なんだか今日はにわかに忙しくなりそうな日です…
とりあえず重要なことから…という訳で、他の作業を捨て、ブラフマチャリアについて考えをまとめておくことにします。
ブラフマチャリアというのは、性的禁欲という意味です。
ヨガを行う人はすべて性的な禁欲生活が求められます。
厳密には2種類あり、性交渉をまったく絶ってしまうものと、結婚により結ばれた正しい性生活のみを受け入れる場合の二つがあります。
■ 家族を捨てる?
ヨガの行者のたとえ話には、修行中の行者を試そうとした神が美女をよこし、誘惑に負けて子を設けた、と
いう話が出てきます。その誘惑に負けたことを神に対して反省し、行者は妻子を捨て、修行に没頭したとの
ことです。
1人で勝手に欲望に負けておいて、生まれた子供の世話を放棄するとは…私には納得が行きませんでした。
ところが昨日ギーターの勉強会で、子捨ては動物以下ですというセリフを聞き安堵しました。
なぜなら、私は父親に捨てられた子供だからです。そんなの納得できるはずがありません。
ギーターは、この動物以下の男(=行者)を正当化するというのか? なにしろ、出家した行者の目的と言うのは
自分自身が救われるためなのですから…ものすごく自己中心的ですよね。(一般にヨガ行者の目的は輪廻転生から抜け出て二度とこの世に生まれでないことです)
ブッダも王子であり、既に結婚して妻子がありながら、妻子を捨てて、出家しました。
私はこの話には、自分自身が親に捨てられた子供である、ということから非常に納得がいかない思いを
抱いていました。
私の父は私が8歳、弟6歳、妹4歳のときに妻子を捨て、その後一切弟の葬式を除いて父とは会っていません。父は私たちを捨てたのです。私は父親には育てられていません。
結婚し子供を三人ももうけておいて、離婚するというのは一体どういう意味を示唆するのでしょうか?
それは妻であった女性の性的魅力だけは受け取りたいが、それに伴う責任はイヤだという自己中心性です。
そんな自己中心性をうまいことごまかす口実が、出家ではないか? と思ったのです。(さらにいうと私の父親の
家系は神主一族で、私の父は世間に向かって説法を説くこともしています。私からみるとどの面下げて…です。とてもその資格があるようには思えません)
出家がいくら重要でも既になした子に対する責任を放棄していいはずがありません。
■ 性的禁欲は”責任”によって制約を受けるべきだと思う
人間と動物の違いは何か?というと、動物は本能に支配されて生きざるを得ない存在であることです。
食べる、寝る、身を守る、子をなす… 人間も動物も同じように本能に仕込まれています。
人間だけが本能を理性によってコントロールすることができる。そこが人間が人間である本質です。
理性。
人間には、その与えられた理性を、この世をもっと良くするために使う、という役割を神から与えられています。
私が思うには、自分自身がなした子、愛した女性、全員に対する責任を全うできるなら性的節制は必要ないのです。
なぜなら世の中にはパワフルな男性もいて、1人の女性を養い、その子供全員を養う以上に財力もあり、
多くの子をなしてもすべての子の面倒を見てしまえる愛情深く、器の大きい男性もいるからです。
そういう男性には多くの女性が惹かれます。産む性である女性が必要とする性的なパートナーは自分が産んだ子を
充分育ててくれる力量がある男性なのですから当然でしょう。これは経済力と言う意味ではありません。
女性は単純に、その男性がこの世にいるべき素晴らしい人間であると思えなければ、欲望を感じない性なのです。
要するに「このでくのぼう!」と思っている男性に向かって「うっふーん」となるでしょうか?なりませんね(笑)
ついでに付け加えると、私は大人になってから知ったのですが、恋愛って女性の許可制ですよね?
一般的な恋愛関係においては、女性が許可しないことには、指一本触れることができないのが男性なのではないかと思います。(まぁ昔のギリシャ神話などにも嫌がる人妻や娘を無理やり自分の妻にしてしまう冥界の王とか出てきますが…一般的には女性が主導権をもつのが恋愛ではないかと思います…。そうでないと思っているなら男性は大きな勘違いをしているのではないかと思うのですが)
けれども普通の男性には、1人の女性とその間にできた子供の面倒を見るだけでアップアップなのではないでしょうか?
ですから、結局は、責任を持つということが、性的不摂生のブレーキになります。
その当然のことが、改めてヨガのヤマで説かれるということは何を示唆しているのでしょうか?
それは、性的欲求と言うのが食欲と同様に非常に抑えがたく、一度緩んでしまったタガは非常に戻しにくく、
関係者に非常に大きな心理的苦しみを産むから、ではないかと思います。
最初から禁止していればラクだという理由なのではないかと思うのです。
■ それでも人間
とはいいつつ、人間も動物ですから、好きな人ができるのは普通のことです。相手を好ましいと思い、それが
たまたま異性であり、かつまた生殖年齢にある健康な男女であれば、多少の性的な魅力を感じても不思議ではありません。
惹かれあう、ということですね。ではそれは一体何を意味しているのでしょう?
自分が誰か恋をしてはならない相手に対して恋心を抱いてしまったら、どうしたらいいのでしょう?
そんなの、単純です。 それは単純に、自分が健全で健康な肉体を持っている、ということを逆説的に証明しているだけなのです。
単に人間が肉体を所有するからには、当然起こるべくした反応が起こったというだけのことなのです。
熱いものを触ればアチッと感じるのとなんら変わりないことなのです。熱いものを触ってアチッと手を引っ込めなくなったら問題ですよね?
だから単に健康で充分機能する肉体を持っていて良かったね、と思えばいいだけのことです。
コントロールしようとすれば、コントロールされる、とよく言います。それはコントロールしようとせず
心の動きに溺れろ、という意味ではないです。逆にアチッとなって手を感じないように、感覚を無感覚化せよ、
という意味でもありません。
ただ、かき乱される心を、肉体が感覚を受容する器官であれば当然のことなのだと、と理解すれば、いいだけ。
それが客観視という人間に与えら得た能力の活用なのです。
感覚そのものが自分自身ではないのだと、感覚を客観視できれば、心はそれ以上かき乱されることはないでしょう。
心は自分自身ではありません。自分自身は移ろいやすい、その心の下にある、純粋な思い=意識、です。
一時の心の動きを、自分だと同一視しているのが人間なのだそうです。そうすると、どんなことにも一喜一憂しなくてはなりません。
一時の心の動きと自分自身を同一視しなくて良くなる、そのためにヨガのアーサナはあるのです。
心と体をつなぐ、とよく言いますが、つないだ結果、奔放になってしまっては動物ランクに格下げされただけのことです。
そうではなく、心の動きをよく眺め、真の自分(アートマン)とマインドを分けることができるようになることを目差すのがヨガです。
そういう意味では、私は山登りも同じであるな、といつも思います。山で自己対話を繰り広げている人は多いと
思いますが、その自己は「大いなる自己」といわれたり、「内在神」といわれたりするものです。
日本人にとってはお山は「神」を思わせるものなので、お山と対話しているつもりで実は対話しているのは、内なる声、内なる魂の声です。
そのうちなる声が外在する神の声だと”実体験として”理解するプロセス…それをヨガといいます。
余談ですが、肉体を使うヨガをハタヨガ、愛を使うヨガをバクティヨガ、職業を使うヨガをカルマヨガ、知性を使うヨガをギャーナヨガといいます。
いわゆる日本でヨガと言われているものは、ハタヨガを健康体操に落とし込んだものに過ぎません。
とりあえず重要なことから…という訳で、他の作業を捨て、ブラフマチャリアについて考えをまとめておくことにします。
ブラフマチャリアというのは、性的禁欲という意味です。
ヨガを行う人はすべて性的な禁欲生活が求められます。
厳密には2種類あり、性交渉をまったく絶ってしまうものと、結婚により結ばれた正しい性生活のみを受け入れる場合の二つがあります。
■ 家族を捨てる?
ヨガの行者のたとえ話には、修行中の行者を試そうとした神が美女をよこし、誘惑に負けて子を設けた、と
いう話が出てきます。その誘惑に負けたことを神に対して反省し、行者は妻子を捨て、修行に没頭したとの
ことです。
1人で勝手に欲望に負けておいて、生まれた子供の世話を放棄するとは…私には納得が行きませんでした。
ところが昨日ギーターの勉強会で、子捨ては動物以下ですというセリフを聞き安堵しました。
なぜなら、私は父親に捨てられた子供だからです。そんなの納得できるはずがありません。
ギーターは、この動物以下の男(=行者)を正当化するというのか? なにしろ、出家した行者の目的と言うのは
自分自身が救われるためなのですから…ものすごく自己中心的ですよね。(一般にヨガ行者の目的は輪廻転生から抜け出て二度とこの世に生まれでないことです)
ブッダも王子であり、既に結婚して妻子がありながら、妻子を捨てて、出家しました。
私はこの話には、自分自身が親に捨てられた子供である、ということから非常に納得がいかない思いを
抱いていました。
私の父は私が8歳、弟6歳、妹4歳のときに妻子を捨て、その後一切弟の葬式を除いて父とは会っていません。父は私たちを捨てたのです。私は父親には育てられていません。
結婚し子供を三人ももうけておいて、離婚するというのは一体どういう意味を示唆するのでしょうか?
それは妻であった女性の性的魅力だけは受け取りたいが、それに伴う責任はイヤだという自己中心性です。
そんな自己中心性をうまいことごまかす口実が、出家ではないか? と思ったのです。(さらにいうと私の父親の
家系は神主一族で、私の父は世間に向かって説法を説くこともしています。私からみるとどの面下げて…です。とてもその資格があるようには思えません)
出家がいくら重要でも既になした子に対する責任を放棄していいはずがありません。
■ 性的禁欲は”責任”によって制約を受けるべきだと思う
人間と動物の違いは何か?というと、動物は本能に支配されて生きざるを得ない存在であることです。
食べる、寝る、身を守る、子をなす… 人間も動物も同じように本能に仕込まれています。
人間だけが本能を理性によってコントロールすることができる。そこが人間が人間である本質です。
理性。
人間には、その与えられた理性を、この世をもっと良くするために使う、という役割を神から与えられています。
私が思うには、自分自身がなした子、愛した女性、全員に対する責任を全うできるなら性的節制は必要ないのです。
なぜなら世の中にはパワフルな男性もいて、1人の女性を養い、その子供全員を養う以上に財力もあり、
多くの子をなしてもすべての子の面倒を見てしまえる愛情深く、器の大きい男性もいるからです。
そういう男性には多くの女性が惹かれます。産む性である女性が必要とする性的なパートナーは自分が産んだ子を
充分育ててくれる力量がある男性なのですから当然でしょう。これは経済力と言う意味ではありません。
女性は単純に、その男性がこの世にいるべき素晴らしい人間であると思えなければ、欲望を感じない性なのです。
要するに「このでくのぼう!」と思っている男性に向かって「うっふーん」となるでしょうか?なりませんね(笑)
ついでに付け加えると、私は大人になってから知ったのですが、恋愛って女性の許可制ですよね?
一般的な恋愛関係においては、女性が許可しないことには、指一本触れることができないのが男性なのではないかと思います。(まぁ昔のギリシャ神話などにも嫌がる人妻や娘を無理やり自分の妻にしてしまう冥界の王とか出てきますが…一般的には女性が主導権をもつのが恋愛ではないかと思います…。そうでないと思っているなら男性は大きな勘違いをしているのではないかと思うのですが)
けれども普通の男性には、1人の女性とその間にできた子供の面倒を見るだけでアップアップなのではないでしょうか?
ですから、結局は、責任を持つということが、性的不摂生のブレーキになります。
その当然のことが、改めてヨガのヤマで説かれるということは何を示唆しているのでしょうか?
それは、性的欲求と言うのが食欲と同様に非常に抑えがたく、一度緩んでしまったタガは非常に戻しにくく、
関係者に非常に大きな心理的苦しみを産むから、ではないかと思います。
最初から禁止していればラクだという理由なのではないかと思うのです。
■ それでも人間
とはいいつつ、人間も動物ですから、好きな人ができるのは普通のことです。相手を好ましいと思い、それが
たまたま異性であり、かつまた生殖年齢にある健康な男女であれば、多少の性的な魅力を感じても不思議ではありません。
惹かれあう、ということですね。ではそれは一体何を意味しているのでしょう?
自分が誰か恋をしてはならない相手に対して恋心を抱いてしまったら、どうしたらいいのでしょう?
そんなの、単純です。 それは単純に、自分が健全で健康な肉体を持っている、ということを逆説的に証明しているだけなのです。
単に人間が肉体を所有するからには、当然起こるべくした反応が起こったというだけのことなのです。
熱いものを触ればアチッと感じるのとなんら変わりないことなのです。熱いものを触ってアチッと手を引っ込めなくなったら問題ですよね?
だから単に健康で充分機能する肉体を持っていて良かったね、と思えばいいだけのことです。
コントロールしようとすれば、コントロールされる、とよく言います。それはコントロールしようとせず
心の動きに溺れろ、という意味ではないです。逆にアチッとなって手を感じないように、感覚を無感覚化せよ、
という意味でもありません。
ただ、かき乱される心を、肉体が感覚を受容する器官であれば当然のことなのだと、と理解すれば、いいだけ。
それが客観視という人間に与えら得た能力の活用なのです。
感覚そのものが自分自身ではないのだと、感覚を客観視できれば、心はそれ以上かき乱されることはないでしょう。
心は自分自身ではありません。自分自身は移ろいやすい、その心の下にある、純粋な思い=意識、です。
一時の心の動きを、自分だと同一視しているのが人間なのだそうです。そうすると、どんなことにも一喜一憂しなくてはなりません。
一時の心の動きと自分自身を同一視しなくて良くなる、そのためにヨガのアーサナはあるのです。
心と体をつなぐ、とよく言いますが、つないだ結果、奔放になってしまっては動物ランクに格下げされただけのことです。
そうではなく、心の動きをよく眺め、真の自分(アートマン)とマインドを分けることができるようになることを目差すのがヨガです。
そういう意味では、私は山登りも同じであるな、といつも思います。山で自己対話を繰り広げている人は多いと
思いますが、その自己は「大いなる自己」といわれたり、「内在神」といわれたりするものです。
日本人にとってはお山は「神」を思わせるものなので、お山と対話しているつもりで実は対話しているのは、内なる声、内なる魂の声です。
そのうちなる声が外在する神の声だと”実体験として”理解するプロセス…それをヨガといいます。
余談ですが、肉体を使うヨガをハタヨガ、愛を使うヨガをバクティヨガ、職業を使うヨガをカルマヨガ、知性を使うヨガをギャーナヨガといいます。
いわゆる日本でヨガと言われているものは、ハタヨガを健康体操に落とし込んだものに過ぎません。