パラダイム変換なんていうと、とっても大げさなのですが、
結局のところ、物事には複数の見方がある、ということです。
これが日本人はとっても苦手みたい。 物事をひとつの面でしか見ない、という弊害は
たぶん人種的多様性がほとんどないために”そうとるか!”っていう驚きの経験が
少ないために起こることでしょう。
■ おきっぱなしの皿・・・
ある日、シェアメイトがシンクにお皿を置きっぱなしにしました。
うーん・・・ 洗ってあげるのも変だし・・・まぁ大して実害ないのでほっておきました。
だいだい、忙しくて洗うのウッカリなんてこともあるんだし。人のこと言ってたら
自分だってウッカリしたとき困るに決まっています。
すると・・・帰ってきました。「お帰り~」「ただいま~」なんてやり取りがあって
今日はどういう日だった?ってはなしをしていると「オーディションだった~」
大変だった模様・・・
「そっか~じゃお茶でも飲む?えっと、あれ?レンジの皿知らない?」
「あ!え!ごめーん!今日出かけるときあわてて出て洗っていなくて!」
それでもう皿の件はチャラです・・・そういう相手の事情が見えるとまったく
お皿を洗わずに置いていったコトなんてどうでもいい小さいことです。
これが相手の立場でモノを見るようになったことによる問題解決。
■ 相手の事情を知ると ”絶対に悪いこと”は無くなる
些細なことですが、世の中には絶対に悪いことというのはほとんどありません。
殺人だって正当防衛っていうのがあるくらいです。
嘘でさえもホワイトライと言って相手を思いやるための嘘があるくらいです。
人とシェアをする暮らしをすること・・・それは相手のモノの見方でモノを見る
チャンスが増えるっていうこと。 急いで出た・・・たまに皿を洗っていなかったからって
非難する、そんなルールで凝り固まった世界は”生きにくい世界”。
皿があらってなかっただけで実害はあるでしょうか?実害があればそれは困ったことですが
ただルールを守らなかったからだけって場合は、まさにルール以外は全部ダメ、の
生きにくい”日本社会”。
ルールというのは判断に迷った場合に大まかな指針を決めるものです。
ルールは人間が暮らしやすくなるために在るもの・・・それを逆に人間が
暮らしにくくするために使う・・・そこんところがとても”日本的”なんですよねぇ・・・(ため息)
私はシェアハウスにおけるルール作り、というのは相手とのコミュニケーションが
あってこそ成り立つものだと思います。
コミュニケーションだけが”パラダイム転換”を可能にするのです。つまり相手の見方で
見ると一世一代のオーディションであくせくしているときにお皿の一枚二枚を
気にかけてなんかいられるでしょうか・・・
その後シャアメイトは「ごめーん」といいながら、ついでに私のマグカップを洗ってくれました。
うん、いい感じ。
■ 東京暮らしの別の見方
「東京へ一人暮らし?だんなさんが良く許してくれたわね」
これは日本人の画一的な見方です。
でも実は・・・
私の夫は東京暮らしを寛大にも許してくれたんじゃなくて、彼自身が一人で暮らしたかっただけなのです。
な~んかおかしいと思っていたんですよね。普通は愛妻としばらくすればもう数ヶ月
数年レベルで会えなくなるかもしれない、というときに諸手を上げて送り出したりしません。
私は甲府ではフルタイムで働ける仕事どころかパートタイム自体も見つからないので(ハローワークの人さえも
東京を勧める・・・)後髪を引かれる思いで東京へ行っているのです。だからこうして
甲府へ帰ってくる。
ところが、彼は私が東京を引き上げて甲府へ帰ってくるのには猛反対。
なんか怪しい・・・。夫婦という単位を一緒にいることなくどうやって作り上げようと
言うのでしょう?
今日はそういう話を聞いてみたら、なんのことはない、彼は私のためではなく、
彼自身が楽したいからって理由で一人で暮らしたいのです(笑)。
世の中の一般的な男性にとっては妻というのは、相手との関係を温め、築いていく
関係、自分の精神力を注力する対象ではなく、まぁ家に帰れば自動的にお茶が出てきて
ホッとできればそれでいい、というのが正直なところなのかもしれませんね。
だから、私のように”オカエリー!”(ハグハグ♪)みたいな人は、通常の日本人に
とっては”うるさいなぁもうっ!”とか”イチイチめんどくさいなぁ、もうっ!”ってことなのでしょう。
ただ横になるときにそばにいて、適度のころあいでセックスできればそれで満足。
でも通常、妻はそんな態度の夫には背中を向けるだけです・・・(^^;)おあいにく様。
良くある日本の夫婦像ですが、それは要するにそのホンネは・・・
”コミュニケーションしたくない”・・・んです(汗)
まるで一人で暮らしているかのごとく、一言も発せずに妻が一方的に夫のことを察して世話を焼く、それが理想形、というわけです。
これは別に家庭だけでなく、会社でもいえることです。会社で女性に要求されるのはそのような社内妻。 (実際は女性だけでなく、男性の部下にも要求されています…。その点会社のほうが平等ですね。)
コミュニケーションをサボっている…(^^;)コミュニケーションがめんどくさい。
夫は妻を寛大にも送り出しているのはなく妻を体よく東京におっぱらった。
愛するということは、相手を注意して観察したり相手のことを考えたりすることです。当然注意力も精神力もいる。子供を見てもすごい観察力で親のことを見ています。それは親を大好きだからです。
しかし… そんな(疲れる)こと、もう家に帰ってからまでやりたくない。
ま、つまり平たく言うとそういうことなんですよね。
もう一歩踏み込んでいうと、相手を愛すのが”めんどくさい”ってことです。
そういうことですので、かわいそうなのはわたくしであって夫ではございません(笑)
一般の日本人もパラダイム転換してもらいたいものです。
物事にはたくさんの見方がありますよねぇ・・・。
結局のところ、物事には複数の見方がある、ということです。
これが日本人はとっても苦手みたい。 物事をひとつの面でしか見ない、という弊害は
たぶん人種的多様性がほとんどないために”そうとるか!”っていう驚きの経験が
少ないために起こることでしょう。
■ おきっぱなしの皿・・・
ある日、シェアメイトがシンクにお皿を置きっぱなしにしました。
うーん・・・ 洗ってあげるのも変だし・・・まぁ大して実害ないのでほっておきました。
だいだい、忙しくて洗うのウッカリなんてこともあるんだし。人のこと言ってたら
自分だってウッカリしたとき困るに決まっています。
すると・・・帰ってきました。「お帰り~」「ただいま~」なんてやり取りがあって
今日はどういう日だった?ってはなしをしていると「オーディションだった~」
大変だった模様・・・
「そっか~じゃお茶でも飲む?えっと、あれ?レンジの皿知らない?」
「あ!え!ごめーん!今日出かけるときあわてて出て洗っていなくて!」
それでもう皿の件はチャラです・・・そういう相手の事情が見えるとまったく
お皿を洗わずに置いていったコトなんてどうでもいい小さいことです。
これが相手の立場でモノを見るようになったことによる問題解決。
■ 相手の事情を知ると ”絶対に悪いこと”は無くなる
些細なことですが、世の中には絶対に悪いことというのはほとんどありません。
殺人だって正当防衛っていうのがあるくらいです。
嘘でさえもホワイトライと言って相手を思いやるための嘘があるくらいです。
人とシェアをする暮らしをすること・・・それは相手のモノの見方でモノを見る
チャンスが増えるっていうこと。 急いで出た・・・たまに皿を洗っていなかったからって
非難する、そんなルールで凝り固まった世界は”生きにくい世界”。
皿があらってなかっただけで実害はあるでしょうか?実害があればそれは困ったことですが
ただルールを守らなかったからだけって場合は、まさにルール以外は全部ダメ、の
生きにくい”日本社会”。
ルールというのは判断に迷った場合に大まかな指針を決めるものです。
ルールは人間が暮らしやすくなるために在るもの・・・それを逆に人間が
暮らしにくくするために使う・・・そこんところがとても”日本的”なんですよねぇ・・・(ため息)
私はシェアハウスにおけるルール作り、というのは相手とのコミュニケーションが
あってこそ成り立つものだと思います。
コミュニケーションだけが”パラダイム転換”を可能にするのです。つまり相手の見方で
見ると一世一代のオーディションであくせくしているときにお皿の一枚二枚を
気にかけてなんかいられるでしょうか・・・
その後シャアメイトは「ごめーん」といいながら、ついでに私のマグカップを洗ってくれました。
うん、いい感じ。
■ 東京暮らしの別の見方
「東京へ一人暮らし?だんなさんが良く許してくれたわね」
これは日本人の画一的な見方です。
でも実は・・・
私の夫は東京暮らしを寛大にも許してくれたんじゃなくて、彼自身が一人で暮らしたかっただけなのです。
な~んかおかしいと思っていたんですよね。普通は愛妻としばらくすればもう数ヶ月
数年レベルで会えなくなるかもしれない、というときに諸手を上げて送り出したりしません。
私は甲府ではフルタイムで働ける仕事どころかパートタイム自体も見つからないので(ハローワークの人さえも
東京を勧める・・・)後髪を引かれる思いで東京へ行っているのです。だからこうして
甲府へ帰ってくる。
ところが、彼は私が東京を引き上げて甲府へ帰ってくるのには猛反対。
なんか怪しい・・・。夫婦という単位を一緒にいることなくどうやって作り上げようと
言うのでしょう?
今日はそういう話を聞いてみたら、なんのことはない、彼は私のためではなく、
彼自身が楽したいからって理由で一人で暮らしたいのです(笑)。
世の中の一般的な男性にとっては妻というのは、相手との関係を温め、築いていく
関係、自分の精神力を注力する対象ではなく、まぁ家に帰れば自動的にお茶が出てきて
ホッとできればそれでいい、というのが正直なところなのかもしれませんね。
だから、私のように”オカエリー!”(ハグハグ♪)みたいな人は、通常の日本人に
とっては”うるさいなぁもうっ!”とか”イチイチめんどくさいなぁ、もうっ!”ってことなのでしょう。
ただ横になるときにそばにいて、適度のころあいでセックスできればそれで満足。
でも通常、妻はそんな態度の夫には背中を向けるだけです・・・(^^;)おあいにく様。
良くある日本の夫婦像ですが、それは要するにそのホンネは・・・
”コミュニケーションしたくない”・・・んです(汗)
まるで一人で暮らしているかのごとく、一言も発せずに妻が一方的に夫のことを察して世話を焼く、それが理想形、というわけです。
これは別に家庭だけでなく、会社でもいえることです。会社で女性に要求されるのはそのような社内妻。 (実際は女性だけでなく、男性の部下にも要求されています…。その点会社のほうが平等ですね。)
コミュニケーションをサボっている…(^^;)コミュニケーションがめんどくさい。
夫は妻を寛大にも送り出しているのはなく妻を体よく東京におっぱらった。
愛するということは、相手を注意して観察したり相手のことを考えたりすることです。当然注意力も精神力もいる。子供を見てもすごい観察力で親のことを見ています。それは親を大好きだからです。
しかし… そんな(疲れる)こと、もう家に帰ってからまでやりたくない。
ま、つまり平たく言うとそういうことなんですよね。
もう一歩踏み込んでいうと、相手を愛すのが”めんどくさい”ってことです。
そういうことですので、かわいそうなのはわたくしであって夫ではございません(笑)
一般の日本人もパラダイム転換してもらいたいものです。
物事にはたくさんの見方がありますよねぇ・・・。