被災地で「ショック死」続く 睡眠・水分確保が急務 (朝日新聞) - goo ニュース
ショック死というと、何となく偶発的で、亡くなった方に責任があるかの如き印象を与えますが、記事をよく読めば、そうではないことが分かると思います。
対策として、精神科医のケアが必要だという意見もあるでしょう。それは、応急的な対応としてはその通りなのですが、一般的に述べれば、地震対策としての問題の本質を見誤ったものだと思います。
そもそも、広く精神疾患とは本人に責任がある問題だとするのは重大な誤りではないでしょうか。社会環境の劣悪さが精神疾患を招いているのであり、個人差に応じて、又当人に固有の環境に助けられて、症状を呈しない人もいるというに過ぎないでしょう。今回の地震災害にしても、避難場所がはっきりしており、そこでの生活環境には諸個人に対する配慮に欠けるところがないならば、当面は安心できたはずです。そして、住宅や地域のインフラ復旧への明確な見通しが直ぐに示されていれば、将来への不安も極小化し、ショック死などは防止できたはずです。しかし、当面の生活、将来の生活、いずれの面でも政府側の明確な対応―多くの地域共同体が孤立せざるを得なくなった情勢下では、政府の対応措置に救済を求める他はないのであり、その求めに応じてこそ、政府の正当性が示され得たはずです。―さえ見られなかったことが、多くのショック死を招いていると言うべきでしょう。
孤立する恐れがなく、しかも、各地域の独自性がかつてのように保持されているような、新たな地域共同体を再生させる措置を執ること―土地造成や道路・橋の建設などにとどまらずに各住宅の再建も担うこと―、これが政府側に課せられている課題ではないでしょうか。迷惑千万の米軍には「思いやり予算」を大盤振る舞いしている政府ならば、現に緊急の必要性に駆られている人々にお裾分けをするぐらいは簡単でしょう。社会保険庁が浪費しまくってきた額を職員から徴収するだけでも相当な額が集まるはずです。
現代は、不必要な贅沢のためには国家が大盤振る舞いをし、生命・健康・安全のために緊急の措置が必要な人を顧みることがないという、差別と収奪の時代になっています。この悪弊に終止符を打つための試金石として、中越地震対策の如何が問われているでしょう。