9月14日(水)ハーゲン・クァルテット
フーガの芸術~宇宙への旅路
東京オペラシティコンサートホールタケミツメモリアル
【曲目】
1.バッハ/フーガの技法~ コントラプンクトゥス1~4
2.ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 Op.110
3. ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 Op.130/大フーガ Op.133
昨年10月にトッパンホールで聴いたモーツァルトの演奏に衝撃的とも言える感動を覚え、「もっと本気でハーゲン・クァルテットを聴かねば!と強く思った」と感想に書いた通り、ほぼ1年ぶりにハーゲン・クァルテットの来日公演をオベラシティで聴いた。今回はモーツァルトはプログラムに含まれず、それぞれ異なる作曲家の音楽。共通するのは、どの曲もフーガが重要な役割を演じることと、ストイックでシビアな音楽という点。
バッハでは、ヴィヴラートを極力抑え、「清澄」というより、呼吸をするのも憚られるような厳粛な空気に支配された演奏。教会の厳かな礼拝に立ち会っているような気分で身が引き締まる思い。
バッハのあとの静寂で拍手がパラパラと入ってしまったが、ハーゲン・クァルテットの意図は静寂のうちにショスタコーヴィチを始めることだった。この作品も曲が曲だけに、朗々とした歌や快活な息遣いを聴けるとは思わなかったが、それにしてもシビアな演奏だ。暗闇のなかで息を押し殺してじっと動けないでいる圧迫感、時おり襲ってくる戦慄に身震いが起きるただならぬ緊張感。
「動き」の少ない演奏を聴いているうちに、まぶたが閉じて、遠くで音が鳴っているような感覚に何度も見舞われてしまったので(早い話が眠くなってしまった。。)詳しい感想は書けないが、ハーゲン・クァルテットのショスタコーヴィチは、究極のストイックな世界。激しいはずの第2楽章でもプレイヤー達がバトルを繰り広げたり火花を散らし合うのではなく、「静寂」と「忍耐」を貫いているように聴こえた。ただならぬ空気は伝わってきたが、それが心を動かすことはなかった。
後半はベートーヴェンの大曲。「大フーガ」を最後に置いた6楽章構成の形で演奏された。ここでもハーゲンSQのアプローチは変わらないが、これはずっと覚醒して聴いていた。極度に弱音に支配された音世界。4人のメンバーはこの中で究極の研ぎ澄まされた響きと表現に焦点を合わせ、細心の注意力を注ぎ込む。何かに取りつかれたかのような見えない力を感じる。音は現実に聴こえていても、4人のメンバーは現実の音を超越し、ひたすら心の声を発し、心の音を聴いているような次元の演奏。まるで聴力を失ったベートーヴェンが、心の耳で知覚したものを表現しようとしているかのごとく。
けれども、ベートーヴェンって本当にこれほどストイックなものや沈黙を自らの音楽に求めていたのだろうか。もっと大きなダイナミックレンジの中で激しいパトスをぶつけ、情熱を歌い上げたかったのではないのだろうか。
ハーゲンSQの演奏は、頭では理解できても心がなかなか動かなかったが、最後の「大フーガ」では、突然堰を切ったようにエネルギー全開でなだれ込み、これまで抑え込まれていたものに立ち向かい、みるみるテンションを上げて行った。中間部では再び「沈黙」に支配された後、それを払い除けるかのように前にも増して斬り込んで全曲を閉じた。この楽章のアプローチには大いに共感を覚えたが、どうしてこれだけここまで赤裸々な表現だったのか。それまでの楽章はこのための準備ってこと?
去年、モーツァルトで心の底から共感を覚えたこのカルテットの演奏も、考え抜かれ、徹底的に研ぎ澄まされ、緻密でデリケートな表現に徹していたという点では同じだが、今夜のハーゲン・クァルテットは、そうした共感や理解を更に越えるところまで行ってしまった。
ハーゲン・クァルテット モーツァルト・ツィクルス(2015.10.2 トッパンホール)
ハーゲン・クァルテット ベートーヴェンプロ(2008.10.1 トッパンホール)
CDリリースのお知らせ
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昨年10月にトッパンホールで聴いたモーツァルトの演奏に衝撃的とも言える感動を覚え、「もっと本気でハーゲン・クァルテットを聴かねば!と強く思った」と感想に書いた通り、ほぼ1年ぶりにハーゲン・クァルテットの来日公演をオベラシティで聴いた。今回はモーツァルトはプログラムに含まれず、それぞれ異なる作曲家の音楽。共通するのは、どの曲もフーガが重要な役割を演じることと、ストイックでシビアな音楽という点。
バッハでは、ヴィヴラートを極力抑え、「清澄」というより、呼吸をするのも憚られるような厳粛な空気に支配された演奏。教会の厳かな礼拝に立ち会っているような気分で身が引き締まる思い。
バッハのあとの静寂で拍手がパラパラと入ってしまったが、ハーゲン・クァルテットの意図は静寂のうちにショスタコーヴィチを始めることだった。この作品も曲が曲だけに、朗々とした歌や快活な息遣いを聴けるとは思わなかったが、それにしてもシビアな演奏だ。暗闇のなかで息を押し殺してじっと動けないでいる圧迫感、時おり襲ってくる戦慄に身震いが起きるただならぬ緊張感。
「動き」の少ない演奏を聴いているうちに、まぶたが閉じて、遠くで音が鳴っているような感覚に何度も見舞われてしまったので(早い話が眠くなってしまった。。)詳しい感想は書けないが、ハーゲン・クァルテットのショスタコーヴィチは、究極のストイックな世界。激しいはずの第2楽章でもプレイヤー達がバトルを繰り広げたり火花を散らし合うのではなく、「静寂」と「忍耐」を貫いているように聴こえた。ただならぬ空気は伝わってきたが、それが心を動かすことはなかった。
後半はベートーヴェンの大曲。「大フーガ」を最後に置いた6楽章構成の形で演奏された。ここでもハーゲンSQのアプローチは変わらないが、これはずっと覚醒して聴いていた。極度に弱音に支配された音世界。4人のメンバーはこの中で究極の研ぎ澄まされた響きと表現に焦点を合わせ、細心の注意力を注ぎ込む。何かに取りつかれたかのような見えない力を感じる。音は現実に聴こえていても、4人のメンバーは現実の音を超越し、ひたすら心の声を発し、心の音を聴いているような次元の演奏。まるで聴力を失ったベートーヴェンが、心の耳で知覚したものを表現しようとしているかのごとく。
けれども、ベートーヴェンって本当にこれほどストイックなものや沈黙を自らの音楽に求めていたのだろうか。もっと大きなダイナミックレンジの中で激しいパトスをぶつけ、情熱を歌い上げたかったのではないのだろうか。
ハーゲンSQの演奏は、頭では理解できても心がなかなか動かなかったが、最後の「大フーガ」では、突然堰を切ったようにエネルギー全開でなだれ込み、これまで抑え込まれていたものに立ち向かい、みるみるテンションを上げて行った。中間部では再び「沈黙」に支配された後、それを払い除けるかのように前にも増して斬り込んで全曲を閉じた。この楽章のアプローチには大いに共感を覚えたが、どうしてこれだけここまで赤裸々な表現だったのか。それまでの楽章はこのための準備ってこと?
去年、モーツァルトで心の底から共感を覚えたこのカルテットの演奏も、考え抜かれ、徹底的に研ぎ澄まされ、緻密でデリケートな表現に徹していたという点では同じだが、今夜のハーゲン・クァルテットは、そうした共感や理解を更に越えるところまで行ってしまった。
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