レナード・ジェイコブソン氏について
Leonard Jacobson
この瞬間に深く存在するプレゼンス(実在)を極めたスピリチュアル・ティーチャー。
1944年オーストラリア、メルボルン生まれ。元弁護士。
1981年から1997年までに6度の神秘的な目覚めのプロセスを体験している。目覚めへの本当の鍵である「今この瞬間」が人生の基盤となるよう、世界各地を訪れ、人々のサポートを行っている。主著に『JOURNEY INTO NOW』(邦題:「今この瞬間」への旅)がある。
11.全体像が知りたい
2016年3月15日ウェブキャストより。
男性からの質問:(笑いながら)実はどうしても知りたいことがあります。大きな全体像を知りたいのです。人生とか、肉体のこと、死、体外離脱の体験とか。あなたの答えが「この旅路の最終ゴールは、この瞬間に存在することだ」であることは分かっているのですが、この魂の旅って一体何なのだと思うのです。
レナード:とっても簡潔な言葉で答えましょう。でもそのためには、あなたはしっかりプレゼンス(今この瞬間に在ること)していなければなりません。この答えがあなたに届くためには、その必要があるのです。あなたのマインドに届いても意味がありません。私が言うことをマインドは受け取ることができません。最も簡単な言葉で答えようと思います。いいですか? 準備はできていますか?
男性:いいえ、まだだめです。たっぷり説明してもらいたいです。
(会場笑)
レナード:(リラックスして楽しんでいる様子で)彼が長い説明を要求したので、私は説明を減らすことにします。4語までに縮まりました。それですべてが説明できます。皆さん、しっかりプレゼンスにいてくださいよ。答えを逃さないように。
“One cannot know itself.”
(一なるものは、自らを知ることができない)
他の言葉では言えません。
(了)
12.レッスンだって?
2016年3月15日ウェブキャストより。
男性からの質問:昨日、あなたの ”JOURNEY INTO NOW”(邦題:「今この瞬間」への旅)を読みました。魂の旅のところで、魂はレッスンを学ぶためにここにきたというくだりがありました。それを読んで、もの凄く怒りが沸き上がりました。まるで私の中のルシファーが出てきたようでした。今はそれがメランコリーに変わっています・・・
レナード:オーケー。そこでとめて。それが表現されているただ中にあるとき、本を読んでルシファーが表出しているとき、ルシファーに表現させてあげたら、彼は何と言うでしょうか? 即答して。
質問者:これじゃ不公平だ。反逆してやる。
レナード:何が不公平ですか。即答して。
質問者:全部。すべての存在が。このゲーム全体が。
レナード:いいえ(あなたではなく)ルシファーに聞きます。あなたはどいていてくださいよ。何が不公平ですか?
質問者:どうして私は地上に来なきゃならなかったのだ。
レナード:あなたは地上に来たくなかったのですか?
質問者:はい!
レナード:どこにいたかったのですか?
質問者:警察です。(笑)
レナード:オーケー。もう一つの方も変化させてしまいましょう。リラックスして。メランコリーは何と言っていますか?
質問者:絶望的だ、と。
レナード:何が絶望的ですか。ワン・センテンスで。
質問者:私に必要なレッスンを学ぶことが、です。
レナード:オーケー。それではこれからルシファーとメランコリーの両者に向かって話をします。いいですか。
あなたたちは完全に正しいです。100パーセント正しいです。あなたたちは決してレッスンを学ぶことができません。あなたたちには一切レッスンがありません。以上です。ありがとう。
(質問者が深いため息を吐く)
彼はそうかもしれません。ダニー、こっちを見て。彼にはそうかもしれませんが、あなたたちは違います。彼には永遠の存在が見えています。あなたたちはエゴです。あなたたちは彼ではありません。あなたたちは自分が彼だと思っていますが、違います。彼はあなたたちを越えています。彼は不滅です。彼はあなたたちを愛しています。彼はあなたたちを見捨てたり、置き去りにしたりしません。
いいニュースがあります。あなたたちはレッスンを学ぶ必要がありません。それがあまりにも大変であれば、決してやり遂げることはできません。実際それは大変なものではなく、簡単なものです。
エゴ、メランコリー、ルシファー。エゴは集団的レベルでは何だと思いますか?(会場から「ルシファー」と声が上がる)
ルシファーとかデビルとか悪い名前が付けられます。しかし、それはただの集団的エゴです。ちっぽけなサイクルをくるくる回っているだけです。
(悪魔のような面白いジェスチャーで)お前を分離の中に留めてやる。お前は俺のものだ。俺がコントロールするのだ。俺は神よりも強いぞ。もし神が俺よりも強いのなら、この玉座に俺様を座らせておくものか。俺様は神より偉大なのだー、ハ、ハ、ハ。レッスン? 何のレッスンだ。俺様にレッスンが必要だと? 俺が勝者だ。
ですから、エゴと正しい関係を持たねばなりません。そしてゲーム終了となりますが、エゴはゲームを終わらせたくありません。しかし、もしあなたがこの瞬間に存在しているのなら――あなたは今の瞬間、プレゼンスの状態にありますか? イエスかノーか? (イエス)。
よろしい。あなたのマインドは静まっていますか? (イエス)。
この瞬間に問題はありますか? (ありません)。
まさにこの瞬間に、何か学ぶべきレッスンはありますか? (あります)。
何を?! (わかりません)。
あなたはレッスンが欲しいのですね。この瞬間にレッスンなんてありません! つまりはそういうことです! すべてのレッスンを学んだから今、あなたはここにいるのです。ただこう言えばいい。「ありがとう、神様。私は今、ここにいます」。レッスンはおしまい。次にストーリーに巻き込まれたときには「あっ、またレッスンだ」ということで、何の問題もありません。
レッスンとは、どこであなたがストーリーにとらわれるかということです。そしてどうやってそのストーリーから自らを自由にするか。
レッスンとは、愛の本質とは何かです。というのも、ほとんど全員が偽の愛に迷い込むからです。
レッスンとは、パワーの本質とは何かです。私たちは偽の力に迷い込むからです。被害者があなたか私かなんて関係ありません。どちらにしても偽の力に迷い込んでいるのです。
私たちは判断を下すことに迷い込んでいます。
本当のレッスンとは、どうやってプレゼンスから離れることから自分を守るか、ストーリーに入り込むことから自分を守るか、です。
どこで迷い込むのか、どのように迷い込むのか。そしてどうやってこの瞬間に自分を戻してあげるか。この瞬間において、何のレッスンがあるというのでしょう。あなたはここにいるのです。つまりそういうことです。あなたのマインドが静まっているのなら、レッスンを学ぶ可能性なんてあるのでしょうか。しかし、ストーリーに引き戻されるのに気が付いたなら、レッスンがあります。「ああ、オーケー。注意しよう。どんなふうにストーリーに巻き込まれるのか見ておこう。それに対する責任を引き受けよう」。それがレッスンです。
あなたが魂のチャンピオンなのです。魂が高まっていく、その目的はワンネスに戻ることです。なぜなら、魂の旅はワンネスから始まり、その行き着く先は究極的にワンネスだからです。
魂はあなたにレッスンのようなものを授けます。愛の本質、本当の力、受容と思いやりの本質、本当のあなたは何者なのか。たくさんのレッスンがあります。
しかし、マスターレッスンは、魂自身が知らないものです。魂はマスターレッスンを知りません。これが落とし穴なのです。今、魂はこれを聞いているかもしれません。あなたの魂は聞くことができます。あなたがプレゼンスにあるなら、魂は聞いています。断言します。あなたがプレゼンスにあるなら、魂にはあなたが聞こえます。マスターレッスンはとてもシンプルなものです。プレゼンスの瞬間という戸口を通してワンネスが開放されます。その時即座に、他のすべてのレッスンは終わります。即座に学び終わります。
愛の本質とは何か。私がそれである。
本当の力とは何か。 私がそれである。
何もかもが明らかになります。すべてのレッスンが、ある意味でマスターレッスンに織り込まれています。プレゼンスの瞬間という戸口を通してです。
そして魂自身は、まさに初めに大きな間違いを犯しました。魂は、レッスンを学ぶことで自分自身を完璧にできると信じてしまったのです。いつか未来に完璧になれるのだ、と。あなたがすべてのレッスンを学び、特定のカルマを解放すれば、魂はその結果として究極のゴール、即ちワンネスの状態に到達するのだ、と。それは、魂の勘違いです。それは未来に起こりようがないことですよ、皆さん。それは落とし穴です。それは今しか起き得ません。
あなたが本当にプレゼンスに在る瞬間、あなたは魂を解放しているのです。
あなたが本当にプレゼンスに在る瞬間、魂もプレゼンスの状態に揃って並ぶことができます。
あなたがストーリーに巻き込まれると、魂もアラインメントから外れていきます。
外れては戻り、外れては戻りということを繰り返しながら、プレゼンスを確立していきます。すると、もう決してプレゼンスの外に引きずり出されることはありません。今や魂もその状態にあります。そういう意味で、あなたは自分の魂のチャンピオンなのです。
私が言っていることを、難しく取らないでください。ここにあるものと共に存在するという、単純なことなのです。そしてあなたをプレゼンスから引き離すすべての状況に気付きをもたらすこと。それは2つのステップです。あなたに必要なのは2つのステップだけです。この瞬間を尊重しながらプレゼンスの中で落ち着いてリラックスしていること。人生の真理を現している者として、そうするのですよ。同時にステップ2として、ストーリーに巻き込まれるとき、引きずり込まれるのを感じるとき、他者の中で自分を失うとき、自分をジャッジするとき、エゴがプレゼンスからあなたを蹴っ飛ばすとき、その度に、あなたはその瞬間をすべてつかまえます。ゆっくりゆっくり、あなたはマインドとエゴをマスターしていきます。結果的にそうなります。プレゼンスにしっかり基礎を据えることは、マインドとエゴをマスターすることです。あなたはトリックを見逃しません。どの石もひっくり返します。思考が出てきたら、即座にキャッチします。それに賛成するとか反対するということではありません。ただキャッチするのです。目撃し、認知するのです。「アハッ!」。
でも、それはあなたをプレゼンスから引き離しません。なぜなら、あなたはそれに逆らったりしないからです。感情が出てきても同じです。あなたはそれを感じます。その感情を許します。泣いたり怒ったりするでしょう。5秒間は。制限された信念も出てきます。自分はいい人間じゃない。それに気付いて、意識に上らせます。「ワーオ」。
人に言ってもいいのではありませんか。
「ちょっと告白したいのだけど、自分はいい人間じゃないという感情が出てきたよ」。
別の言い方もありますよ。
「お願いだから、私は良い人間だと言ってちょうだい。頼みます」。
あるいは
「ファック・ユー。あんたが何て思おうと僕は気にしないさ」。
(質問者に)オーケー?
(了)
13.至福
2016年3月15日ウェブキャストより。
質問者からの手紙:あなたが目覚めた人として言及していたラマナ・マハリシの教えを読みました。彼は、まったき喜びは絶対者だと言います。至福とは常にそこにあるものだとも言います。真我の至福は常にあなたと共にあり、真剣に求めれば、それを見つけることができる、と。一方、あなたは、至福について教えているのではないと言います。あなたとラマナ・マハリシの教えの食い違いを解決してくれますか?
レナード:「もしあなたが十分熱心に十分長い時間をかけて求めれば、あなたはついにそれを見つけることができます」が、質問者の引用した部分です。私が言っていることは「もしあなたが至福を求めれば、あなたはそれを見つけることができません。もしあなたが至福を求めれば、あなたはプレゼンスに在りません」。特に至福というのは非常に人の気を引きやすいものです。
至福を求めることが問題なのです。
プレゼンスを求めることが問題なのです。
悟りを求めることが問題なのです。
あなたは、すでにここにあるものを求めることができません。
もちろん、最も深いプレゼンスの目覚めは至福に満ちています。ですが、その至福は微妙に質の違いを帯びています。強烈な至福を感じるときもあれば、穏やかな優しい感覚、むしろ平安を感じるときもあります。要は、至福も平安も区別できるようなものではありません。私の体験では、深いレベルでは至福を経験していますが、私の場合プレゼンスに関連して鳴り響いているものは平安です。
もちろん至福も湧き上がるでしょう。そのときにはそれを楽しめばいい。愛が湧き上がるかもしれません。喜びが湧き上がるかもしれません。それは素晴らしいことです。
あなたがそういうものを求めるなら、プレゼンスに目覚めることです。それが本当のポイントです。
もしあなたがプレゼンスにいて至福を経験したのなら「おい、素晴らしいじゃないか。至福に満たされているよ」。しかし、そのような思考と至福を同一視しないでください。「これは素晴らしい。これこそ求めていたものだ。これを握っておかなくちゃ」と言って。その途端に(至福が入ってくるプレゼンスという戸口が)閉じてしまうからです。至福があれば、それを楽しみ、それが過ぎれば、過ぎ去るに任せます。至福というものは、その性質上体験の一つに過ぎません。喜びも至福も幸福も。それよりも深いレベルのものがあります。それは「一なるものが体験している」です。
誰が至福を体験するのですか? ―― I AM.
そしてあなたが本当にI AMに留まっているのなら、至福を超えたところに連れていかれるかもしれません。
(長い沈黙の後で)
ですから、マハリシと私に食い違いがあるとは言いません。求めることに迷い込まないで、ということです。私が人々にプレゼンスを勧めているのは、至福のためではありません。幸福、喜び、あるいは悟りとも関係ありません。そのためにプレゼンスを勧めているのではありません。私たちはプレゼンスを選びます。とてもとてもシンプルな理由のために。私は、記憶、ファンタジー、想像という、幻想の世界で迷うよりも、自分にとって唯一有用な本当の人生の中に存在していたいのです。幸福がある一方で惨めさがあり、喜びがある一方で恐ろしいことがある。そのような巨大な幻想世界に嵌まり込まずにストーリーを手放すためには、私はプレゼンスを選ぶ理由を認識しなければなりません。
プレゼンスを選ぶ本当の理由は単に「私はここにいないよりは、ここにいたい。以上です。ありがとうございました」ということなのです。
もしそれが普段通りの平凡なことであるなら、私はそれで構いません。
それが至福であるなら、私はそれで構いません。
喜びが湧き上がるのなら、そうさせるし、通り過ぎるなら、そうさせる。
なぜなら留めておこうとしないからです。
留めておこうとした瞬間に、過去にとらわれる。
欲したり求めたりする瞬間に、未来にとらわれる。
でも、私がただここにいるとき、私は誰か。これは私の答えられない質問です。
「私は自分が何者なのかわかりません 」としか答えようがない。私はただ在るのです。ストーリーが終わります。
それが目覚めです。目覚めとはストーリーが終わることです。私は今、ここにいます。過去や未来から出てきました。私のストーリー、夢から出てきました。
私は今、ここにいます。ハレルヤ。そういうことです。
(了)