そしてこのアンケートだけでは、その死後の自分の個性がどこまで残ると考えているのか、ということはよくわからないが、従来の死者への「供養」の意味合いが変化して来ていることから推測できるように思う。
以前の死者への供養の目的は不安定な魂を鎮めるということであった。しかし、火葬の普及で死者へのケガレ観が薄まるにつれ、死者は恐れから愛情の対象へと変わった。
現代では祖先を「祖父母や両親」くらいを範囲として考えている人が多いと以前の記事で書いたが、祭祀の対象が家の代々の祖先から自分と生きる時代をともにした愛情を持つ身近な死者に主に移っていったと考えられる。
(ここでは大きく触れないが、家の代々の祖先から身近な家族に対象が移っていったのは、家制度の崩壊の影響も多分に関わっている)
ロバート・J・スミス氏のいうように、現代では遠い昔の死者に対する礼拝は影を潜め、近年亡くなった親族のものに対してのみ愛情を注ぐ傾向、すなわち単純化された「供養主義」(メモリアリズム)が強まっているということである。(『現代日本の祖先崇拝―文化人類学からのアプローチ』より)
恐らく、祖霊となり個性がなくなるという考え方は、例えば仏教を通じての年忌供養を行っている場合に、僧侶からそう説明されれば、「ああ、そういうものなのだ」という認識は持つものかもしれない。しかしそれは、すでに単なる「慣習」というものになっており、単にそれに従っているだけなのではないか。
現代では、従来の祖霊への観念はすでに持っていない人が多いのではないかと予想する。
現代においては、生者の側から供養の意味を問うとすれば、「死者の存在を忘れない」という意志をこめているのではないのだろうか。それは生者の観念の中で死者の生前の個性を保ったまま、供養をする事である。
それは、死者の側からも同じように言えることである。
『現代お墓事情』にある一人の女性のエピソードがある。
彼女は年の頃は50過ぎで若い自分に離婚し、子どももいない。そのような事で比叡山延暦寺の永代供養墓地を自分の分と彼女の両親の分を買ったのだが、まだお墓にはだれも入っていないのに、しばしばここを訪れている。彼女はここにくるとほっとするという。墓を買った事によって、もし自分にもしもの事があったら両親がこまるだろうという心配から解放され、また死後のすみかが決まったという事で、安堵感を覚えたというのである。
そして、ここに来て、所長さんと話す事により、自分の死後、自分の墓を守ってくれる他人に少しでも自分を焼き付けることができたらと考えている。この人はこんな人だったと日々のお勤めの中で自分を思い出してくれたら楽しいではないかというのである。
このようなエピソードからは、死後も自分の存在を忘れずにいてほしい、と願う気持ちが見えてくる。
おそらく、現代では死者の個性が保たれるのは、自分が関わった生者がこの世を去るまでの期間になるのだろう。
現代の日本人が死後も自分の個性を保ち存在するという認識を持つ傾向にあるのは、死者が恐れから愛情の対象に変化し、供養への観念も変化したことにある。
「鎮魂」から「メモリアリズム」に変化したとき、その死者の個性は生者の中でずっと保たれる。そして死後も霊魂が存在するという観念の中にも「個性」が反映されることになったのだろう。
以前の死者への供養の目的は不安定な魂を鎮めるということであった。しかし、火葬の普及で死者へのケガレ観が薄まるにつれ、死者は恐れから愛情の対象へと変わった。
現代では祖先を「祖父母や両親」くらいを範囲として考えている人が多いと以前の記事で書いたが、祭祀の対象が家の代々の祖先から自分と生きる時代をともにした愛情を持つ身近な死者に主に移っていったと考えられる。
(ここでは大きく触れないが、家の代々の祖先から身近な家族に対象が移っていったのは、家制度の崩壊の影響も多分に関わっている)
ロバート・J・スミス氏のいうように、現代では遠い昔の死者に対する礼拝は影を潜め、近年亡くなった親族のものに対してのみ愛情を注ぐ傾向、すなわち単純化された「供養主義」(メモリアリズム)が強まっているということである。(『現代日本の祖先崇拝―文化人類学からのアプローチ』より)
恐らく、祖霊となり個性がなくなるという考え方は、例えば仏教を通じての年忌供養を行っている場合に、僧侶からそう説明されれば、「ああ、そういうものなのだ」という認識は持つものかもしれない。しかしそれは、すでに単なる「慣習」というものになっており、単にそれに従っているだけなのではないか。
現代では、従来の祖霊への観念はすでに持っていない人が多いのではないかと予想する。
現代においては、生者の側から供養の意味を問うとすれば、「死者の存在を忘れない」という意志をこめているのではないのだろうか。それは生者の観念の中で死者の生前の個性を保ったまま、供養をする事である。
それは、死者の側からも同じように言えることである。
『現代お墓事情』にある一人の女性のエピソードがある。
彼女は年の頃は50過ぎで若い自分に離婚し、子どももいない。そのような事で比叡山延暦寺の永代供養墓地を自分の分と彼女の両親の分を買ったのだが、まだお墓にはだれも入っていないのに、しばしばここを訪れている。彼女はここにくるとほっとするという。墓を買った事によって、もし自分にもしもの事があったら両親がこまるだろうという心配から解放され、また死後のすみかが決まったという事で、安堵感を覚えたというのである。
そして、ここに来て、所長さんと話す事により、自分の死後、自分の墓を守ってくれる他人に少しでも自分を焼き付けることができたらと考えている。この人はこんな人だったと日々のお勤めの中で自分を思い出してくれたら楽しいではないかというのである。
このようなエピソードからは、死後も自分の存在を忘れずにいてほしい、と願う気持ちが見えてくる。
おそらく、現代では死者の個性が保たれるのは、自分が関わった生者がこの世を去るまでの期間になるのだろう。
現代の日本人が死後も自分の個性を保ち存在するという認識を持つ傾向にあるのは、死者が恐れから愛情の対象に変化し、供養への観念も変化したことにある。
「鎮魂」から「メモリアリズム」に変化したとき、その死者の個性は生者の中でずっと保たれる。そして死後も霊魂が存在するという観念の中にも「個性」が反映されることになったのだろう。