今日は昼前に四ツ谷に出かけ、午後の大半を四ツ谷で過ごしてしまった。昼ミサの後も残って聖三木で時間つぶしをして、ヨンパルト神父様の告別式にも出たからだ。
雨も降っているし、どうしようかと迷ったのだが、当方と四ツ谷の教会を結んだのはヨンパルト神父様の四ツ谷の教会での日曜日の午前の講座だったのだ。忘れもしない、そこで1976年にヨンパルト神父様の下でカトリックに改宗したのだ。そして、35、6年前のそのころ、当方に初めてカトリック教会の修道生活について示唆なさったのもヨンパルト神父さまだった。
あのころ神父様は、クラスからトラピスチンに入った人がいるとおっしゃっていた。手紙が来て自分はここでとても幸せだといっていたとおっしゃっていたのだけど、こちらはそれを聞いても、確かにそれは良い生活だろうと思うけれど自分にはそこでやっていける自信がないと感じていた。
今では実際の年齢より若く見られることが多いけれど、若いころは逆にとても老けて見られることが多かったのだ。現実にはそのころは父の元から外に出たこともなくて、丸っきりの世間知らずの田舎の女の子だったのに、ヨンパルト神父様は大きな勘違いをなさってこちらをしっかりした人間と思い込んでいらっしゃったので、まず第一のボタンの掛け違いがあったのだ。
修道生活は魅力があるけれど、それならちゃんと現実の私を見抜いて理解できる指導者がいないとどうしようもないと、当の自分でわかっていたのに、ヨンパルト師にはそこがうまく伝わらず、誤解を招いてしまったわけだ。それどころか、何故かその同じ時期にとてつもない誤解事件がいくつも重なってしまい、こちらは実に大変な思いをしてしまったのだ。おかげでヨンパルト神父様にも、ほかの神父様に相談してくださいと言われてしまい、どうにもならなくなっていたときに出会って助けてくださったのがライフ神父様だった。
ライフ神父様はやっぱりすごかったので、こちらの中身が外見と違って幼稚なのも見抜いてくださり、本当に必要な助言をくださっていたのだけれど、修道生活のことになると賛成はしていても観想の会があまりお好きではなかったらしく、半観想的な会がよいとお考えだったことから、すれ違いができて、そうするうちに間もなくお亡くなりになってしまわれたのだった。
なにぶん、この話の初期から最近に至るまで長年に亘って誤解し、足を引っ張り、正しく見ようとなさらなかった方々とのさまざまなごたごたもあり、(その方々が生きていらっしゃる限りはその件はこちらからは何も申しません。こちらもおばはんからおばあさんに近寄ってきたものの、あちらはもう言っても仕方のない年でしょう)、大事件が続いたおかげで、こちらもしっかりと鍛えられ、今では昔のように自分に自信がもてないという問題はなくなってしまいました。出来ない事はやはり出来ないし欠点はなくならないにしても、この自分でいくしかないとわかったわけであります。
今日の昼ミサの説教は考えさせられる説教で、まさにこれで、今日の器の話は忘れない。
改めて器である自分を見直して、今、この年齢で、この健康状態、この条件で、お役にたてる場所があるなら動いてみてもいいかなあ、という気がするのだが、まあ、主任司祭も交代したことだし、いずれおいおい、話せる機会もできるだろうし、とか今は思っている。
「ヨンパルト神父様、長い年月すれ違いばかりでしたけれど、なんだかんだといっても教わったことはどれも忘れてなどいません。法哲学は良くわからない当方も、それが教会の現実の生活の基礎にあることはわかってきましたよ。霊柩車に移されていくあなたの前で、みんなが最後に一緒に歌ったサルヴェ・レジーナ、あれはその昔、あなたが修道生活について、大事なのは『一緒に』ということです。とおっしゃった言葉そのもののようでしたよ。またあう日まで、さようなら」