■晴天
今日は昨日とは打って変わって(^^;)大晴天…雲ひとつ無いお天気です。

南アルプス方面。

手前の山の向こうに富士山が覗く。
昨日の山で、泥汚れの洗濯物を干しながら、「ああ~これを見せてあげたかったなぁ」と思いました。
雨上がりなので、乾燥の秋でありながら適度に湿度を含み、快適を絵に描いたような素晴らしい日になりました。
今度から雨の翌日の晴天予報日は、山の予定を入れないといけませんね(笑)
とはいえ、私はやはり花粉症らしく…朝から目が痒く充血しています。そしてお鼻がすごい。
夏山でのバテで、”水分補給の重要性”を実感し、秋でもあるし、最近水分をガンガンとっているのですが、
その水分は私のお鼻と直結しているんではないか?というような具合です…(--;)
■ Shanti シャンティ
こんな風にお天気が良いと「本当に世界は美しいなぁ…」と思います。
神は人を自分の姿に似せて作り、この世を天国に模して作ったそうですが、それは本当ではないかと思ったりするのです。
正直、お勤めしていた頃は、お天気が良くても悪くても、どちらにせよ、オフィスに缶詰なので、お天気が良いということ(だけ?笑)に、こんな風に感謝する気持ちは、まったくと言うかぜんぜん起きませんでした。
何しろ無関係なのですから。
いや、今、この瞬間であっても大部分の人はオフィスに缶詰でしょう。晴れようが晴れまいが自分自身の利益とはまったく関係が無いですから、晴れたからと言ってだから何?的心境でしょう。
要するに、お天気が良いときに、その良いお天気を味わうことが許される、ということも(とはいっても私も普通に
家事をこなしながら空を仰いでいるわけですが・・・)稀有なシチュエーションです。有り難いと思えるまでのプロセスを経なければ、感謝しようにも感謝する心境にさえなれないわけですね。
(稀有なシチュエーション)…つまり、(そうであることがめったにない)=(有り難い)→ (感謝)ということですね。
だから私は本当に、心から、感謝だなぁ…と思うのです。ヨガではShanti(シャンティ)を3回唱えます。
Shantiは、”平和・至福・祈り”とかいてあるサイトがあり、あるいは英語のウィキペディアには”peace, rest, calmness, tranquility, or bliss”とありますが、私は要するに、このようにただ在ることだけに感謝する心持を言うのではないかと個人的には思っています。
ただ生きているだけで幸福感に満たされ、何も過不足が無い。それは大人になるとなかなか得がたいので、”有り難い”感じですね。赤子のときは誰でも内なる平和を感じ、世界に生まれ出でたことだけに喜びを感じていたと思います。
シャンティを3回言うことの意味は、1回目は自分の内なる平和に感謝し、2回目は周囲を取り巻く世界そのものに、そして最後はこの世の創造主に対して言うのかなと思います。
■ 実はタダ
お天気を味わうくらいタダなんですけどね…そんなこともなかなか許されない現代社会事情…。
それは社会が豊かになったのか?貧困になったのか?というと確実に貧困のほうに近いように思うのですが…。
思うに、人類はこういう幸せを味わうためにこれまで科学技術の進歩、進化をしてきたのではないでしょうか?
いつしか努力の矛先が人間から人間性を奪う結果になってしまっているのはちょっとした方角の誤り…。
そのために、人は自然の一部ということが忘れ去られてしまいました。
結果としては、自分自身の住処である環境を汚し、環境破壊を起こしてしまいました。自分で自分の巣を汚染する
動物なんているでしょうか?
あえて言うなら、原発なども、安い電力と言う短視眼でみた利益のために、浄化に恐ろしく長期間かかる汚染源を作ることを正当化してしまったのは…自分の巣を汚すことと同じですよね。
そういう逆転現象がなぜ起きてしまったのか?人は自然の一部だという、言うまでもないことが、人間から遠くなった。
なぜか? 身近なところで、単純に”自然を味わえない状況にある”からではないかと思います。
”自然の素晴らしさ”を実感する時間がまったく無ければ、自然の一部であるということを忘れてしまう。
そういうことになってしまったのは…なぜだか分からないけれど、人間であるという生理を無視して、時間に合わせ、どんな状況になっても毎日毎日オフィスに行くというルールになってしまったからではないでしょうか…。
もちろん人間生活に規律は必要ですが、それは人間性を無視してルールを妄信する、ということではないはずなのに
日本の社会人生活は、おトイレ以外は一切の自由がない、隷属状態…それは都会であればあるほど強烈だったような気がしました。日本は世界一他者にも自分にも厳しい社会ですよね。
まるで人間の作ったルールに人間自身が壊されているようです。ちょっと外に出て日の光を味わうくらい、タダなんですけどね。
そのタダのことで種種のストレスが軽減されるなら、どれだけ経済効果があるかしら?と思ったりするのですが。
■ 人間性の回復?
人間界の実情は個人の力ではいますぐ変えられそうにもありません。
だからせめて、人間は自然の一部であるということを実感しに、たまの休日は自然の中に出かけてみる…。
だから海でも山でもどこでも良いんでしょうね。別にお山の中ではなくても。
ただ単純に日本の国土を考えてみた場合、海外の大陸の国々と違って、日本の場合は急峻な山岳地形なので
自然度の高いところ=山、ということになっているだけかなと思います。
自然度が高い場所があるのはどこか?と考えた場合、傾向として山が最有力候補。
であるならば、日本においては、山を知ること、山に登るための知識と言うのは、人が人として幸福であるための知識の一部でさえもあるかもしれません。

これは”振り向けば葡萄畑”の山梨の様子(笑)。
今日は昨日とは打って変わって(^^;)大晴天…雲ひとつ無いお天気です。

南アルプス方面。

手前の山の向こうに富士山が覗く。
昨日の山で、泥汚れの洗濯物を干しながら、「ああ~これを見せてあげたかったなぁ」と思いました。
雨上がりなので、乾燥の秋でありながら適度に湿度を含み、快適を絵に描いたような素晴らしい日になりました。
今度から雨の翌日の晴天予報日は、山の予定を入れないといけませんね(笑)
とはいえ、私はやはり花粉症らしく…朝から目が痒く充血しています。そしてお鼻がすごい。
夏山でのバテで、”水分補給の重要性”を実感し、秋でもあるし、最近水分をガンガンとっているのですが、
その水分は私のお鼻と直結しているんではないか?というような具合です…(--;)
■ Shanti シャンティ
こんな風にお天気が良いと「本当に世界は美しいなぁ…」と思います。
神は人を自分の姿に似せて作り、この世を天国に模して作ったそうですが、それは本当ではないかと思ったりするのです。
正直、お勤めしていた頃は、お天気が良くても悪くても、どちらにせよ、オフィスに缶詰なので、お天気が良いということ(だけ?笑)に、こんな風に感謝する気持ちは、まったくと言うかぜんぜん起きませんでした。
何しろ無関係なのですから。
いや、今、この瞬間であっても大部分の人はオフィスに缶詰でしょう。晴れようが晴れまいが自分自身の利益とはまったく関係が無いですから、晴れたからと言ってだから何?的心境でしょう。
要するに、お天気が良いときに、その良いお天気を味わうことが許される、ということも(とはいっても私も普通に
家事をこなしながら空を仰いでいるわけですが・・・)稀有なシチュエーションです。有り難いと思えるまでのプロセスを経なければ、感謝しようにも感謝する心境にさえなれないわけですね。
(稀有なシチュエーション)…つまり、(そうであることがめったにない)=(有り難い)→ (感謝)ということですね。
だから私は本当に、心から、感謝だなぁ…と思うのです。ヨガではShanti(シャンティ)を3回唱えます。
Shantiは、”平和・至福・祈り”とかいてあるサイトがあり、あるいは英語のウィキペディアには”peace, rest, calmness, tranquility, or bliss”とありますが、私は要するに、このようにただ在ることだけに感謝する心持を言うのではないかと個人的には思っています。
ただ生きているだけで幸福感に満たされ、何も過不足が無い。それは大人になるとなかなか得がたいので、”有り難い”感じですね。赤子のときは誰でも内なる平和を感じ、世界に生まれ出でたことだけに喜びを感じていたと思います。
シャンティを3回言うことの意味は、1回目は自分の内なる平和に感謝し、2回目は周囲を取り巻く世界そのものに、そして最後はこの世の創造主に対して言うのかなと思います。
■ 実はタダ
お天気を味わうくらいタダなんですけどね…そんなこともなかなか許されない現代社会事情…。
それは社会が豊かになったのか?貧困になったのか?というと確実に貧困のほうに近いように思うのですが…。
思うに、人類はこういう幸せを味わうためにこれまで科学技術の進歩、進化をしてきたのではないでしょうか?
いつしか努力の矛先が人間から人間性を奪う結果になってしまっているのはちょっとした方角の誤り…。
そのために、人は自然の一部ということが忘れ去られてしまいました。
結果としては、自分自身の住処である環境を汚し、環境破壊を起こしてしまいました。自分で自分の巣を汚染する
動物なんているでしょうか?
あえて言うなら、原発なども、安い電力と言う短視眼でみた利益のために、浄化に恐ろしく長期間かかる汚染源を作ることを正当化してしまったのは…自分の巣を汚すことと同じですよね。
そういう逆転現象がなぜ起きてしまったのか?人は自然の一部だという、言うまでもないことが、人間から遠くなった。
なぜか? 身近なところで、単純に”自然を味わえない状況にある”からではないかと思います。
”自然の素晴らしさ”を実感する時間がまったく無ければ、自然の一部であるということを忘れてしまう。
そういうことになってしまったのは…なぜだか分からないけれど、人間であるという生理を無視して、時間に合わせ、どんな状況になっても毎日毎日オフィスに行くというルールになってしまったからではないでしょうか…。
もちろん人間生活に規律は必要ですが、それは人間性を無視してルールを妄信する、ということではないはずなのに
日本の社会人生活は、おトイレ以外は一切の自由がない、隷属状態…それは都会であればあるほど強烈だったような気がしました。日本は世界一他者にも自分にも厳しい社会ですよね。
まるで人間の作ったルールに人間自身が壊されているようです。ちょっと外に出て日の光を味わうくらい、タダなんですけどね。
そのタダのことで種種のストレスが軽減されるなら、どれだけ経済効果があるかしら?と思ったりするのですが。
■ 人間性の回復?
人間界の実情は個人の力ではいますぐ変えられそうにもありません。
だからせめて、人間は自然の一部であるということを実感しに、たまの休日は自然の中に出かけてみる…。
だから海でも山でもどこでも良いんでしょうね。別にお山の中ではなくても。
ただ単純に日本の国土を考えてみた場合、海外の大陸の国々と違って、日本の場合は急峻な山岳地形なので
自然度の高いところ=山、ということになっているだけかなと思います。
自然度が高い場所があるのはどこか?と考えた場合、傾向として山が最有力候補。
であるならば、日本においては、山を知ること、山に登るための知識と言うのは、人が人として幸福であるための知識の一部でさえもあるかもしれません。

これは”振り向けば葡萄畑”の山梨の様子(笑)。