4月19日(金)バッハ・コレギウム・ジャパン 第132回定期演奏会
東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
【曲目】
バッハ/マタイ受難曲 BWV244
【演 奏】
TⅠ&福音史家:櫻田亮、TⅡ:ザッカリー・ワイルダー、BⅠ&イエス:クリスティアン・イムラー、BⅡ:加耒 徹/SⅠ:キャロリン・サンプソン、SⅡ:松井亜希、AⅠ:ダミアン・ギヨン、AⅡ:クリント・ファン・デア・リンデ 他
鈴木雅明指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン
しばらくご無沙汰していたBCJによるマタイがまた無性に聴きたくなり、5年ぶりに出かけた。客席はほぼ満席。ステージ中央にはポジティブオルガンと共に大きく立派なオルガンが据えられていた。このオルガンの豊かな響きと共に受難の劇的な物語が始まった。
イエスが十字架へ向かう足取りの描写と云われる、反復する低音のリズムに乗って、弦の深く透明な響きが折り重なって行く様子が、受難のシーンへと気分を一気に向かわせた。wen(誰を)、wie(いかに)、was(何を)、wohin(どこへ)、という、合唱が発する問いかけが、ことさらに鮮烈に耳に届く。イエスの言動や行い、弟子たちや民の振る舞い、それがどんな結果をもたらしたかを、しっかりと見て、聴いて、感じて、受けとめなさい、と諭しているような冒頭合唱での真っすぐな訴えが心を捉えた。
今夜のマタイで終始一貫して伝わってきたのは、聴き手の心に発せられる生きた熱いそうした「言葉」だ。それが最もリアルに伝わってきたのが、様々なシーンで歌われる合唱によるコラールだ。本来は礼拝で会衆によって歌われるコラールは、信者の心の告白だ。イエスへの愛を歌い、運命や不条理を嘆き悲しみ、或いは怒り、揺るぎない信仰を告白する。鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンによって届けられるこれらのコラールの言葉は、ピュアで、強く、熱く、一つ一つに魂が宿っていた。これぞ雄弁の極みで、バッハが伝えようとしているメッセージに、リアルタイムで共感させられ、物語に深く没入して行く。
この共感のイマジネーションを更に広げ、深めるのが、ソリスト達の歌だ。今夜のソリスト達の歌からは、「語り」より「歌」に重きが置かれるアリアからも「言葉」が強く伝わってきた。とりわけ印象深く心に残ったのは、松井亜希が歌った第8曲のソプラノのアリア。ユダの裏切りに対する嘆きを切々と歌うこのアリアがダカーポで冒頭へ帰ったとき、一気に深い内面へ入り込み、心の声が静かに届いた。
「内面の声」でもう一つ感銘深かったのは、処刑を前にしたイエスの運命を悲しむ第49曲のソプラノのアリア。サンプソンの、通奏低音の支えも消えた静寂の中でのイエスへの純粋で深い愛を伝える歌が心に沁みた。「純粋」に関連して心に残ったのは、終盤の第65曲のバスのアリア。イムラーの朗々とした歌唱が、イエスは永遠にわが心にあるという確信を包み込んだ。イムラーが担ったイエスも、格調高く存在感も申し分なく、神の子としての威光を放っていた。
これらの歌と協奏する管弦楽の雄弁さも忘れがたい。通奏低音も、オブリガートも、単なる歌のサポートを超え、歌詞はなくても自ら「言葉」を伝えていた。
物語を語り伝える大切な役であるエヴァンゲリストには、このところあちこちで大活躍の櫻田亮が抜擢された。櫻田は、声の艶、的確な発音、語り手としての冷静さを保った表現、全てにおいて、近年に体験したマタイのうちでも最も感銘深い福音史家と云って良い。その中でも最も心に残ったのは第50曲。罪人のバラバが釈放され、イエスが処刑のために引き渡されたことを伝える朗唱からは、強い驚き、疑念、絶望の表現が、聴き手の心を突き動かした。民衆の声を担う合唱のリアリティーの凄まじさはBCJの真骨頂で、5年前に受けた感銘を更に上書きする迫真の表現を聴かせた。
そして、全体を統括する指揮の鈴木の采配の見事さ。卑近な例だが、紙芝居師が、口調や声色に様々に変化させながら、シーンに合わせて絵を絶妙なスピードとタイミングで引き抜く技との共通点を感じた。間髪入れずに合唱が入るシーンや、そこからレチタティーヴォに繋がる呼吸やタイミングのコントロールが、ストーリーを生き生きとドラマチックに再現した。
こうした一つ一つの積み重ねが、一本の糸の繋がりとなって導かれた終結合唱が与えてくれた深い感銘!世界中でこの時期に演奏されているであろう数々の「マタイ」の中でも、東京でのこのマタイは、全体のクオリティと精神性の両面に於いて、間違いなく最上位にあることを確信する演奏だった。
最後の響きが消え、鈴木の高く上がった両腕がそのまま静止しているとき、こともあろうに拍手が起こってしまった。一方でそれを制止しようという空気が、その拍手を止めたが。ここで拍手をした人たちは、「涙とともに安らかに憩え」という最後の祈りの歌を聴き終えたあと、どんな種類の感銘を受けたのだろうか。最近出た「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」という本に、ライプツィヒとドレスデンの聴衆の反応について語った次のようなブロムシュテットの言葉がある。
「(終演後)まず静寂が支配したのです。華々しく沸き立つストレッタで終わる作品のときでも静まりかえっていました。聴衆は音楽がまだ鳴り響いているように感じて、拍手などといった下品な表現でもって感銘が破壊されてはならないと感じていたのです。そういう聴衆の態度はもちろん演奏者をことのほか刺激するものです。その後ようやく拍手が始まり、鳴りやまなくなるのです。」(力武京子訳)。
バッハ・コレギウム・ジャパンが、ひいては「魂のエヴァンゲリスト」とも言われたバッハが、音楽を通して聴き手にどんなメッセージを伝えようとしたかをわかっていれば、あそこで拍手は起こらなかったのでは、とも思う。
当たり前だが、音楽とテキストは一体だ。テキストが何を意味するかがわかってこそ、作品の本質が伝わる。歌詞をリアルタイムで把握するには、字幕がないので歌詞対訳が必要だが、この演奏会では1600円もするパンフレットを買わなければならない。これほどまでに真摯に、全身全霊でバッハの作品の真髄を表現するBCJであれば、プログラムを買わない多くの聴衆も容易に歌詞を理解できる方法を考えるべきではないだろうか。無料が無理なら、せめて歌詞対訳だけを別売りで安く提供してもらいたい。
BCJのマタイ (2014.4.18 東京オペラシティコンサートホール)
♪ブログ管理人の作曲♪
金子みすゞ作詞「私と小鳥と鈴と」
S:薗田真木子/Pf:梅田朋子
「子守歌」」~チェロとピアノのための~
Vc:山口徳花/Pf:奥村志緒美
合唱曲「野ばら」
中村雅夫指揮 ベーレンコール
金子みすゞ作詞「さびしいとき」
金子みすゞ作詞「鯨法会」
以上2曲 MS:小泉詠子/Pf:田中梢
「森の詩」~ヴォカリーズ、チェロ、ピアノのためのトリオ~
MS:小泉詠子/Vc:山口徳花/Pf:奥村志緒美
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東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
【曲目】
バッハ/マタイ受難曲 BWV244
【演 奏】
TⅠ&福音史家:櫻田亮、TⅡ:ザッカリー・ワイルダー、BⅠ&イエス:クリスティアン・イムラー、BⅡ:加耒 徹/SⅠ:キャロリン・サンプソン、SⅡ:松井亜希、AⅠ:ダミアン・ギヨン、AⅡ:クリント・ファン・デア・リンデ 他
鈴木雅明指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン
しばらくご無沙汰していたBCJによるマタイがまた無性に聴きたくなり、5年ぶりに出かけた。客席はほぼ満席。ステージ中央にはポジティブオルガンと共に大きく立派なオルガンが据えられていた。このオルガンの豊かな響きと共に受難の劇的な物語が始まった。
イエスが十字架へ向かう足取りの描写と云われる、反復する低音のリズムに乗って、弦の深く透明な響きが折り重なって行く様子が、受難のシーンへと気分を一気に向かわせた。wen(誰を)、wie(いかに)、was(何を)、wohin(どこへ)、という、合唱が発する問いかけが、ことさらに鮮烈に耳に届く。イエスの言動や行い、弟子たちや民の振る舞い、それがどんな結果をもたらしたかを、しっかりと見て、聴いて、感じて、受けとめなさい、と諭しているような冒頭合唱での真っすぐな訴えが心を捉えた。
今夜のマタイで終始一貫して伝わってきたのは、聴き手の心に発せられる生きた熱いそうした「言葉」だ。それが最もリアルに伝わってきたのが、様々なシーンで歌われる合唱によるコラールだ。本来は礼拝で会衆によって歌われるコラールは、信者の心の告白だ。イエスへの愛を歌い、運命や不条理を嘆き悲しみ、或いは怒り、揺るぎない信仰を告白する。鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンによって届けられるこれらのコラールの言葉は、ピュアで、強く、熱く、一つ一つに魂が宿っていた。これぞ雄弁の極みで、バッハが伝えようとしているメッセージに、リアルタイムで共感させられ、物語に深く没入して行く。
この共感のイマジネーションを更に広げ、深めるのが、ソリスト達の歌だ。今夜のソリスト達の歌からは、「語り」より「歌」に重きが置かれるアリアからも「言葉」が強く伝わってきた。とりわけ印象深く心に残ったのは、松井亜希が歌った第8曲のソプラノのアリア。ユダの裏切りに対する嘆きを切々と歌うこのアリアがダカーポで冒頭へ帰ったとき、一気に深い内面へ入り込み、心の声が静かに届いた。
「内面の声」でもう一つ感銘深かったのは、処刑を前にしたイエスの運命を悲しむ第49曲のソプラノのアリア。サンプソンの、通奏低音の支えも消えた静寂の中でのイエスへの純粋で深い愛を伝える歌が心に沁みた。「純粋」に関連して心に残ったのは、終盤の第65曲のバスのアリア。イムラーの朗々とした歌唱が、イエスは永遠にわが心にあるという確信を包み込んだ。イムラーが担ったイエスも、格調高く存在感も申し分なく、神の子としての威光を放っていた。
これらの歌と協奏する管弦楽の雄弁さも忘れがたい。通奏低音も、オブリガートも、単なる歌のサポートを超え、歌詞はなくても自ら「言葉」を伝えていた。
物語を語り伝える大切な役であるエヴァンゲリストには、このところあちこちで大活躍の櫻田亮が抜擢された。櫻田は、声の艶、的確な発音、語り手としての冷静さを保った表現、全てにおいて、近年に体験したマタイのうちでも最も感銘深い福音史家と云って良い。その中でも最も心に残ったのは第50曲。罪人のバラバが釈放され、イエスが処刑のために引き渡されたことを伝える朗唱からは、強い驚き、疑念、絶望の表現が、聴き手の心を突き動かした。民衆の声を担う合唱のリアリティーの凄まじさはBCJの真骨頂で、5年前に受けた感銘を更に上書きする迫真の表現を聴かせた。
そして、全体を統括する指揮の鈴木の采配の見事さ。卑近な例だが、紙芝居師が、口調や声色に様々に変化させながら、シーンに合わせて絵を絶妙なスピードとタイミングで引き抜く技との共通点を感じた。間髪入れずに合唱が入るシーンや、そこからレチタティーヴォに繋がる呼吸やタイミングのコントロールが、ストーリーを生き生きとドラマチックに再現した。
こうした一つ一つの積み重ねが、一本の糸の繋がりとなって導かれた終結合唱が与えてくれた深い感銘!世界中でこの時期に演奏されているであろう数々の「マタイ」の中でも、東京でのこのマタイは、全体のクオリティと精神性の両面に於いて、間違いなく最上位にあることを確信する演奏だった。
最後の響きが消え、鈴木の高く上がった両腕がそのまま静止しているとき、こともあろうに拍手が起こってしまった。一方でそれを制止しようという空気が、その拍手を止めたが。ここで拍手をした人たちは、「涙とともに安らかに憩え」という最後の祈りの歌を聴き終えたあと、どんな種類の感銘を受けたのだろうか。最近出た「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」という本に、ライプツィヒとドレスデンの聴衆の反応について語った次のようなブロムシュテットの言葉がある。
「(終演後)まず静寂が支配したのです。華々しく沸き立つストレッタで終わる作品のときでも静まりかえっていました。聴衆は音楽がまだ鳴り響いているように感じて、拍手などといった下品な表現でもって感銘が破壊されてはならないと感じていたのです。そういう聴衆の態度はもちろん演奏者をことのほか刺激するものです。その後ようやく拍手が始まり、鳴りやまなくなるのです。」(力武京子訳)。
バッハ・コレギウム・ジャパンが、ひいては「魂のエヴァンゲリスト」とも言われたバッハが、音楽を通して聴き手にどんなメッセージを伝えようとしたかをわかっていれば、あそこで拍手は起こらなかったのでは、とも思う。
当たり前だが、音楽とテキストは一体だ。テキストが何を意味するかがわかってこそ、作品の本質が伝わる。歌詞をリアルタイムで把握するには、字幕がないので歌詞対訳が必要だが、この演奏会では1600円もするパンフレットを買わなければならない。これほどまでに真摯に、全身全霊でバッハの作品の真髄を表現するBCJであれば、プログラムを買わない多くの聴衆も容易に歌詞を理解できる方法を考えるべきではないだろうか。無料が無理なら、せめて歌詞対訳だけを別売りで安く提供してもらいたい。
BCJのマタイ (2014.4.18 東京オペラシティコンサートホール)
♪ブログ管理人の作曲♪
金子みすゞ作詞「私と小鳥と鈴と」
S:薗田真木子/Pf:梅田朋子
「子守歌」」~チェロとピアノのための~
Vc:山口徳花/Pf:奥村志緒美
合唱曲「野ばら」
中村雅夫指揮 ベーレンコール
金子みすゞ作詞「さびしいとき」
金子みすゞ作詞「鯨法会」
以上2曲 MS:小泉詠子/Pf:田中梢
「森の詩」~ヴォカリーズ、チェロ、ピアノのためのトリオ~
MS:小泉詠子/Vc:山口徳花/Pf:奥村志緒美
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