どうも天気の成り行きが心配で、昨日帰りにずぶ濡れになった身としてはやっぱり用心しておきたいところなので、今日は聖書の集いはお休みすることにしました。その代わり、午後から半日、ちょっと気になっていた調べものをしました。
先日、時間つぶしに聖三木図書館でカトリック雑誌を眺めていたとき、女子パウロ会の「あけぼの」の中の「映画、観ようよ!」というコーナーが目に入り、なんとはなしに気になってコピーをとってきてあったのです。
スティグマータという1999年の作品で、当時はあまり映画も観なかった頃なのでタイトルさえ初めて見ました。まったく知らない映画でも今はgoogleさんの検索を使えば映画の内容などは簡単に調べられる時代です。
何人もの方々がこの映画についてそれぞれブログなどに感想や意見はもちろん、ストーリーも書いていましたから、おかげでこちらも大体のところはわかりました。
スティグマータというのは聖痕の意味です。今の時代だったら聖痕というとピオ神父様を思い出す方もおおいかもしれません。
この映画のほうの登場人物は全然違っていて、まあ映画ですから仕方がありません。話の中身はとにかく、気になったのは最後のほうに出てくるいわゆる「トマスの福音書」の一節です。「神の国は汝の内に、周りにある。木や石造りの建物にはない。薪を割っても私はいる。石をどけてもそこにいる」という言葉でした。
どこにでもおいでということは、木や石造りの人間の手によって造られた建物の中にだっておいでになるはずだとか思ってしまいますが、ここで言おうとした意味から離れてしまうので理屈はやめておきます。
いずれにしても、私がはっとしたのはそんなところではありません。
その昔、もう何十年も前、教会の信徒講座で某神父様が神様と人間の関係を大海原の海の水と、水の中にひたされているスポンジにたとえて説明してくださったのです。水から取り出されればかさかさに干からびるスポンジも水のなかでは、ふかふかと形を保っています。
そのように人間という存在も大海原のような神様の中で生かされているのだというのです。海の中にあるスポンジが内側も外側も海水で満たされているように、人間も大きな大きな神様の中で内側も外側も神様で満たされているというわけです。
このあいだお亡くなりになった佐久間神父様の子供のための聖歌、わたしたちは魚のよう、神様の中でおよぐ、という歌を聞いたとき、あ、この歌はあれを歌っているのだと、この海水とスポンジのたとえを思い出したものでした。
そのうちにそれは人間と聖霊なる神様との関係でもあるとわかってきて、人間を内側からも外側からも生かしてくださっている聖霊なる神様に気づかされたのでした。
そうするとこのトマスの福音の言葉も不思議でもなんでもないと思ったわけです。人間の建てた建物や人間が築き上げた組織としての教会だろうと、それを生かし支えておいでなのは聖霊なる神様である以上、人間の考え、人間の思いを越えてこの教会が成り立っているのでしょう。そしてその時代、その時代に必要な方々が神様の手で選ばれ立てられている不思議な歴史を振り返ると、映画のおとぎ話どころではない本物の神秘を感じてしまいます。