3月1日
早いもので春になった。それを待ち望んでいたわけではないけれど、外に出ても肌寒くなくなっていた。標高の高い野辺山でも雪解けは始まって、スケートリンクのようにガチガチに凍っていたアスファルトは乾燥した姿を曝け出していた。3月だった。
春が始まって、少しだけのんびりした気分になっていく。冬の時のように引き締まった気持ちが、今ではほぐれていくような感覚になる。予定ではこの場所での生活もあと1ヶ月となる。12月から暮らし始めて、およそ3ヶ月。自分はこの野辺山で何かすることができただろうか。何かを求められただろうか。まるで意味のない放浪になっていないかと心配になる。そんな意識の高さも出ちゃったりする。訪れてしまったからには、何かを求めたい。何かを残したい。記憶以外に、残せるものが欲しい。そうやって考えては、焦ったりして、そんな自分が嫌になったりする。どこかで食い違ったような気持ちの高まりがやかましい。でも普通にしていれば普通のままだ。何が普通で何が特別かを決める筋合いを自分は持たない。でも自分は無意識に特別を感じたり、特別を求めたりする。だからかは知らないけれどここに辿り着いたのだと思う。
それが時間の経過を加速させて、もう春になっている。これまた焦るようで、でも春の長閑さは超然とした春である。八ヶ岳が見えるこの景観は、都会の喧騒が恋しくなる。そんなものに駆り立てられないと自分が加速しない。速く動けない自分がひどく鈍間に感じる。周りの人たちが滞りなく人生を送っているようにも見える。余裕がないと、物事の表面を見ること以上の判断がつかなくなる。一つの物事に深みを見出したり、関連性を広げて次に行けるかは自分次第なのにそれができなくなる。それがわかっていてなおも周りが羨ましい時がある。芽を咲かせられない自分。特別な人を見つけられない自分。住む場所も決められない自分。他の人たちは少なくともそんな人たちではない。
いつかはこの自分自身を、誰とも比較せずに認められるだろうか。競争していく社会が嫌で大嫌い、それなのに誰かと比べたがる自分。それに答えは見つけられるだろうか。自分は自分だと、胸を張って言えるだろうか。難しい。