土佐のくじらです。
拙ブログでは今、平安時代についての考察をしております。
日本は平安時代初期段階において、日本は遣唐使を廃止いたします。
この最後の遣唐使で、正式に日本は、国号を【日本】と唐に報告いたします。
元は、日の本(ひのもと)です。
それまでは、ヤマトや海外には倭国、または和国と自らの国を呼んでいたようです。
古代の日本人にとって、【日の本】というのは、世界の全てのことであったようです。
日の本とは、呼んで字のごとく、日に照らされたところ・・・という意味ですから、当時の世界観で言えば、地上世界全てのことなのですね。
その日の本=全世界を、国の名前としたのですね。
これは当時の日本人の、大きな自身の現れの一つであろうと思われるのですね。
中国の正式名称は、中華人民共和国ですね。
中華・・・というのは、世界の中心という意味です。
今の現状はさしずめ、中華思想(世界の中心) VS 日の本(全世界)思想ですな。(笑)
日本(にほん・にっぽん)という名前の読み方は、音読みですね。
この音読みの国号である日本という言葉の響きには、私には不思議な響きに思えます。
音読みというのは、中国の読み方ですからね。
つまり外国語読みなのです。
今で言うなら、【ジャパン】を国号にしたような感じですね。
平安時代においては、朝廷は既に強力な政治体制を国内で保持しておりましたが、
やはり国内諸国の、感情への配慮があったのかも知れません。
今でも、平成の大合併においては、新たな市町村名は大きな問題でした。
埼玉県では浦和市と大宮市とで、どちらの名前にするかでもめ、結局 【さいたま市】に落ち着きましたね。
一方の古い名前を残すと、地域住民感情としては、シコリが残るんでしょうかね?
私の暮らす四国でも、愛媛県に四国中央市という名前の都市ができました。
音読み熟語の町ですと、なんだか言葉の響きがしっくり来ないのは、私だけではないと思います。
やはり古来から続く町の名前には、長い歴史で培われた、独特の言葉の力があるように思います。
一時的に混乱しても、やはり古い名前を残す努力をした方が良いと私は思います。
とりもなおさず、日の本の国は 【日本】 という名前で、その後世界の舞台に立っていく訳です。
しかし遣唐使を廃止した・・・といことは、これはつまり、日本が鎖国状態に入った・・・ということなのですね。
日本は、江戸時代に初めて鎖国した訳ではないのです。
遣唐使の廃止=鎖国なのですね。
ただ、国家としては唐とのお付き合いはなくなりましたし、貿易の保護システムもないのですけど、江戸時代のように罰則もなかったので、どうやら民間レベルでのお付き合いは、その後も続いていたようですね。
朝廷の目の届きにくい東国以北では、盛んに沿海州(ロシア)や朝鮮半島と、交易していたようです。
ですから日本の情報自体は、国外にも出ていました。
それが有名な、マルコポーロの【東方見聞録】につながるのですね。
マルコポーロは、もちろん日本には訪れておりません。
マルコポーロは、当時の中国の王朝「元」の国家文書で東方見聞録を書いたのではなく、巷(ちまた)の一般市中の中国人たちから情報収集し、東方見聞録を記したのです。
中国歴代の日本への評価は、一貫して侮日論で統一されていますが、これは国家の建前というか、彼ら独特の俺様思考がそうさせるのであって、一般中国国民の感情としては、日本への憧れを強く抱いていたのが、歴代中国の隠れた歴史でもあります。
日本は食べ物が豊かで、盗みもなく、飢饉でも人を食わないからのようです。
中国では、飢饉で食べ物が底を突くと、人肉を食べる習慣が最近までありました。
それが中国の歴史が、戦乱と王朝交代の連続であった、本当の理由なのではないかと、私は密かに思っております。
この日本への密かな憧れの基本感情は、恐らく今の中国でも人民レベルの水面下では、同じではないかと私は推測いたします。
さて、マルコポーロは当時の日本を、【黄金の国】と表現いたします。
有名な【ジパング】ですが、これは【日本】の中国読み【ジッポン】から来ております。
具体的には、当時の奥州平泉(岩手県南部)の、繁栄のことではないかと、私は思っています。
このマルコポーロの東方見聞録は、その後のヨーロッパ諸国の人々の、富への憧れを鼓舞いたしました。
いわゆるエルドラド、黄金郷伝説ですね。
それがその後のヨーロッパの、大航海時代につながったのです。
アメリカ大陸を発見したコロンブスは、マルコポーロの東方見聞録を読んだことで、大西洋ルートでジパングに至り、ジパング黄金を手に入れて、その金(きん)でインドからコショウを買い付ける計画を立てたそうです。
平安日本の世界レベルでの繁栄は、その後の元寇の要因ともなりましたが、この国際的には神秘のベールに包まれた一国の繁栄が、大きく大きく、その後の世界の時代の歯車を回したことは、間違いないと私は考えています。
(続く)
土佐のくじらです。
拙ブログオーナーの私は、とても歴史好きです。
そして、自覚的には平和主義者です。
戦争に関する記事が多いので、信じていただけないかも知れませんが。(笑)
歴史を紐解くと、日本人が平和を、こよなく愛する国民であることが良くわかります。
戦前の日本は、戦争ばかりしていた印象で語られていますが、日本人は毅然とした民族ではあるが、戦争好きでなかったからこそ、あのような苦難の歴史を歩まざるを得なかったと思っております。
逆説的ではありますが、そう定義付けると、諸説合い乱れる、あの不可解な歴史のつじつまが合うのです。
(詳しくはカテゴリー、「誇るべき日本の歴史」をご参照ください。)
いま拙ブログでは、平安時代に着目し、日本の失われた歴史と、失われた誇りを取り戻すべく取り組んでおります。
平安時代と呼ばれるのは、この時から開かれた首都(いまの京都市の一部)の名前が、平安京と呼ばれたからです。
平安京という名前は、当時の桓武天皇の、この都市への願いが込められた名称です。
音読みですが、意味は説明不要ですよね。
その字のごとく【平和の都】です。
そして平安京は、その理念を体現すべく、当時日本人が知りうる、東洋の宗教を全て(仏教・日本神道・道教)を、都の街づくり中に入れ込むという手法で作られた、一大宗教都市でもあります。
もしその時に、日本人が景教(キリスト教)や回教(イスラム教)を知りえたり、教えに共鳴する部分を感じていたならば、桓武天皇は都に、教会やモスクを建立していたかもしれません。
その桓武天皇の願いと理念通り、平安時代は300年以上の平和を享受し、江戸時代や戦後など、日本は長期間の平和の歴史のある、稀有なる国家となりました。
さて、日本からはるか遠くの中東に、日本の平安京と同じ意味を持つ、古い歴史を持つ宗教都市があります。
それは現イスラエル共和国の首都、エルサレムです。
エルサレムとはヘブライ語で、【平和の街】という意味であり、平安京とエルサレムは同じ意味なのですね。
エルサレムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地という、世界で最も有名な宗教都市でもあります。
しかしこの、平安京とエルサレムという東西の、【平和の都】の名の代表的な都市を持つ、日本とイスラエル両国の歴史は、皮肉にも真逆と言える状況でした。
日本の平安京の街づくりは、宗教融合を理念としていると言えます。
一方、イスラエルのエルサレムは、宗教対立と宗教戦争、それに付随する民族紛争の象徴となっているとしか、歴史的には表現のしようがありません。
ユダヤ教発足から3000年余り、そして現在に至るまで、この土地は長き戦乱と、つかの間の平和という、日本とは全く逆の歴史を繰り返しているのです。
この違いは、一体どこからくるのでしょうか?
結局のところそれは、神様とは何か・・・ということを、日本人が本質的に知っていたからではないでしょうか?
日本神道の古典的な信仰観は、アニミズムと思われています。
しかしそれがひいては、万物に神は宿る・・・という基本的認識を日本人が古来より、自然に持つにいたる要因となってきました。
日の神、山の神、海の神、木の神、川の神、日本人の古典的な信仰の概念は、このような感覚を持っていると言われますが、それは仏教の山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)の仏教的理念・・・つまり、全てのものに仏性は宿ると同じなのですね。
教えはないけれども、概念はしっかりしていた日本神道の基本的理念と、教えがしっかりとある仏教の、当時の最新の概念とは、結局同じものだということを、古代の日本人がすんなりと、ごく自然に思えたことが、結局はとても大きかったと思うのです。
(よく考えれば、これはすごいことですね。)
それがなぜ思えたか?
結局のところ、神様、そして神様の本質というものが、一宗教の枠組みの中に納まるような、そんなちっぽけな御存在ではない・・・ということを、古代日本人である我々の直の先祖たちは、はっきりと、そして自然にわかっていたからだと私は思うのです。
でなければ、平安京のような街づくりはできないのです。
つまり、大宇宙の全ての全てをつくり、人間を作り、木の葉一枚までおつくりになった神様が、どのような御心であるかを知るためには、神道であれ、仏教であれ、道教であれ、一つ知れば良いということで、足りるはずがないということです。
この考えは、たとえ口には出さなくても、現代でも多くの日本人が、自然と持ちえる基本概念なのではないでしょうか?
そしてその中で、教えがしっかりとあり、他の考え方にも寛容であり、自由な議論が許されるが、最終的には三宝(仏法僧)に帰依するスタイルの仏教が中心軸となることで、思想的に自由でありながら、最終的には意見がまとまる形の国家の基本形が、この平安時代に形作られたと私は思うのですね。
思想的に自由・・・と言ったのは、思想や信仰が違っても、命や自由や財産を奪われることが、平安時代には全くなかったからです。
一方、西の平安京、イスラエルのエルサレムの歴史では、日本と同じとはなりませんでした。
それは、この街で語られる宗教が全て一神教であり、他を排する傾向があるからです。
私は、ユダヤ教やキリスト教イスラム教を、特別に非難するつもりはありません。
ただ一つだけ批判するとするならば、彼らは自分たちの信じる教えの枠組みの中に、神様を閉じ込めていると思うのです。
これは、言い方を変えるならば、自分が理解できる神様の側面しか信じない・・・と言っているのと同じです。
これでは、信仰深いと言いながら、本当かどうかはわかりませんよね。
なぜなら、自分が理解しようとしない神様の側面を、人間の分際でありながら裁いているからです。
神様が偉大なお方であることが真実ならば、自分が理解できる以上の側面を、神様はきっときっとお持ちのはずです。
いま世界は、地球中で宗教紛争を繰り返しておりますが、いつかきっと、この平安時代に構築された日本文明における、日本人の信仰信条の基本的価値観と概念が、世界中で切に求められる時代が来ると思います。
その時は、それほど遠い先の話ではないと、私は思っているのです。
ですから今を生きる日本人は、失われた歴史と誇りを取り戻し、自分たちの言葉で、誇るべき日本の歴史を十分に語れるように、しておかなければならないと思います。
なぜなら我々日本人の歴史には、世界が欲している答えは、既にもう十分にあるからなのです。
ですから日本の方々は、決して浅薄な自虐史観などに、惑わされてはなりません。
(続く)
土佐のくじらです。
拙ブログは、これから平安時代に旅します。
あれほど飛鳥時代が長かったのに、奈良時代をすっ飛ばかしたみたいな感じですね。(笑)
このブログオーナーは、歴史ミステリーに着眼点を置いてますので、史実が多くなると、余り深入りしないのです。(笑)
変な歴史館ですね。(爆笑)
さて、桓武天皇の決断により、水害の酷かった長岡京を捨て、日本は同じ山城の国に、新たな都を構えました。
794年に遷都された、平安京です。
鴨川によって物流を確保し、皇居を最も高台に置きました。
北が最も低い奈良盆地では、北に皇宮を構える長安モデルだと、下水が皇居に押し寄せるからです。
平城京と同じく唐の長安をモデルした平安京は、当然のごとく、平城京や長岡京の反省を踏まえた都市造りおしておりますが、特徴はそれだけではありません。
この平安京は、当時の東洋の宗教・思想がふんだんに、建設当初から取り入れられております。
まず平安京のある盆地の地形は、陰陽道の元となった、中国の道教思想から来ております。
いわゆる、四聖獣、青龍・白虎・朱雀・玄武を模ったものですね。
当初から、四聖獣による都の外護を期待できる位置を、選択して造られたことは、有名な話です。
また、長岡京では排除の対象となった仏教寺院も、盛んに建立されました。
桓武天皇が、空海や最澄を庇護し、仏教がの全国的な広がりを見せたのも、この平安時代からです。
奈良時代においての仏教は、奈良の都市宗教的な存在でした。
もちろん平安京には、神社もたくさんあります。
平安京は当時既に、世界的仏教都市となっていた奈良平城京を上回る、よりスケールアップした形での都造り、都市計画があったのですね。
この当時の日本人が知りうる世界宗教を、全て丸呑みするスケールの大きな都造りこそ、その後の日本人の、民族の固有性を決定付けたと言えるでしょう。
桓武天皇のリーダーシップの賜物ですが、桓武天皇がそのような、スケールの大きなビジョンをお持ちであったからこそ、今の日本人はあると私は思うのですね。
そうでなければ、日本人は別の性癖を持っているはずなのです。
この平安時代において、日本は大変な文化の興隆を経験いたします。
漢字だけでなく、ひらがなやカタカナなども生まれ、世界初の小説と言われている源氏物語など、多くの文学作品がこの頃誕生いたしております。
これら源氏物語や徒然草などは、女性の作品であり、世界で唯一女性の社会進出のあったのが、平安の日本です。
また平安時代の約400年の間には、死刑制度はあったが、死刑執行はされなかった・・・らしいです。
死刑に値するような犯罪が少なかったか、仏教の慈悲の思想の定着のためか、そのいずれかでしょうね。
ただ、初代征夷大将軍、坂上田村麻呂の夷敵討伐のように、外的には強い姿勢で臨みました。
食べ物も豊富に採れ、自由開墾制度もあり、多くの国民が、豊かさを実感できる時期でもありました。
良き信仰と良き政治が、最高度に発揮された日本の一時代でありましょう。
鎌倉時代以降も、京都は尊敬の対象でしたが、この平安時代の日本の幸福が、ノスタルジックな憧れとして、長く日本人の心に焼きつき、染み込んでいたのではないでしょうか?
つまり平安時代には、多くの日本人にとっての、一つの理想形があると思われるのです。
なぜこの頃、食べ物が豊富に取れたか。
それは、平均気温が今よりも高かったからです。
当時発見された大西洋のグリーンランドは、当時は今のように氷河で覆われた島ではなく、その名の通り緑の大地でした。
グリーンランドや日本の平安時代は、地球温暖化の原因が、二酸化炭素でないという、時代的証拠の一つです。
そして、894年太政官菅原道真は、遣唐使を廃止いたします。
理由は、「唐にはもう、学ぶべきものがなくなったから。」という理由でした。
つまり、「学ぶべきこともないのに、経費を使い危険を犯してまで、遣唐する必要はない。」ということです。
当時の唐は、衰えたとは言え、世界最大国家です。
その唐から学ぶべきものなし・・・ということは、日本はこの当時、平安時代初期において既に、世界最高文明であった・・・と言って良いと思います。
当時のヨーロッパなどは、はっきり言えば、原始人の世界なのですね。
そして菅原道真の慧眼通り、遣唐使廃止から13年後の907年に、唐は滅亡いたします。
桓武天皇は在世中、都造りに勤しみますが、住民は高い税に苦しんでおりました。
臣下からその話を聞いた桓武天皇は、「国民が都造りで苦しんでいるなら、税を軽くしてあげよ。そのために、都造りが遅れても構わない。」と、おっしゃったそうです。
そして桓武天皇の死後も、平安の都は造り続けられ、世界的政治都市・宗教都市・文化都市として、明治の代まで、日本の中心であり続けたのです。
(続く)
土佐のくじらです。
桓武天皇は、都を奈良(平城京)から、山城の国(平安京)に移した天皇です。
奈良時代は、東大寺の大仏建立事業など、仏教が日本に完全に定着する土台となった、とても貴重な時代です。
この誇るべき奈良の都、平城京。
せっかく気合を入れて造った都だったのですが、色々と困った問題を抱えていました。
何事も最初は、やはり失敗するのですね。
平城京は、唐の長安をモデルにして造った都です。
しかし、地理的な問題として、大きな川から遠かったのですね。
奈良盆地の北の端で、これまでの纒向(まきむく)や飛鳥よりは交通の要所ではあったのですが、物流面の不便さがあり、食料と水の不足にいつも苦しんでいました。
また、そっくり長安と、東西南北にいたるまで同じ造りにしてしまったことで、とんでもない問題を抱えてしまいました。
天皇が暮らし、政治の中心であるべき、平城宮・・・すなわち、当時の皇居が、都の最も低い所に位置してしまったのです。
平城京は長安と同じく、生活排水や排泄物を、市中に引いた用水路に捨てていたのですが、それが、皇居に押し寄せる構造だったのですね。
奈良は盆地なので、とても水はけも悪く、皇居周辺は、市民の出した汚物が全て集まるという、非常に不衛生な環境であったのです。
南北の向きが逆なら、まだ問題は少なかったのかも知れませんが、もう後の祭りですね。
人口が10万人にまで膨れ上がった平城京は、そういった水インフラの不備によって、物不足と水不足になりやすく、そして、疫病の蔓延しやすい都市となってしまったのです。
そして平城京は、世界で最も仏教の成熟した、南都六宗を抱える宗教都市でしたが、自由に政治を行いたい、若き桓武天皇にとっては、この何かと口うるさい、仏教僧たちが”ウザかった”ようですね。
そして桓武天皇は、、784年に山城の国(京都府)に遷都を行います。
これが長岡京です。
ここの長岡京は、平城京の弱点を克服した都市だったのですね。
淀川に通じる大河、桂川や宇治川などがすぐ近くを流れ、物流面での問題は、全くありませんでした。
また井戸からも豊富な地下水が出、新鮮な飲料水も潤沢でした。
家屋には、下水施設があり、排泄物などの処理も、当初から計算された作りでした。
そして、口うるさい仏教勢力を排した、古来天皇家スタイルの政治を、長岡京で桓武天皇は目指したのですね。
しかし長岡京は、平城京とは別の問題を抱えてしまったのです。
それはこの新しい都は、とても水害に弱かったのです。
物事は、そう易々と、うまくいかないものです。
長岡京は、毎年のように水害の被害を受けました。
水害が原因による、疫病にも大変苦しみました。
都から仏教勢力を排したことによる祟り・・・。桓武天皇は、当然これもお考えになったことでしょう。
しかし桓武天皇は、平城京の弱点を知り尽くしています。
もう奈良へは戻れません。
そして、桓武天皇は決意するのです。
新たな、理想的な都の建設を。
そして、長岡京遷都から10年後の794年、都は新しく造られ移されたのです。
これが、千年の都と言われる平安京、今の京都でございます。
(続く)
土佐のくじらです。
拙ブログは、歴史記事が多いブログですが、本日から奈良時代に移行して参ります。
奈良時代は、日本に本格的な首都機能を持った都市が作られた時代であり、日本の長き中世の始まりとも言えます。
このころのヨーロッパ社会は、まだほぼ原始時代のような状況でありました。
永遠の文明国家ローマの跡を継いだヨーロッパ人たちは、その文明を理解できず、まだ野蛮と野生の中にいたのです。
奈良時代の最大の遺産としては、東大寺の大仏建立があるでしょう。
この大仏建立の詔を宣下なさったのは、聖武天皇です。
この奈良の大仏は華厳経に出てくる、大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)を現していると言われます。大毘盧遮那仏は、大日如来とも訳されますが、法華経で述べられている、久遠実成の仏つまり、本仏であると言われています。
釈尊として現れた仏の、永遠の生命部分が、大毘盧遮那仏=奈良の大仏なのですね。
奈良の大仏は、大毘盧遮那仏の仏像としては世界最大ですし、存在も唯一ではないかと思います。
つまり、仏教信仰の真髄中の真髄を、大規模な形で国家首都に聖武天皇は建設したのです。
その技術と、それに伴うものつくりへの情熱は、今の日本人にも通じるものがあります。
これだけの銅像を作る技術は、当時日本国内だけでなく、世界のどこにもありません。
奈良の大仏のミステリーだけでも、本の一冊、映画の一本くらいにはなってしまうのです。
現代的視点で見ても巨大な大仏像は、銅で覆われておりますが、これは鋳造と言って、銅を貼り付けているのではなく、鋳物技術を使っているそうです。
つまり、粘土などで型を作って、その間に溶かした銅を流し込んみ、銅が冷えた後、外側の粘土を割るのです。
巨大なので、8段階に分けて造られたとのことです。
そして今はもう存在しませんが、当時は大仏像一面に、金箔が貼られていた記録が残っております。
そして聖武天皇は、この大仏建立に際して、このような詔を宣下します。
「一枝の草、一把の土」をもって大仏造立を手伝おうとする者があれば、それを許せ。」
「そして役人は、大仏造立を口実に、人民から無理な租税の取立てをしてはならない。」
つまりこれは、
建立を手伝いたい国民がいれば、自由参画してよい。
また、大仏建立を目的に、国家として税を取り立てない。
という、驚くべき宣言です。
かなり民主的な発想ですし、実際にその建設費用のほとんどを、全国からの寄進や布施でまかなっております。
これは天皇自らが、仏の意思を忖度し、仏の願われる方向で、建設方法をお考えになった証だと私は思うのですね。
皇后であった、光明皇后のご進言もあったとも言われております。
ともあれ大変な、当時としては、本当に大変な国家プロジェクトであった、東大寺の大仏建立事業は成功し、
何度も火事による消失の憂き目に合いながらも、そのたびに東大寺と大仏は造り直され続け、現在に至っております。
今もなお日本人に馴染み深く、古都の誇りとして東大寺大仏(大毘盧遮那仏)を大切にしている日本人は、
本質的に信仰心がとても深く、そしてその真髄を理解している民族だと思うのです。
無神論者が多いといわれる現代日本人ですが、本当に無神論者であるならば、コンビにより多いと言われる、日本国内の神社仏閣の存続を、許すはずはないからです。
火事による消失と再興を繰り返した、東大寺奈良の大仏こそ、その最大の証明です。
(続く)