記録ー2

2010-10-20 14:51:29 | インポート
この話は続きをきちんと書く必要があると思う・・・・莚旗と幟

おっはようございま~す。お久しぶりのマリーで~す。

珍しい、何でこんなところに出てきたって? それがねえ、うちのおばはんがさ、知り合いの人がこのごろの台風や地震のことで、古代中国の易でいえば天変地異は革命のしるしだとかって言ったの。うちのおばはんの生活も天変地異みたいなの。20何年もずっと待っていたことが夢幻だったらしいとわかったり、そうなると今後のことも本気できちんと考え直さなくてはだめじゃない。人頼みじゃなくて自分で行動しないとこのままではあっというまにおばはんから、おばあさんになっちゃうってつくづくと考え出したのよ。

基本的な方向は変わらなくても、待ってるだけじゃおばはんの現実を知らない人たちは面白がって見ているだけで、ほったらかしじゃない。ここはちょっと実際に動かなくちゃ。他の人たちに自分の今の状況を伝えなくちゃって思ったらしいの。革命では大きすぎるけど、おばはんも叛を起こすことにしたのよ。おばはんらしく、ムシロ旗や幟を掲げてみたの。

あたし、知らないよぅ、どんな結果になっても責任持てないわよぅ~。っていったんだけど、あの人、相当に怒ってるんだもん。撃ちてしまんじゃい、玉砕覚悟じゃいって騒いだと思ったらパパパっと動き出しちゃったの。

ああ、もう、知らないからねえ。えっ、ムシロ旗や幟、どこにあるって、さすがにここでは言えないの。自分で探してほしいわ。個人の愚痴に総アクセス148だって。読んだ人たち、まじめになんとかしてほしいわ。

間違ってもらっちゃ困るけど、あのひとのほしかったものはお金じゃなかったからこんなに年月がたっちゃったのよ。お金には代えられないもののためのムシロ旗なの。わかってくれないかなあ。

記録-1

2010-10-20 14:48:30 | インポート
ここからはしばらく、以前、別のブログでアップしたもののコピーを置いておきます。ばらばらにおいてあったのではなかなか読んで頂けないので、ここなら他に遠慮する必要もないので、ここにおいておきます。
とはいえ、原因が見えてきてみるとなんだかむなしい気もしますが、仕方がない。やるだけのことをやってみようと思います。時間的な順序がばらばらですが、説明もなるべく入れるつもりです。

『イエスの小さい姉妹 故マグダレナ愛子さまに。』

先ほど、昔ちょっとかかわりのあった修道会のホームページを見ていたところ、もう30年以上も前に、その頃の会の責任者の勧めで、ご一緒に東渋谷電話局の社員食堂でお皿洗いのアルバイトをしていた、マグダレナ愛子さまというシスターがお亡くなりになったことがわかった。

長年韓国にいらっしゃった方で私と一緒に電話局でアルバイトをしていたときは一時帰国中だったのだ。その後もずっと韓国で、わたしが初めて韓国に目を向けたのは彼女の住んでいる国だったからであった。

一つの記憶がこれで幕を閉じたことになるのだろう。池袋に住んでいるシスターたちももうじき、板橋区のほうに移転するそうだ。

何十年もたって、もはや向こうには私を知っている方もほとんどいないというのに、こちらは細かいことまで覚えているこの不思議。会自体の方向もかなり変わってしまった。

私は世俗の真っ只中での観想生活というフレーズに心ひかれていたのだけれど、時代も人も変わり、その思想も形を変えてしまって今は私の心の中に生きているくらいなのか。

今、とんでもない貧乏暮らしになってしまっても耐えられるのも、昔のあの会のおかげなのだ。真夏にクーラーどころか扇風機もない、電気蚊とりどころか、うちわと煙たい蚊やりだけ。

生活は貧、けれども気品のある貧。冬でもはだしの足に自分たちで作ったサンダルを履いて、普通のシスターたちのような見た目にも美しいベールや修道服の代わりに、ジーンズの生地のワンピース、売り子さん達のかぶっているような被り物。今は正式なとき以外はホントのジーンズ姿のシスターたち。

正直な話、貧しさはかまわないけれど、一切プライバシーのない雑魚寝の生活にはとてもついていけないと思ったものだった。まあ、ちょっと相当特殊な修道会でもあるが、人間的には立派なシスター方だったと思う。

現代日本では物やお金がないと幸福に生きられないと思う方がかなり多いのだと思う。だからそれがないと、落ちこぼれた気持ちになり、みじめになり、やけくそになって、挙句の果てに誰でも良かった殺人のような事態になっていくような気がする。

でもねえ、お金では、名前では手に入らない本当に大切なものというのがあるのだ。それを捜し求めている人だって、この世にはまだちゃんといるのだ。

恐ろしい真実

2010-10-20 00:18:04 | インポート
わかる人たちがおしゃべりしているのを脇から見ていて、そのとんでもない内容にたまげた。

教会の現実って、やっぱり・・・sj の経営する大学の神学部の世俗化か・・・そうだろうなあ、これはもうあまりsj に期待し過ぎないでいこうと思う。結局、問題の根はそこなんだろうな。

でもとにかくこちらはこちらの言い分をいくつかここにも載せるつもりだ。以前、別のブログに出したものをあちこち探さないでもここで読めるようにコピーを載せることにする。

しかし、現実がそういうこととなると無駄かもしれないな。もし、そうならまったく新しい方向を考えねば。
いずれにせよ、こちらは神学には関係がないから、生き方自体でいくことになりそう。