「ラムサ ホワイトブック」改訂版 松野健一訳 水山産業出版部 2014年3月13日初版 より抜粋
第20章 体験の価値
思考の探索という冒険の中で、あなたは人間と呼ばれる細胞形態を通して表現することを選んだ。それはあなたが、人間の体験、つまり物質という制限された形態の中で生きる神について、学ぶべきことを全て学べるようにするためだった。この体験は、神についての完全な理解を得るためには必要なことである。…悲しみや限界、そして死という幻を体験する前に、喜びや自由や永遠をどうやって理解できるだろうか?
あなたは自分のゲームや幻をものすごく真剣に演じているが、それらの本当の目的は、単にあなたに教え、あなたを成長させ、あなたを覚醒させ、あなたが自分自身を理解するのを助けることに過ぎない。この人生は、叡智という、人生における最も偉大な宝物のために、様々なゲームを演じ、幻を体験するための舞台に過ぎないのだ。
…叡智とは、神と呼ばれる思考の様々な領域への冒険全てから、あなたが得た感情の蓄積であり、この場所を去るときにあなたが持っていくただひとつのものである。…感情を得ることこそが、人生の最大の目的なのである。
宗教的、政治的な支配による暴政や制限を通して、つまり人種間の分断と差別、男女の分断、兄弟同士の分断を通して、人類が学んできたあらゆることは、神の地位をおそらくこれまでで最も低いところにまで貶めることによって理解されたものである。…どれも実際に体験してみなければ、どんな感じがするのか決してわからなかっただろう。自分でそういったものを夢見ることによって現実化し、その夢を意図的に生きる創造者にならなければ、あなたがそれらを感情的に知ることは決してなかっただろう。だが、数多くの人生、数多くの瞬間にそれを生きることによって、それはあまりにも確固とした現実になってしまい、ほとんどの人間はひどく神経質で不安になり、この夢の中にすっかり埋没してしまった。…あなたは単に、そもそも自分でこの夢を創造したことを忘れてしまったに過ぎない。そして、いつでも好きな瞬間にそれを変えられる選択肢を持っていることも忘れてしまったのだ。
あなたは自分の幻を大いなる苦悩と悲しみの物語に仕立て上げてしまう。…あなたは偶像を崇拝する。あなたは他者に対して批判的である。あなたはすぐに価値判断を下し、憎しみに溢れ、所有欲が強く、恐れており、実に傲慢である。だが、その目的は何なのか?それは、そのようになることがどういうことなのかを理解することである。その最終的な成果とは何なのか?決して死なず、永遠に生きることだ。天の王国と呼ばれるものを理解し、それを内面に抱くことだ。そして、神の顔を見ること、それが自分自身の顔であることに気づくことである。
私はこれまでにあなたがなってきたもの、そしてこれからなるものの全てである。私があなたのところにやって来たのは、あなたが既に自分の中に持っている「知っている状態」を再び目覚めさせるのを手助けするためである。そして、それによって、あなたが自分を見失ったり、罪悪感や恐れや自己否定の中で苦しむことが二度とないようにするためだ。あなたは本当にそんなものよりも遥かに偉大なのだ。
…さて、あなたが自分の間違いや失敗だとみなしているものについて語りたいと思う。
人間が創造した、正しい-間違っている、完全ー不完全、と言った概念は、同時に罪悪感、自責の念という罠を生み出したが、罪悪感や自責の念は、人が人生の中で成長していくのを非常に困難なものにしてきた。だが、存在(エンティティー)たちよ、私はあなたに言うが、この天界でのあなたの数多くの人生がもたらした美徳のことを考えれば、あなたがこれまでにしてきたあらゆることは、悪いものではなく、またいいものでもないのだ。それらは単に、人生におけるひとつの体験に過ぎず、今のあなたをつくるのに役立ったのだ。そしてそれこそが、最も大切で素晴らしいことなのである。なぜなら、この「今」という瞬間のあなたは、この驚くべき旅を始めて以来、これまでで最も偉大であるからだ。というのも、あなたの叡智はこれまでのどの瞬間よりも偉大だからである。
あなたがこれまでにしてきたことの全てのことは、私も同じことをしてきた。そしてあなたの過ちと同じ数だけ、私も過ちを犯してきた。…だが自分の存在の弱さを知るまでは、自分の存在の強さを知ることは決してなかっただろう。自分の中から生命が流れ出ていくのを見るまでは、生命を愛することは決してなかっただろう。そして、人間の残酷さを軽蔑するまでは、あなた方すべてを抱き容れることは決してできなかっただろう。
あなたがこれまでにしてきたあらゆることは(例えそれがどんなに下劣で酷いことであっても)、単に自分の学びの機会を創るためにしたことなのだ。そして、その学びを通して、あなたは傷つき、苦痛や悲しみを味わい、自分を貶めてきたが、それでもあなたはそこから立ち上がったのだ。なぜなら、今ここにいるあなたは、自分の本当の姿である美を知り、それを抱き容れる準備ができているからだ。
自分が失敗した、あるいは何か間違いを犯したという風に思うものたちは、次のことを熟考してほしい。あなたが生み出された瞬間から、あなたの愛すべき兄弟たちは、全ての思考を感情的に理解していくという壮大な冒険を始めた。…一つひとつの思考を、あなたは受け容れ、魂の中で感じてきたが、まだ完全に理解していない思考については、あなたの魂はあなたがそれを体験するように強くうながす。なぜか?その思考の全ての側面について、完全な感情的理解を得るためであり、それは体験を通してのみ得ることができる。この体験こそが、生と呼ばれる価値在るものなのである。
…その創造性が現実化したものを、全て体験するように駆り立てられてきた。…愛と喜びから、ねたみや憎しみや悲しみへ、そして再び喜びへと。あらゆる形の思考、あらゆる態度、あらゆる感情を完全に理解するという、その欲求を満たすことができるように、あなたの魂は体験から体験へ、冒険から冒険へとあなたを駆り立ててきた。あなたが思考の全てを知り、理解できるようにするためだ。思考の全てとは、神の全て、自己の全てのことである。
あなたの魂は、まだ体験していないものを渇望する。…それがあなたの存在の全てをとらえ、冒険、つまり体験へとあなたを駆り立てるのだ。そして、その体験が終わり、そこからの感情が収まるとき、その体験は、…素晴らしい宝物をあなたにもたらしたことになる。あなたを叡智の中に進めたのである。その体験が叡智になったということは、あなたの魂が「もうこれは二度と体験する必要はない」と言っていることを意味している。…それから、あなたは別のことを渇望し、何か他のことをするように駆り立てられる。なぜなら、あなたはそれをする必要があり、それをしたいからだ。
…あなたがすることは何でも、あなたがそれをやっているまさにその瞬間に、その体験が自分にとって正しいことをあなたは魂の中で知っているのだ。その冒険を体験し、その冒険から生じたフィーリングが叡智へと固まって初めて、「たぶんもっとうまくできたのだろう」、あるいは「違うやり方でできたのだろう」ということをあなたは認識するのである。だが、先ずその体験に乗り出し、そこから叡智という宝石を獲得するまでは、もっとうまいやり方があったことは決してわからなかっただろう。そんなことで審判を下されるべきなのだろうか?そんなことはない。なぜなら、それは「無垢」と呼ばれており、されにそれは「学び」とも呼ばれているからだ。
…本当の意味で、生きることに失敗するものなどいない。誰もいないのだ。あなたがやってきた数々の行為、すなわち卑劣で、軽蔑に値するような、隠すべき行為(実はそんなことはないのだが)にもかかわらず、あなたは今でも生きており、それこそが奇跡的な出来事である。「失敗する」ということは、「止まる」ということを意味している。だが、止まることができるものなど何もない。…生きることが絶え間なく拡大していく中で、それぞれの瞬間は、さらに偉大な、そしてそれよりもさらに偉大な理解を常にもたらし続けるからである。
あなたは一度も失敗したことなどない。つまり、あなたは常に学んできたのだ。不幸になる前に、幸せとは何かをどうやって知ることができるのか?
あなたはこれまでに間違いを犯したことはない。一度たりともないのだ。あなたは一度も間違ったことをしたことがない。どうして罪の意識など感じるのか?あなたの全ての間違い、失敗、過ちは、より適切な言葉で言えば、「神へのステップ」と呼ばれるものだ。そして、あなたがいま知っている全てのことは、このステップを一歩一歩進んでくることによってのみ、知ることができたのである。
学ぶことに対して、絶対に罪悪感を感じてはいけない。叡智に対して、絶対に罪悪感を感じてはいけない。それは「覚醒」と呼ばれている。これまで自分は自分がする必要があったことをしてきたのだ、ということを理解しなければならない。全ては必要だったのだ。そして、あなたは全てにおいて正しい選択をしてきたのである。全てにおいて、である。
…あなたが抱くあらゆる思考、あなたが体験するあらゆる幻、あなたのあらゆる発見、そしてあなたが行うあらゆる下劣で酷いことは、全てあなたの理解を広げる。そして、それが今度は、人類全体の意識を養い、それを拡大するとともに、神のマインドを拡大するのである。
人生において失敗した、あるいは何か間違ったことをしてしまった、という風にあなたが思っているとすれば、あなたは自分の内面と外面の偉大さ、そして人生全体の重要性に気づく能力を衰えさせていることになる。自分の過去のどの部分であろうと、それをなくしたいなどと絶対に思ってはならない。過去のどんな部分でもだ。なぜなら、あなたの全ての崇高な体験と卑しい体験から生まれた葛藤が、あなたの魂の中に偉大なる美しい叡智の真珠を生み出したからだ。それは、もう二度とそれらの夢を見る必要はないし、それらのゲームを創造したり、それらを体験したりする必要はないことを意味している。…自分の魂の中にそれらに関する記憶、すなわち人生において何にも勝る本当の宝物である「フィーリング」と呼ばれるものを持っているからだ。
私がここにいるのは、愛についてあなたの理解を超えるほど、あなたが愛されているということを伝えるためだ。というのも、あなたはこれまで、自分自身を理解しようと奮闘しているひとりの神として以外、見られたことがないからだ。そして、自分の全ての生におけるあらゆる体験から、あなたは知識と叡智を獲得してきた。あなたはそれらを世界に与えてきた。広がりつつある生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。
あなたのこれまでの人生は、あなたのうちに宿る炎が生み出した素晴らしい壮観だった。それは、敬意を払うべきもの、聖なるもの、神なるものとして再評価されるべきである。なぜなら、あなたが何をしようと、あなたは常に神であるからだ。どのような仮面を身につけようと、あなたは神なのだ。どのような人間関係を体験していようと、あなたはそれでも神なのである。
…だが、これまで自分がしてきた全てのことは、単に自分自身である神についての理解を得るためだったということに気づくまでは、あなたは決して「私は在る」という状態になることはないし、永遠への扉を通過することもない。あなた自身である神とは、人生という舞台でのあなたのあらゆる体験がもたらした美徳を通して、今ここで実演されているものである。
自分の背後にのしかかる重荷を抱えている者は、もしそうすることが自分を幸せにするのであれば、そうしなさい。だが、もしそれから学ぶべきものを全て学び、いい加減うんざりしているのなら、そんなものは捨ててしまいなさい。どうやって?それらを愛し、抱き容れ、自分の存在の中にそれらがあることを許すことによってである。ひとたびあなたがそうしてしまえば、それらが再びあなたを押さえつけることはなくなる。そしてその後は、生きることの素晴らしさを透明な視界を通して見ることができ、愛を価値判断なしに感じることができ、存在することの喜びが、無限の「知っている状態」の力となることができるのである。
自分の人生を抱き容れなさい。自分が神聖なる存在であることを知り、これまで自分がしてきたこと全てがあったからこそ、自分の存在の強さがあるのだということを知りなさい。罪悪感を持つのをやめなさい。悲しみに浸るなどという、馬鹿げた演技はやめなさい。自分に重荷を背負わせるのをやめるのだ。自分以外の誰かを責めるのをやめなさい。自分自身でその責任を負うのだ。それはあなたの責任なのである。
さて、これまであなたが価値判断を下してきたことを全て抱き容れ、軽蔑してきたものを全て愛し、自分の全ての幻を生き、自分の全ての夢を追い求めてしまったとしたら、どうなるのだろうか?あなたは、他の人々がそういったものを自分たちの学びのために体験しているのを見て、それを理解し、彼らに対して思いやりを持つことができるようになる。そのときあなたは、「父」があなたを愛するのと同じように彼らのことを愛することができるのだ。そして、彼ら自身の人生体験がもたらす美徳を彼らに持たせてあげることができる。そのとき、あなたはいわゆる「聖者」になるのである。
どうすれば聖者のようになれると思うだろうか?禁欲的な生活を送ることによってではないのは確かだ。洞窟や寺にこもって香を焚いたり、高い山の頂上に座って、わけのわからないことを熟考することによってではないのも確かである。…人生を最大限に体験することによって叡智という美徳が究極のところまで達し、その結果、人類全体を受け容れ、愛することができるほどの状態になることによって、あなたは聖者になれるのである。
神を知り、神になるためのただひとつの方法は、人生を完全に生き、それを完全に抱き容れることだ。つまり、あなたの魂が全ての生の叡智を持てるよう、全ての状況を体験し、全ての感情を感じ、全ての崇高な行為と全ての卑しい行為をすることなのだ。
…美徳に溢れた人生への道は、あらゆるものを内包するものなのだ。それは人間の意識の中で創造されたあらゆる性質、あらゆる状況の幻を内包している。これこそが、最も賢く、もっとも高貴な存在たちが、人類の冒険が創り出した全ての状況を生きてきている理由である。彼らは売春婦であり、聖職者であった。彼らはグルであり農民であり、殺人者であり殺された者であり、征服者であり征服された者であり、子供であり親であったのだ。
あなたにもわかるはずだが、あなたが他人を非難するのは、自分の中の受け容れることのできない側面を他人の中に見つけているからに過ぎない。もしあなたが全ての状況を既に生き、その全てを安らかに受け容れることができているのならば、あらゆる人間を理解し、価値判断なしに彼らをそのままでいさせてあげるのは簡単なことである。何故なら、あなたは既に彼らになったことがあり、彼らに価値判断を下せば、自分自身に価値判断を下してることになるのを知っているからだ。そのとき、あなたは真の思いやりという美徳を得たのであり、深い愛があなたの魂の中に存在するのである。そのときあなたは、まさにひとりのキリストだ。何故ならあなたは、様々な制限の中にいる愛すべき兄弟たちを、理解し、愛し、許すことになるからだ。
「父」の全てをそのまま愛する、その全てになるということは、「父」であるもの全てを愛することだ。そして、「父」であるもの全てとは、あなたの周りにいる愛すべき兄弟たちのことである。どのように見えようと、あなたが自分の現実の中で神であるように、彼らもまた彼らの現実の中で神なのである。そして、彼らの栄光、彼らの奮闘、彼らの悲しみと喜びをあなたが全て生きたとき、あなたは全ての人々に中に見える神を抱き容れることができるのだ。そのとき、あなたは彼らを愛することができる。それは、世に出て彼らに教えなければならないとか、彼らを救わなければならないということではない。ただ単に、彼らをそのままにしておき、彼らの必要性と意図に従って進化させてあげるのだ。
この世界にいるあらゆる者は、飢えていようと、体に障害があろうと、農民であろうと、王であろうと、その体験から何かを得るために、自分の体験を選んだのだ。…
あなたがひとりのマスターになるとき、制限された意識の暗闇と泥沼の中に脚を踏み入れながらも、あなたは自分の全体性を維持することができる。何故なら、あなたは世に溢れる大衆のことを理解しており、彼らが何故そういう状態なのかを理解しているからだ。それは、あなたもかつてはそうだったからである。あなたは彼らに、制限された状態でいることを許すわけだが、これこそが本当の愛である。何故なら、そうすることが、彼らが制限のない理解を持ち、互いに愛し合うことを学ぶことができるただひとつの道であることをあなたは知っているからだ。互いに愛し合うとは、もちろん自分自身を完全に愛することである。そして、あなたが群衆の中にひとつの顔を見るとき、その肌の色や清潔さや外見にかかわらず、その存在の中に神を見るのである。何故なら、あなたがじっくりと見つめれば、誰の中にも神を見い出せるからだ。そのとき、あなたは「父」が愛するように愛している。そして、「父」が見るものを自分自身の中だけでなく、他のあらゆる者の中にも見るのだ。あらゆるものを見て、彼らの本当の美しさを見ることができたとき、あなたはこの天界から、たくさんの館があるさらに壮大な空間へとアセンドする旅路についている。だが、自分自身を完全に抱き容れ、自分のまわりのあらゆる生命の中に生きる神を抱き容れることができない者には、その扉は閉じられたまままのだ。
あなたが人々を神という本来の地位に戻し、何をしていようとも、彼らは自分の内なる神のために生きていることを知るとき(これは、あなたが自分の内なる神のために生きているのと同じだが)、あなたは全ての人々を愛することを学ぶことができる。彼らの表現がどんなものであろうと、これまでの存在ではじめて、あなたは本当の意味で彼らを愛することができるのだ。というのも、あなたの愛は価値判断によって制限されたり、抑制されたりするものではないからだ。そして、これがまさに、キリスト、すなわち「神として生きる人間」の内面の在り方なのである。
人生におけるあなたの道とは何だろうか?それは、いつでも自分のフィーリングに従うことだ。つまり、自分の魂の中にあるフィーリングに耳を傾け、それを体験するよう魂があなたを駆り立てる冒険に乗り出すことだ。…もしあなたが何かに退屈していたり、それをする欲求がないのであれば、あなたは既にそれを体験し、その冒険から得られる叡智を既に手に入れてしまったということである。だが、もしあなたが何かをしたいのであれば、魂の中にあるその促しは、その体験を通して、そこから得られる叡智という美徳を手に入れなければならないことを意味している。それをすることを控えたとしても、別の機会、あるいは別の存在になるときまで、あなたはその体験を引き伸ばしているだけなのだ。
自分の内面に感じるものに対して正直に生き、それを感じている自分自身を愛しなさい。そのフィーリングは表現され、満たされなければならないことを理解するのだ。もしあなたが何かをしたいならば、それが何であるかにかかわらず、そのフィーリングに背くのは賢いことではない。何故ならそこには、あなたを待っているひとつの体験があり、人生をもっと楽しくしてくれる壮大な冒険が待ち構えているからだ。もしあなたが自分のフィーリングに耳を傾けるならば、あなたの美しい自己が深遠なる叡智へと進化していくために、あなたは常に正しいことをしているのだ。あなたの体が病気になったり、神経症や絶望が訪れたりするのは、あなたが自分のフィーリングに従わないときなのである。
自分の本心に従い、自分の夢、自分の望みを追い求めなさい。それが何であろうと、魂があなたに求めることをして、それを完結させなさい。そうすれば、あなたは次の冒険へと進んでいくだろう。自分の周りにいる者たちの価値判断を受け容れない限り、あなたは決して価値判断を下されることはない。そして、もしあなたが彼らの価値判断を受け容れるとしても、そのような体験をするために自分の意志でそうするに過ぎない。
この人生か、あるいはこれからやって来る人生で、あなたがもはや何もしたくなくなり、ただ「在る」ことを望むときがおとずれる。売春婦や泥棒や殺人者、あるいは戦っている国を、それらの行為に基づいて罵ったり、審判を下したりしたい気持ちがもはやなくなってしまうのだ。あなたはそういったものに既になってきたので、彼らのような状態でいるのがどういう感じがするかを知っているのである。この天界での体験が既に完了しているので、それを体験するためにここに引き戻されるようなものが、もはや何もないのだ。そのときあなたは、さらに偉大な存在の天界での新しい冒険へと旅立つのである。
私がいま語ったことについて熟考してみるとき、あなたは自分自身の中にある本当の価値に気づき、理解するだろう。その価値とは、あなた自身であるパワフルな神、炎、生命を、目的を持って意図的に「見せる」ことにあるのだ。また、人生においてあなたがどういう方向に進みたいとしても、それこそがあなたの覚醒への道であることも分かるだろう。そして、その道の途中にあるあらゆる冒険から、あなたは自分自身の神秘について、さらに偉大な理解を得ることができるだろう。あなたは自分であるものを愛し、大切にし、磨き上げるようになり、あなたの存在の光は天空の偉大なる太陽(ラー)と明るさを競い、あなたの内なる平穏は、地上の全てが寝静まったときの真夜中の静寂に匹敵するほどになる。あなたが自分自身を否定することは二度となくなる。自分であるものを変質させることも決してなくなる。自分であるものに価値判断を下すことも決してなくなるのだ。あなたは自分であるものを、在るがままでいさせてあげるのである。
自分であるものをそのまま愛するとき、あなたは高潔さと威厳、そして謙虚な強さとともにこう言える。「私は『父』を深く愛する。『父』と私はひとつだからだ。私は私であるものを深く愛する。『私は在る』という状態の私は、在るもの全ての本質だからだ」と。そのとき、あなたは生命の流れと調和している。あなたはこの天界を歩くひとりのマスターである。あなたは復活したキリスト、目覚めたキリストである。あなたは世界の光となるのである。だが、自分がしてきたあらゆることを愛して抱き容れるまでは、そしてそれらが全て、自分の人生のために役立ってきたのだということに気づくまでは(何故ならそれは、今日のあなたという立派な存在をつくり上げたのだから)、あなたはそうなることができないのである。
私はこれまで、いくぶん威厳のある話し方で、あなた方にこの素晴らしい教えを伝えてきた。というのも、そうすることによって、カルマや罪、審判や天罰といったものに引っかかっているあなた方を解放できるからだ。「父」とは愛である。そして「父」は審判を下さない。「父」は善悪を持っていない。プラスもマイナスも持っていない。「父」は、ただ単に存在する「在ること」である。そしてその「在ること」は、全ての人々、全ての行為、全ての思考、全ての感情、全ての物を内包している。もし「父」があなたに審判を下すようなことがあれば、「父」は間違いなく自分自身に対して審判を下していることになる。何故なら、あなたと「父」はひとつであり、同じものだからだ。
人生と呼ばれる神の愛は、いつでもあなたに与えられてきた。あなたの数々のひどい体験にもかかわらず、太陽は昇り、天空を横切ってきた。季節はやって来て、去ってゆく。野鳥は北の空へと飛び去る。そして、あなたが部屋のシャッターを閉めるとき、夜鷹はまた鳴くのだ。もうあなたにもわかったはずだ。もしあなたが目を向ければ、これらの絶え間ない継続性の中にこそ、人生があなたに常に与えてきた許し、そして永遠というものがあることに気づくだろう。
軽やかで、愛に溢れた気持ちで、この会場から去りなさい。何故なら、あなたの重荷は取り除かれたからだ。あなたが救われることも確実だ。神はあなたを愛していること、そしていつでも愛してきたことを知りなさい。自分は悪ではなく、善でもないことを知りなさい。完全でも不完全でもなく、ただ単に「在る」だけだということを知るのだ。自分の人生の中に「父」が入ってくることを望みなさい。というのも、「父」は常にそこにいたのだから。そして、愛について熟考するときは、いつでも私のことを思ってほしい。すると、どこからともなく風が吹いてくるだろう……。