星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

快晴の野辺山で当たり前を考える。

2023-02-16 21:50:58 | 日記

2月16日

 

 外は雪が積もっていて、さぞかし寒いかと思いながらコンビニに向かって歩いていると普通に暑くなってきた。10センチほどの厚さの雪の絨毯が敷き詰められた広大な畑を横にしながらも、寒気を感じずにマフラーを外してしまうほどであった。なんならコートも脱いでしまいたいほどで、ここが本当に長野県の標高1000メートル以上のエリアなのかと疑わしくなるほどに暑い、そんな2月の半ばの環境となっていた。天気は快晴、ここ野辺山では青空が広がると八ヶ岳がくっきりと見える。まるで電気小売店で売られている最新大型テレビのデモ映像のように綺麗な画質である。それはいわずもがな映像の世界ではなく本当の現実であり、それを毎日のように拝んでいる自分は贅沢者のように思えてしまう。リゾバをしていくにあたって、環境や景観の変化は楽しむ要素のひとつとして受け入れるのが筋のように思っている。いや別に嫌ってしまうのならば致し方ない話ではあるが、単純にそのほうが得である。ここの八ヶ岳の風景、広大な雪の絨毯、星空、これらは以前自分が住んでいた大阪のゴミゴミしたビルディングの隙間からは決して拝めることのない代物である。ここは梅田駅もない、道頓堀も新世界もあべのハルカスもあいりん地区も何もかもがない。考えるまでもなくこちら野辺山の方が退屈な空間になりそうなものである。

 

 しかしそれでも自分は大阪にいた時の自分からそう大きな変化を遂げることなく今に至っている。もしかしたら自分では気づいていないのかもしれないくらいに微細な変化なのかもしれないが。でもそうそう人は変わらないものだと思っているし、自分を変えてくれるのは自分しかいないとも考えている。そう簡単に環境が変わったからと言って、相変わらずなところは本当に相変わらずであるし、ダメなところはダメなままだ。ずっと10歩くらい先に理想の自分がいる。それならば10歩くらい歩いていけばすぐにそれに触れられるものかと思いきや、今度はその自分と歩幅を合わせていかなくてはならない。そして歩くスピードが遅くておいていかれる。気がつけばまた10歩くらい差が空いていてげんなりしてしまう。それを繰り返して生きている。多分その10歩先を歩くゴーストと自分が完全に重なり合い続けていくことはないに等しい。それでも追いかけることに意味があり、それ自体に価値がある。完璧を目指してはいても、完璧になることは不可能であることを悟らなければいけない。いつだって人は不完全だ。それでも開き直りは許されるものではない。もどかしいような、でも当たり前のことであるから、しかたない。そんなジレンマを抱えているのが全人類共通の課題のように感じる。

 

 当たり前のこと。でもわざわざ当たり前のことを確認しなければいけない時があるのはまあまあ不思議でもあるのだが。いつまでも当たり前のことを見続ける必要はなくて、でも自分のターニングポイントのところでは復習をするように見返すのだ。無意識下ではわかっていることを、わざわざ意識の表層まで押し上げて、言語化して価値観と照らし合わせる。それをするのは自分のためだろうか。それとも誰かのためとするのか。いやきっと自分のためだ。人のために生きていたら、自分がなくなってしまう。自分のために生きなければ、人のために生きることは難しい。だから自分だけはしっかり持たなければならない。そんな真面目な話。こんな話してたら本当にキリがない。酒呑んで忘れて寝よう。


めんどくさい45日のカウントダウン。

2023-02-16 00:21:39 | 日記

2月15日

 

 もう、2月15日になった。2月の折り返しに来るのが早い気がするし、2023年が始まってからもう45日くらい経っている事実もさらに早い気がしてくる。時の流れが早いと感じるのは、その速い流れに頭が着いていけていないからなのだろうかと考えたりする。これからどんどん頭の回転も鈍っていき、物の見方も不純物が混ざり合う濁ったレンズでしか見通せない。愚かに愚かを重ねていく。それに抗う形でしか自分を表現できなくなるのかと不安の翳りが自分を覆う。いやそうではないと信じたい自分もまた存在している。

 

 そして今自分が住んでいる長野県の某八ヶ岳エリアの某ホテルの寮。ここでの生活もあと1ヶ月半となっている。もう45日もここにいないのだ。その事実は何となく遠巻きに眺めてゆとりを保てそうな感じがして、実際はそんなに先の話ではないように感じる。もう言っている間に次に行くところを考えるか、はたまた延長したりするかの決断も必要になってくる。延長・・・か。なんだか、これからどうしたらいいのか分からない。正直な話、延長するのも次に行くのもめんどくさい気がしてきている。いうなれば決めるのがめんどくさいというわけだ。こんなに色んな文章を考えてわざわざタイプしてブログにあげて誰かに見られて、という一連の流れを今普通にしているのに、これからのことを決める方がめんどくさいと感じるのはなんでだろう。自分に限らず、人は決断するのがめんどくさいと感じる生き物なのだということはわざわざ記すまでもない。

 

 決めたら行動しなければならないのだ。行動したら環境が変わるし、それに対応しなければならないし。決断することは果てしないめんどくさくて害悪なものである。決断する必要のない人生に生まれたら、どんなに楽で圧力に押し潰されない人生を歩むことができただろう。きっと悩みに精神を蝕まれる必要のない人生を歩めただろう。決断しない人生。ひとつ考えてみると、そんな都合のいいものなんてあり得なさそうで、案外あり得そうにも思う。普通に細々と慎ましく生きていれば、人は安定するものである。でも自分は全くもって不安定な環境の変化を続けていて、どこで人生詰むのか知れたものではない。数ヶ月毎に職場を転々とする生活。それに何かしらの意義を持っているのなら話は別だが、自分の場合何の意義も感じていない。ただ流されているつもりの馬鹿者である。流されているようで、実際はしっかりと自分のコントロールしようとしていて、そのためには決断を強いられているのである。

 

 でも今の生活を辞めたからと言って、精神の安寧を確約できるとは限らないし、そもそも安定できなかったからこんな生活をしているわけである。どの道自分には安定はないのだと諦め半分の俯瞰した態度だ。もし安定する人間ならば、今でも大阪に住んでいるはずだろうし、そもそも実家を出なかったはずだろう。実家で安定しなかったから自分は何度も何度も実家を脱走してそれを繰り返して、そして大阪に住んでいたけれどひょんなことから下り始めた精神力を止められることができずにノックダウン。それでリゾバをしている。なんて意義のない生活だろうかと改めて思う。自分が意義を欲しているのはわりと自覚している。与論島を出られたのは意義を求めていたからのようにも思う。南国の緩やかさが自分の意義の行き所のなさに拍車をかけた。長閑な空間。優しい人たち。ここだけで満たされそうなところ、いや満たすべきところ。人として次の段階を目指すものでもない。与論島は与論島のままで存在し続けていて、こんなイカれたようにせっせと文章を書いている癖に安定を求めてその実転々としているやつには似合わない。

 

 やっぱり自分には決断力が必要だと思う。世間で安定した職や地位に就いている人々の数百倍は必要なのだ。でも決断力は必要でも、じっくり先を吟味することの大切さをちゃんと心の内に留めておくべきだろう。じゃないと本当に詰みそうだ。