星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

変わり目かもしれない

2023-03-28 23:37:55 | 日記

3月28日

 

もうすぐで4月が始まろうとしていてなお、ここ野辺山では冷ややかな霧雨が八ヶ岳の方面から降り注いでくる。先週くらいからずっと天気は雨模様で、時には霰のようなものもポツリポツリと降る日もある。もはや3月の晴れの日よりも寒い気がする。天気がよければ、気温も上がると思うのだが、今のところ寒い。そんな春だったりする。

 

今月いっぱいでこの野辺山での生活も終わる予定だったのだが、わけあってGW終わりまで滞在期間を延長することにした。次に行くところが見つからなかったのだ。箱根、佐世保、与論と来てのこの野辺山で、このリゾバ生活もいよいよ足止めとなった。理想では4月から北海道の札幌付近でどこか手頃なリゾバ先を見つけるつもりだったのだが、そんな甘い理想は簡単に打ち砕かれた。4月の北海道は閑散期らしく、派遣会社のサイト内で求人を検索してもいいものが見つからない。それならばと北海道に限定せず、全国規模で探してみたのだが、それでもピンとくるものがないのだ。

 

リゾバ生活ももうすぐ1年に差し掛かろうとしている中でこれは初めての経験だった。今までなら、次に行くところを探していく中で、行ってみたいところや興味のある職種は2、3個くらいあったものだ。それが今回は1つもないのだ。全く興味のないところばかりではないのだが、今の状況から無理やりに脱出したくなるほど行きたいところはなかったりするわけだ。

 

これはリゾバ生活を続けていた今までの自分にはなかった気持ちだ。もしかしたら転々としていくこの生活にも飽きが生じてきたのかもしれない。ここにいたらとりあえずは働ける。飯も食える。それでいいんじゃないかと薄々思っているような自分がいるのだ。それ以外の仕事していない時などの面で、自分は試されていると言ってもいい。どうやってそのような時間を過ごしていくのか。こんな山ばかりの世界で、こうしてブログを書いて、本を読んで、賢くなった気がして、でもその先のことはいつも迷ってばかり。

 

意識をいくら高く見積もっても、打ち砕かれるのはいつものことだ。じゃあふざけ倒して楽しいことばかりのものに囲まれていても、結局は大阪のシェアハウスを出た時のように、何かしらの物足りなさを感じてしまう。所詮は選択肢がありふれた人間の一種の贅沢みたいなものなのかもしれない。だから、選んでいる暇があれば、突き進んだほうがいいのかもしれない。そろそろそんな時期かもしれない。


草野正宗の「火」

2023-03-28 00:24:40 | 日記

3月27日

 

「暖めるための 火を絶やさないように 大事な物まで 燃やすところだった」

 

スピッツの「若葉」の歌詞の一部である。スピッツの歌詞には難解なものが多いとか、インターネットでよく言われていることではあるが、わりかしそういうわけでもないと自分は思っている。ただ他のミュージシャンより、どこかつかみどころがなくて、脱力感も少し垣間見えるようで、それでいてなお真似することの難しい、そんなバンドだと思っている。

 

そもそも詩に答えを求めることがナンセンスだったりする。詩を見た時に感じたことを広げていく内面世界が、いわゆる読み手がわの答えなのだ。「こういうふうに感じてくださいね」と凝固したような言葉の羅列は、詩としての味わいを殺しているようなものだ。答えがないものの方が、その分読み手側の自由が働く。スピッツの曲に答えがないものが多いのは、それが詩たる持ち味を保っていることの証拠だろう。

 

しかしあまりにも具体的なものがなくなると、そこにはメッセージもない、それこそただの文字の羅列に感じてしまうわけで。その塩梅は書き手の手腕に求められるものになる。どこまでその世界を広げられて、どこまで書き手の意志を宿すものにできるのか。

 

曖昧で、性を連想させたり、死を連想させたりと、スピッツの草野正宗の歌詞はいつもそんなところではあるが、たまにその強い意志のようなものが見え隠れするところがある。それが上記の「若葉」の歌詞である。

 

この一文に、「暖める者」と「火」と「大事な物」の三つの立場がある。この三つの立場はさまざまなものに置き換えられるものである。自分はこの何気ない一文に、世の中のいろいろな立場の縮図のようなものを感じたりする。

 

誰かの味方につくことで一つの生きがいを得る。だから人は孤独になることを拒む。同時に特定の誰かに守られることを求める。世の中は奪い合いとか殺し合いのような殺伐としたものだと喩えられることが多いが、同時に誰かを助けたり助けられたりの世界でもある。助け合うのか、殺し合うのか、どっちにしろ「火」が重要になってくる。暖めたり、照らしたりすることのできる「火」。しかし同時に、燃やしたり、苦しめたりすることのできるものでもある。世界が安定して保たれるためには、この「火」が殺し合うためのものではなく、暖めるためのものでなければならない。その真理をわかっていなければ、「若葉」のこの一文は書けないと思う。「燃やすところだった」といううっかりミスしてしまいそうな茶目っ気な歌詞もスピッツの特徴であるが、それもまた危うげな武器としての「火」を表しているようで、なんとも趣深い。

 

とまあこんな感じで、歌詞を読み取ってみた。別に何かの情報をあてにしたわけではないから、真意は不明である。詩なんて読み手が勝手に決めればいいのだ。