点は非常に気になります。
ただ,パソコンになれてしまったせいか,最近では「漢字を自書する」時に簡単なものでさえ思い出せない場合があります。
デジタル社会の弊害といわれればそれまででしょうが,たまには「手で字を書く」ということを練習した方がよいのかもしれませんね。
そう考えると,最近の若者達は小学生の頃からパソコンで育ってきている世代です。ひょっとしたら日本語を知らなくなった理由の一つにこの「デジタル社会」があるのかもしれませんね。
いずれにせよ,日本語がちゃんとできなければ当然英語はできない,そもそも国際的なコミュニケーションは取れないと思います。国際社会の仲間入りを目指すのであれば,やはり「国語」からですね。
きっと、50年前、いや30年前だったら大学生になっていなかったであろう人が、大学の先生達を養うために、授業料を納めているのが実態というところもでてきているのではないかと思います。
ある季節になると新聞に大学院の広告がいっぱい出ます。就職するのが大変であれば、ウチへどうぞ、こちらへどうぞと、大学経営者側が勧誘に必死のように見えてしまいます。
授業料さえ払ってくれれば、入れてくれる大学(大人サイド)がある限り、のんびりとした学生はいなくならないでしょうね。
もちろん,大学生の多くはちゃんと日本語ができるのでしょうが,おっしゃるとおり「日本語ができなくても入学できる」という試験システムの大学も増えてきていると思います。
大学も少子化対策として学生確保に躍起になっています。それがカリキュラムなど正攻法で攻めている大学ならば問題ないのですが,中には「とにかく来てね」的なノリの大学もあり,そういう場合,入試はかなりアバウトになってしまいます。
もちろん,大切なことは,「大学に入学すること」ではなく,「大学で何を学んだか」にあるのですが,現在の日本の大学では,「入学式が卒業式」というようなところもあるくらいですから,レベルが下がるのも仕方ないのかもしれませんね。
もっとも,自分自身,大学で何を勉強したかといわれると,かなり自身がありませんが(^_^;)。