食文化については、国や地域、歴史によって実にさまざまな違いがあるわけで、単においしければ何でもいいとばかりはいえない時もある。昨日見て驚いたのは、上海で飼い犬のシベリアンハスキーがさらわれ、あわや食用にされかけていたのを、探し回っていた飼い主が発見して取り戻したというニュースだった。そのワンコさんには迷子になったときのために身元がわかるようにマイクロチップが埋め込まれていたので、ちゃんと無事に飼い主の手に帰ったそうだ。
愛犬家が聞いたら誰でもかなりのショックを感じることと思う。日本人は鯨を食べるということで非難されたりもしているが、鯨なら飼い主もいないし、毎日、ご主人様に尾を振って挨拶したり、見ていて喜怒哀楽が良くわかるしぐさなどもあまり見えないから犬や猫のように必死になって探し回って守ろうとは普通は誰も思わない。グリンピースは別かもしれないが。
しかし、犬は有史以前から人類の傍らにいつも付き添ってきた動物であり、人間にとっては、家族、友達、狩の仲間、ヘルパーとして、たいていの国では大事にされて、もし、食用にするとすれば、それは人間にも食料がなくなってきてほかに手がないような状況だろう。それが、ふだん犬を食用にする国もこうして実際にあるわけだ。
その国の文化の問題となると、いいとかわるいとか決め付けることはできないわけだが、犬や猫がいつもそばにいた家で育った人間としては絶対に嫌だ。感情が先にたってしまう。あの子達は絶対食べ物ではないと思っている。
ところが、同じように愛らしさをふりまくヒヨコやウサギとなると、大きくなったのを親が締めて料理するのいやでも見ていたせいもあるのかもしれないが、あちらは食べ物でもあるという感覚なのはどうしてだろう。不思議だ。
ペットの動物と、食べ物の動物と、どこで分かれるのかというと、どうも人間との精神的なかかわりの程度が関係するような気がする。犬や猫というのはなんというか四つ足の仲間なのだと思う。それが歴史的に食用の動物扱いされる国というのは、もしかして食べていけないほど大変な時期を乗り越えてきたということかもしれない。その時期に食用にした犬の味が食文化として受け継がれて問題の種になっているということかもしれない。
愛犬家が聞いたら誰でもかなりのショックを感じることと思う。日本人は鯨を食べるということで非難されたりもしているが、鯨なら飼い主もいないし、毎日、ご主人様に尾を振って挨拶したり、見ていて喜怒哀楽が良くわかるしぐさなどもあまり見えないから犬や猫のように必死になって探し回って守ろうとは普通は誰も思わない。グリンピースは別かもしれないが。
しかし、犬は有史以前から人類の傍らにいつも付き添ってきた動物であり、人間にとっては、家族、友達、狩の仲間、ヘルパーとして、たいていの国では大事にされて、もし、食用にするとすれば、それは人間にも食料がなくなってきてほかに手がないような状況だろう。それが、ふだん犬を食用にする国もこうして実際にあるわけだ。
その国の文化の問題となると、いいとかわるいとか決め付けることはできないわけだが、犬や猫がいつもそばにいた家で育った人間としては絶対に嫌だ。感情が先にたってしまう。あの子達は絶対食べ物ではないと思っている。
ところが、同じように愛らしさをふりまくヒヨコやウサギとなると、大きくなったのを親が締めて料理するのいやでも見ていたせいもあるのかもしれないが、あちらは食べ物でもあるという感覚なのはどうしてだろう。不思議だ。
ペットの動物と、食べ物の動物と、どこで分かれるのかというと、どうも人間との精神的なかかわりの程度が関係するような気がする。犬や猫というのはなんというか四つ足の仲間なのだと思う。それが歴史的に食用の動物扱いされる国というのは、もしかして食べていけないほど大変な時期を乗り越えてきたということかもしれない。その時期に食用にした犬の味が食文化として受け継がれて問題の種になっているということかもしれない。