完徳の道-上野毛教会に出かけた

2012-12-11 23:24:26 | インポート

こんばんは~、マリーで~す。

うちのおばはんは、一番新しいほうのパソコンに腹をたてて、電源を切って箱にしまいこんじゃって、これを書くのに本当いうと一苦労してるところよ。このパソコンはもうひとつのチビタブレットよりはましなんだけど、セキュリティが弱くて、お外には持ち出せない情けないチビパソコンなのよねえ。あの人の出会うパソコンて欠陥品ばっかりみたい。ほんとにどうなっちゃってるのかしらって思っちゃう。

それはそれとして、今日はねえ、あの人、久しぶりに上野毛教会に出かけたのよ。講座が年内は今日でおしまいだし、来年の始まりは2月だから、どうしても今日は行かなくちゃって、昨日に続いて今日も朝早くからのお出かけよ。

でもって、今日出かけたのはちょうどよかったの。中川神父さまの今度の話は大聖テレジアの書いた『完徳の道』っていう本の解説ですって。うちのおばはんは、むかし、四ツ谷でおかしな女性と関わりあっちゃったばっかりに同類に見られてえらい大変だったんだけど、その女性が大聖テレジアが好きだったのよ。おまけに同じテレジアでも幼きイエズスの聖テレジアとは違って、大聖テレジアの評判はなんだかかなり良くない話が多かったのね。

それであの人、かなり長い間、大聖テレジアという方についてはあんまり良い印象を持ってなかったの。ところが、もう20数年も前だけど、教会の図書室の要らない本をほしい人は持っていっていいって、並べてあった中に、ものすごく古い岩波文庫の『完徳の道』があったのよ。何の気なしにぱらぱらとめくってみたら、なんだか面白そうだったのね、あの人、その本を持って帰って読んでみたの。そしたら、大聖テレジアという方は変な評判ばかり聞いてたのに、書かれたものを読むと、どう見てもしっかり地に足をつけた堅実な女性だし、ちっとも変じゃないじゃないの。

それ以来、あの人、大聖テレジアが好きになったの。といっても感性の違いは違いで、やっぱり理解できないものは理解できないんだけど、この方は信用できるって思ったわけよ。

それから今日までずいぶん経っちゃって、ある方たちは自分で問い合わせてみなさいっておっしゃったから、あの人、北海道と九州以外のそのころ本土にあった全部のカルメル会に手紙を書いて入会の問い合わせをしてみんな断られたの。山口が駄目だったから、これは四ツ谷は入れる気が無いんだって思ってそこであきらめて、その後、つい数年前にもう一度東京の会に手紙を書いたけど、断られたの。何しろ向こうから四ツ谷に出向いて話しにきた方が会ったのは、うちのおばはんの存在を長年握りつぶしてきた人なんだもの。無理に決まってるじゃない。当然ことわられたの。だけどあの人、東京の会の新改築の件がうまくいくように出来るだけのことは陰で手伝ってたわよ。大聖テレジアと幼きイエズスの聖テレジアが好きだったから。

そう、前に全部断られているのに、あの人だって自分からはこれ以上問い合わせるわけないじゃない。今の状況じゃますます、可能性低いから同じ霊性の違う形の生活とかになるのかなあ、とにかく、来年になったら、今の四ツ谷がどういう考えなのかちゃんと話し合わなくちゃってとこみたいよ。少なくとも今はマスコミも真相がわかってるみたいだしね。

とにかく、『完徳の道』はいろいろな意味で重要な本みたいよ。大体『完徳』って何のことか、すぐにわかるひとってそんなにいないんじゃないかしら。

うちのおばはんもわからなかったのよ。だけどある時、はたと気がついて、これは『愛』の完成のことなんだってわかったの。一生をかけて歩く道よね、みんな、ひとりひとり、違う場、違う形だけど、目指すところはおなじ道。

それがわかってから、高田三郎先生の『兄弟のように』って言う歌を聴いてすごく感激してたわよ、あの人。この歌は修道生活の歌だ、教会生活の歌だ、信者の生活の歌だって思えたみたいなの。

あ、もうこんな時間、長くなりすぎたからこの辺で止めとくわね。

ほんじゃまたね。