ぶちぶち、ぶちぶち、内心言いたいことは山ほどあるわけだが、書いては消し、書いては消し、言ってみたところで仕方がないと思いながら、しかし気が晴れないからぶちぶちモードは続く。
腹が立つぞ、許せないぞ、ぶちぶち。 どうしてくれるぶちぶち。
ところがそこへ、以前に自分で書き込んだtwitterの呟きの記事が出てきたわけだ。探してはいたのだがtwitter側の都合か、しばらく何千という呟きがごそっとどこかに消えていたから自分でもどういうことを書いたのか忘れていた。ただ、自分自身でもかなり重要なことだったことだけはおぼえていたから、どこかにあるはずだとは思っていた。
するとやはり、ふぁぼってくれていた人がいて、出てきたのだ。
※ 『宗教の世界の理想に、清貧ということがあるんだ。ボンビー(ビンボーをひっくり返した言葉)は決して負の面だけじゃないよ。高い理想を目指しているなら必須条件でもあるんだ。ただし、それには自分の心を磨いていかないといけない。清貧はただのボンビーではないんだからね。』
※ 『結局のところ、人間は自分の死という問題をまじめに考えない限り、どうしても世界の中心に自分をおいてしまうようだ。神様に心を向けているつもりで自分を求めてしまう。この世の成功やお金、自尊心にふりまわされてしまう。祈っているつもりで自分を求めてしまう。私もそうだ』
何のことは無い、この二つの呟きこそは遥か昔々の若い頃からずっといつでも心のどこかにあって私をここまで導いてきた思いを言葉にまとめたものではないか。これだったのだ。この二つの呟きの前にはぶちぶち愚痴る思いもどこかに消えてしまう。
心磨きか・・・忍耐とか謙遜とか我慢という言葉だけを見るとつい、ぶちぶちモードにすり替わるがそれが、それこそが心磨きだったようだ。いやな思いをした時、なんとそれは心磨きのための大切な時だったのか、自分で書いた言葉のはずだがなんと教えられる言葉なのだろう。それこそ、これも大昔、故カール・ライフ神父様が言われた『本当の指導者は聖霊です』というのはこういうことかもしれないと思う。これこそは心の中で働いている聖霊が語っている言葉なのだろう。
こんな貴重な言葉をぶちぶち愚痴っている私が考え出すとはとても思えない。やはりこれは内なる聖霊が語りかけてくれたことと思うしかないではないか。生かし、支え、導いてくださる聖霊。