気ままなSE(システムエンジニア)のお気楽日常ブログ

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私が歴史を好きな理由 色んな考察を行う楽しさ♪♪

2023-03-13 07:00:00 | 歴史
こんにちは〜!チーム株式会社の緒川修(おがわおさむ)です!!
今日は何故、私が歴史を好きなのかを書いていきます!



ちなみに私は理系であったため、特に大学とかで歴史を研究したとかいうことはないです。

色んな話に触れているうちに自然と好きになっていったんですよね。

ちなみに、歴史とは英語で「history」と書きます。

これは「his story(彼の物語)」とも言われることがありますが、「his(彼)」とは誰でしょうか?

その「彼」とは勝者のことです!

歴史は常に勝者が書くと言われています。

なので、基本的には歴史や各地に伝わる伝承は勝者視点で書いている事が多いのですよね。

ですが、勝者もいれば敗者もいます。

敗者側にも歴史があるのですが、それが描かれる事は少ないのですよね。
(日本の平家物語のように、敗者の視点で描かれる物語は非常に稀なんですよね)

私の歴史の楽しさは、そんな敗者と言われている人達の物語を掘り下げて、普段教えてもらっている物語と照らし合わせて考察してみることなんですよね。

そうすると、意外な側面が見えてきたりします。
それにあれこれ空想するのが楽しいのですよね!

それが私が歴史を好きな理由になります。

また、機会があればその考察も書いていこうと思いますので、お楽しみに!


今日は以上です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

お気楽歴史日記 すれ違った兄弟 源頼朝と源義経♪♪

2023-03-11 07:00:00 | 歴史
こんにちは〜!チーム株式会社の緒川修(おがわおさむ)です!!
今日は私の家のケーブルテレビでやっていた番組「THE ナンバー2 ~歴史を動かした影の主役たち~」のエピソード紹介と、私なりの考察を書いていきます!

※番組公式HP

源頼朝と源義経は源氏の兄弟で源頼朝は政治、源義経は戦にそれぞれ長けており、2人の活躍で宿敵である平家に打ち勝つことが出来ました。

ですが、結局2人は仲違いを起こしてしまい、幾度の戦いの末に義経は奥州国・衣川館で自決したとされています。

では、2人は何故対立してしまったのでしょう?

その理由は、2人の目指しているものの違いにあった、と番組内では言っていました。

まず源義経ですが、彼は生粋の武人であり目の前の戦いに勝つことが全てです。
そして源頼朝は、源平合戦の後に鎌倉幕府という武家政権を創る事を目指していました。

先に書いた通り戦の天才であり、戦に勝つ事が全てだった源義経は、戦に勝つ以外のことが眼中に無いような行動が多かったと伝えられています。

例えば、自軍の司令官の命令を無視して勝手な行動をする事が多かったり、戦の功労だから当然と言わんばかりに源頼朝の政敵である後白河法皇から勝手に役職を貰ったりするなど、源氏の内政を崩さんばかりの行動が目立っていたと言われています。

逆に源頼朝は勝つだけでは無く、自分の内政を盤石にする必要があったので、いくら功績を立てているとはいえ、源義経に勝手な行動をされては困ります。

戦場の命令無視程度ならまだ何とかなるかも知れませんが、政敵である後白河法皇に繋がり、実際に謀反まで起こしてしまったのですから、源頼朝としては弟の源義経を討つしかありません。

そして、結果として上記の通り源義経は討たれてしまいます。

このようにすれ違いあっていた2人ですが、兄弟としての情が無かったのかというと私はそうは思いません。

源義経が命がけで戦ったのは兄の源頼朝のためですし、源頼朝はこの事から二度と一族同士の紛争を起こすまいと確固たる信念を持って動いていたようなので、やはりある程度は情があったものと思われます。

今回は源頼朝と源義経の仲違いの概要を書いていきましたが、また機会があれば個々のエピソードも書いていきたいと思いますのでお楽しみに!

今日は以上です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

お気楽歴史日記 ピンチのときだからこそ分かる 忠義の忍び服部半蔵♪♪

2023-03-07 07:00:00 | 歴史
こんにちは〜!チーム株式会社の緒川修(おがわおさむ)です!!
今日も、徳川家康の最大の忠臣であった忍び、服部半蔵のことを書いていきます!

※前回の日記のURL

神君十六将にも数えられ、江戸城(今の皇居)に半蔵門の名を残すほど服部半蔵は家康の信頼を得ていましたが、今回紹介するのはその時のエピソードです。

時は本能寺の変の直後、織田信長との会談を終えて、家康一行は境(東京都武蔵野市)にいました。

家康は幼少期の人質時代に信長と共に過ごしており、信長とは親交が深かったので信長との会談は僅かな手勢を連れて行うくらい安全なものだったはずでしたが、事態が急転してしまいます。

信長を討った光秀にすれば、確実に敵に回る大物武将である家康を打ち取る意義は大きかったですからね。

なので家康は一刻も早く、自分の本拠地がある岡崎に行く必要があったのですが、そのためには伊賀を越える必要があります。

そんな窮地に陥った家康の警護を勤め上げたのが、服部半蔵だったと言われています。

時は下剋上が当たり前だった戦国時代、いくら君主とはいえ不利な側に付くのは自分の命に関わります。

やろうと思えば見捨てたり、家康を討って光秀への手柄にするなり半蔵は出来たと思います。

なので、このような不利で困難な状況においても自分を守り抜いてくれた半蔵に対し、家康が信頼を置くのも当然と言えますね。

人間関係は自分がピンチの時こそ本質が分かると言いますが、服部半蔵のこの実直な本質故に彼が率いる伊賀忍者は後の江戸時代が終わるまでの数百年、徳川家の信頼を勝ち得てきたわけですね。

機会があれば、そんな忍者の最後の任務の話を書いていきますので、お楽しみに!

※参考サイト

今日は以上です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

お気楽歴史日記 半蔵門の由来♪♪

2023-03-06 07:00:00 | 歴史
こんにちは〜!チーム株式会社の緒川修(おがわおさむ)です!!
今日はお気に入りの散歩コースでもある、皇居の一角の歴史について書いていきます!

今の皇居は元々江戸城があった場所にあり、地名もその頃に付けられたものが多く残っています。

半蔵門もその1つで、今では地下鉄に半蔵門線があるくらい東京ではメジャーな名前となっています。


その半蔵門ですが、半蔵と聞くと戦国時代で最も活躍した忍び服部半蔵を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?

そして半蔵門の名前の由来は、まさにその服部半蔵からきています。
単純に、服部半蔵率いる伊賀同心が守っていた門という理由からそう呼ばれているのですよね。

服部半蔵が江戸時代を築いた徳川家康に厚く信頼されていたのは有名な話で、半蔵門の警護を任されたのも、その信頼ゆえの事でもあります。

何故かというと、半蔵門は有事の際に徳川家康を甲州街道に脱出させる門であり、最後の砦である甲府城に逃がすための最重要拠点であるからです。

家康の半蔵に対する信頼の証である半蔵門、その名前が今でも残っている事を考えると、深い信頼関係は時代を超えて残るものだと実感しますね!

※参考サイト

今日は以上です。
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お得がいっぱいの都民の日に知ったこと 実は東京ご当地グルメがあった♪♪

2023-02-28 07:00:00 | 歴史
こんにちは〜!チーム株式会社の緒川修(おがわおさむ)です!!
今日は都民の日に知ってびっくりした事を書いていきます!

ちなみに都民の日とは10月1日のことで、1898年10月1日に市制特例が廃止され、東京府下に設定されていた東京市が一般市となったことを記念して、東京都が1952年に制定した記念日です!

この都民の日は、びっくりするようなキャンペーンをやっていて、なんとこの日は、都立動物園(上野動物園、多摩動物公園)や水族園(葛西臨海水族園、井の頭自然文化園)が無料になります!

それ以外にも都が管理する美術館や庭園、博物館等、多くの施設が無料化されるそうです。

しかも、東京都民以外の人でも無料化されるようなので、ものすごく太っ腹ですね!

そんな都民の日に知ったのですが、東京にもご当地グルメのパンがあるとのこと!

しかし、ご当地グルメと言っても、それらは全国に一般流通されるレベルで浸透しています。

そのパンとは「あんパン」「カレーパン」「クリームパン」そして「揚げパン」です!!

どれも日本全国規模でメジャーとなっていますが、まさか東京が発祥の地だったとはびっくりです!!

次回以降、そんな東京ご当地パンの歴史を神奈川県民の私が調べて書いてみようと思います!

お楽しみに!!


※参考サイト

今日は以上です。
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