真景累ヶ淵 No7 お累の自害 三遊亭圓生(六代目)
相棒 13 動画 10月スタート確定!
ついでにバカリズムさんもちょこっと。
バカリズム 「バカリズム案」 相棒
ついでにバカリズムさんもちょこっと。
バカリズム 「バカリズム案」 相棒
これは日本カトリック司教協議会諸宗教部門と上智大学カトリックセンターの共同主催での開催だったそうで、おかげでといってはちょっと申し訳ないが、大変考えさせられるよいシンポジウムだったと思う。
個人的なことをちょっと言うと、自分は十代の終わりにプロテスタントで受洗し、後にカトリックに改宗した人間で、その宗教的な土台になっているのは父方が鎌倉時代からの中山法華経寺にゆかりのある家だったこともあり、子供の頃から父に聞かされた話しが大きく影響していると思う。父の実父という人がお寺さんだったからか、父はかなり宗教的なところがあったのだ。
だから、カトリックになってからも日本人の心の奥深くにひそむ仏教や神道の影響は無視してはいけないと思っていたから、今回のシンポジウムの三人のパネリストのはなしは面白く聞くことが出来た。中でも今回はどちらかといえば島薗進先生と、奈良康明先生のお話が面白かった。
実はほんのすこしばかりだが今は亡き遠藤周作先生とのご縁があって、以来いまだに個人的に日本とキリスト教の問題を考えつづけてきている。日本人の心の深層に生きる古代からの心を探る中で、元僧侶だった、今の三井住友の住友の家祖の、住友正友という方が大切にしていたのが神道の考え方につながる、正直、慈悲。清浄だったと知って、ちょっと非常に不思議な気がしたものだった。
河合隼雄先生がまだお元気だった頃、これも遠藤先生つながりでユング心理学のきれっぱしくらいをかじったことがあったが、その程度の知識ではあるけれど、日本とキリスト教の問題を考えるとき、日本人の心の中に生きるユング的な意味での自己のシンボルに目がむいてしまうのだ。自己は幼子の姿でも表現され、同時に老人の姿でも表現される不思議な存在だが、島薗先生の日本の神様の性格の説明を伺うと、これがまた老人として出現したり、子供の姿で出現したりするという、まさにユングのいう自己の姿を彷彿とさせられるこれはどう考えたらよいのだろうか。
日本人には宗教心が無いなどといわれては困る。日本人の宗教心は明らかに欧米のそれとは表現が違うけれど、それでもちゃんとちっぽけな自分を越えた大きなもの、人間を超えた存在をそれなりにとらえているのだ。ただ、今の時代の流れの中ではこれをどうキリスト教とつなげていくことが出来るのか、それは大きな問題だ。
個人的なことをちょっと言うと、自分は十代の終わりにプロテスタントで受洗し、後にカトリックに改宗した人間で、その宗教的な土台になっているのは父方が鎌倉時代からの中山法華経寺にゆかりのある家だったこともあり、子供の頃から父に聞かされた話しが大きく影響していると思う。父の実父という人がお寺さんだったからか、父はかなり宗教的なところがあったのだ。
だから、カトリックになってからも日本人の心の奥深くにひそむ仏教や神道の影響は無視してはいけないと思っていたから、今回のシンポジウムの三人のパネリストのはなしは面白く聞くことが出来た。中でも今回はどちらかといえば島薗進先生と、奈良康明先生のお話が面白かった。
実はほんのすこしばかりだが今は亡き遠藤周作先生とのご縁があって、以来いまだに個人的に日本とキリスト教の問題を考えつづけてきている。日本人の心の深層に生きる古代からの心を探る中で、元僧侶だった、今の三井住友の住友の家祖の、住友正友という方が大切にしていたのが神道の考え方につながる、正直、慈悲。清浄だったと知って、ちょっと非常に不思議な気がしたものだった。
河合隼雄先生がまだお元気だった頃、これも遠藤先生つながりでユング心理学のきれっぱしくらいをかじったことがあったが、その程度の知識ではあるけれど、日本とキリスト教の問題を考えるとき、日本人の心の中に生きるユング的な意味での自己のシンボルに目がむいてしまうのだ。自己は幼子の姿でも表現され、同時に老人の姿でも表現される不思議な存在だが、島薗先生の日本の神様の性格の説明を伺うと、これがまた老人として出現したり、子供の姿で出現したりするという、まさにユングのいう自己の姿を彷彿とさせられるこれはどう考えたらよいのだろうか。
日本人には宗教心が無いなどといわれては困る。日本人の宗教心は明らかに欧米のそれとは表現が違うけれど、それでもちゃんとちっぽけな自分を越えた大きなもの、人間を超えた存在をそれなりにとらえているのだ。ただ、今の時代の流れの中ではこれをどうキリスト教とつなげていくことが出来るのか、それは大きな問題だ。